新年くらいは、というので、
1月5日まで、朝日・読売・産経の3紙をとってみました。
1ヶ月ぐらいとればよいのでしょうが(笑)、
とりあえず、今日の5日まで。
すると、5日の「編集手帳」の読後感が味わいあり。
ということで、コラムの話。
まずは、5日の「編集手帳」。
全部引用したいのですが、後半だけにします。
「10年連用の日記帳を使っている。
4年目に入った。去年の、あるいは一昨年の同じ日に
何をしていたかを知るには便利だが、
『あの日』が近づいてくる感触に
ペンを持つ手が止まる夜もある。
地が揺れたとき、津波が襲ってきたとき、
ああしていたら、こうしていたら・・と、
『残念』の一語ではとうてい言い尽くせない痛恨の情に、
身を苛(さいな)んでいる被災地の方もいるだろう。
益体(やくたい)もないコラムを書いてしまった悔いや、
懲りない二日酔いなど、ばかな失敗を綴れる日々の、
何と贅沢なことよ。」
うん。正月三が日をゴロゴロしていた身としては、
最後の数行が、グッと身近にせまってくるような感触。
そして、本棚から
坪内祐三著「考える人」(新潮社)をとってきて、
深代惇郎の箇所を再読。
そこで引用される深代惇郎の「天声人語」から
すこし孫引きしてみます。
「・・・・書くことがなくて・・・
政治の悪口を書くといってはふがいない話だが、
そういう時もある。
本人は、ほかにないから書いているのであって、
そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、
コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、
自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。
ジャーナリズムには、
そういう気のひけるところがある。」
ここを引用したあとに、坪内祐三さんは
「これこそまさに『天声人語』です。かつて、これほど正真な心情を吐露する新聞コラムニストが日本にいたでしょうか。・・・そういうレベルの、どきっとするようなリアリティを持ったコラムを、深代惇郎は毎日毎日、読者に提供し続けたのです。」
ちなみに、今日の2012年1月5日朝日新聞「天声人語」はというと、
「気のひける『書生論』」を、述べ立てた、見本みたいです。
ところで、深代惇郎について、
坪内祐三さんが注目した箇所。
それは、一度とりあげた同じネタを再使用しているコラムを並べて比較しながら、引用したあとの指摘でした。
「『天声人語』を担当して一年に満たない最初の一文は、普通のレベルのコラム文です(あくまで客観的な文章です)。しかし、そのあとの文章は、客観の中にさりげなく主観がまじりあい、しかもその主観が独得のユーモアをかもし出しています。この八ヵ月の間に、深代惇郎はコラムニストとしての腕をぐっと上げています。」
ここで、ちょっと休憩して、私は最近身近に置いてある杉山平一詩集「希望」から、詩「待つ」を思い浮かべておりました。
待つ
待って
待っても
待つものは来ず
禍福はあざなえる縄というのに
不幸のつぎは
また不幸の一撃
ふたたび一発
わざわいは重なるものとも
知らず
もう疲れきって
どうでもいいと
ぼんやりしていた
それが
幸せだったと気づかず
さて、坪内祐三さんは、深代惇郎の『天声人語』への、
少女の相談に注目しており。
そこが、今回再読して、気になりました。
少女が夏休みの宿題として、コラムの要約・感想を
課せられ、その課題が『天声人語』・『社説』だったようです。
少女の手紙には、こうあったというのでした。
「いくら読んでも何が書いてあるのか分からない日がある。一日に二時間以上かかるときがある・・・」
その次の坪内祐三さんの文は
「そして彼(注:深代惇郎)は、少女の相談を誠実に受け止め、『文中で論理が飛躍したところ、発想が転換したところ、問題が急に抽象化されたところでつまずくのではあるまいか』と自問自答しています。まさに、その、『論理の飛躍』や『発想の転換』部分にこそ、深代惇郎の『天声人語』の特別な持ち味があったのです。その意味で、彼以降の『天声人語』の方がよっぽど、手軽るに『要約』できます。・・・」
ちなみに、詩「待つ」の最後の二行
「 それが
幸せだったと気づかず 」
で、思い浮かんだのは、この坪内祐三さんの「深代惇郎」を語り始める最初の箇所なのでした。ちょっとくどいかなあ。まあいいや引用しておきます。
「ミスター『天声人語』といえば、かつて、昭和30年代までは荒垣秀雄ですが、そのあと、すなわち二代目ミスター『天声人語』は深代惇郎です。これは常識です。・・・先日、私より18歳年下である編集者のK青年と話していたら、彼が、深代惇郎のことをまったく知らないと言うので、ちょっと驚きました。彼にとって、『天声人語』は、ものごころついた時から、すでに、今のような『天声人語』であって、かつてのそれが輝いていた時代があったことを知らないのです。」
さてっと、もうすこし駄目押しの引用で終ります。
「今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針はどうなっているのか知りませんが、当時、私(注:坪内祐三のこと)の中学、高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』を読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。・・・・その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベルの文章という印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。・・・・」
1月5日まで、朝日・読売・産経の3紙をとってみました。
1ヶ月ぐらいとればよいのでしょうが(笑)、
とりあえず、今日の5日まで。
すると、5日の「編集手帳」の読後感が味わいあり。
ということで、コラムの話。
まずは、5日の「編集手帳」。
全部引用したいのですが、後半だけにします。
「10年連用の日記帳を使っている。
4年目に入った。去年の、あるいは一昨年の同じ日に
何をしていたかを知るには便利だが、
『あの日』が近づいてくる感触に
ペンを持つ手が止まる夜もある。
地が揺れたとき、津波が襲ってきたとき、
ああしていたら、こうしていたら・・と、
『残念』の一語ではとうてい言い尽くせない痛恨の情に、
身を苛(さいな)んでいる被災地の方もいるだろう。
益体(やくたい)もないコラムを書いてしまった悔いや、
懲りない二日酔いなど、ばかな失敗を綴れる日々の、
何と贅沢なことよ。」
うん。正月三が日をゴロゴロしていた身としては、
最後の数行が、グッと身近にせまってくるような感触。
そして、本棚から
坪内祐三著「考える人」(新潮社)をとってきて、
深代惇郎の箇所を再読。
そこで引用される深代惇郎の「天声人語」から
すこし孫引きしてみます。
「・・・・書くことがなくて・・・
政治の悪口を書くといってはふがいない話だが、
そういう時もある。
本人は、ほかにないから書いているのであって、
そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、
コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、
自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。
ジャーナリズムには、
そういう気のひけるところがある。」
ここを引用したあとに、坪内祐三さんは
「これこそまさに『天声人語』です。かつて、これほど正真な心情を吐露する新聞コラムニストが日本にいたでしょうか。・・・そういうレベルの、どきっとするようなリアリティを持ったコラムを、深代惇郎は毎日毎日、読者に提供し続けたのです。」
ちなみに、今日の2012年1月5日朝日新聞「天声人語」はというと、
「気のひける『書生論』」を、述べ立てた、見本みたいです。
ところで、深代惇郎について、
坪内祐三さんが注目した箇所。
それは、一度とりあげた同じネタを再使用しているコラムを並べて比較しながら、引用したあとの指摘でした。
「『天声人語』を担当して一年に満たない最初の一文は、普通のレベルのコラム文です(あくまで客観的な文章です)。しかし、そのあとの文章は、客観の中にさりげなく主観がまじりあい、しかもその主観が独得のユーモアをかもし出しています。この八ヵ月の間に、深代惇郎はコラムニストとしての腕をぐっと上げています。」
ここで、ちょっと休憩して、私は最近身近に置いてある杉山平一詩集「希望」から、詩「待つ」を思い浮かべておりました。
待つ
待って
待っても
待つものは来ず
禍福はあざなえる縄というのに
不幸のつぎは
また不幸の一撃
ふたたび一発
わざわいは重なるものとも
知らず
もう疲れきって
どうでもいいと
ぼんやりしていた
それが
幸せだったと気づかず
さて、坪内祐三さんは、深代惇郎の『天声人語』への、
少女の相談に注目しており。
そこが、今回再読して、気になりました。
少女が夏休みの宿題として、コラムの要約・感想を
課せられ、その課題が『天声人語』・『社説』だったようです。
少女の手紙には、こうあったというのでした。
「いくら読んでも何が書いてあるのか分からない日がある。一日に二時間以上かかるときがある・・・」
その次の坪内祐三さんの文は
「そして彼(注:深代惇郎)は、少女の相談を誠実に受け止め、『文中で論理が飛躍したところ、発想が転換したところ、問題が急に抽象化されたところでつまずくのではあるまいか』と自問自答しています。まさに、その、『論理の飛躍』や『発想の転換』部分にこそ、深代惇郎の『天声人語』の特別な持ち味があったのです。その意味で、彼以降の『天声人語』の方がよっぽど、手軽るに『要約』できます。・・・」
ちなみに、詩「待つ」の最後の二行
「 それが
幸せだったと気づかず 」
で、思い浮かんだのは、この坪内祐三さんの「深代惇郎」を語り始める最初の箇所なのでした。ちょっとくどいかなあ。まあいいや引用しておきます。
「ミスター『天声人語』といえば、かつて、昭和30年代までは荒垣秀雄ですが、そのあと、すなわち二代目ミスター『天声人語』は深代惇郎です。これは常識です。・・・先日、私より18歳年下である編集者のK青年と話していたら、彼が、深代惇郎のことをまったく知らないと言うので、ちょっと驚きました。彼にとって、『天声人語』は、ものごころついた時から、すでに、今のような『天声人語』であって、かつてのそれが輝いていた時代があったことを知らないのです。」
さてっと、もうすこし駄目押しの引用で終ります。
「今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針はどうなっているのか知りませんが、当時、私(注:坪内祐三のこと)の中学、高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』を読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。・・・・その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベルの文章という印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。・・・・」