和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

想像力を蘇らせ。

2012-08-08 | 短文紹介
小田嶋隆著「地雷を踏む勇気」(技術評論社)に
1956年生まれの小田嶋氏が、こう書いておりました。

「・・・方丈記のこの冒頭部分を、高校生だった私は、教科書が配られたその日のうちに暗記して、以来、30年以上が経過した現在でも、正確に諳んじることできる。出来が良かったからではない。出来が悪かったからだ。心に鬱屈を抱え、人生の先行きに暗雲を感じている高校生だった私に、方丈記の無常観は、子守唄みたいに心地良く響いたのだ。・・・」(p114)

今の高校の教科書に方丈記の冒頭部分は掲載されているのかなあ?

ところで、思いもかけなかったのですが、詩集について書いている箇所がありました。引用しておきます。


「私自身は、詩集を読み、詩を書くということを日常的にこなしてきた最後の世代だと思っている。いや、私の世代でも、既に遅かったかもしれない。私より5年年長の人々は、普通に詩を暗誦し、時にヘタであっても詩を書くことのある人々だった。が、私の世代になると、詩は、薄気味の悪い文学少年のための極度にマイナーな趣味になってしまっていた。現代では、詩は、笑いのタネにしかならない。ポエム。時代遅れの青年誌に載っているアイドル水着写真の添え書きとして、あるいは土産物の洋菓子の取り澄ました包装紙の上でかろうじて露命をつないでいる。
私は詩を書く少年であった。
だから、出来不出来はともかく、20代の頃までは、いくらでも詩を生産することができた。それが、40歳を過ぎると、ほとんど一行も書き進められないようになった。
ここに、何か秘密があると思う。
人も時代も、成熟を自覚すると、詩を軽んじるようになる。
そして、詩を軽んじる魂は、おそらく、予期せぬ事態に立ち向かうことができないのだ。結論を述べる。苦難の時にあって、われわれは詩を書くべきだと思う。もう一度、詩の言葉を思い出して、想像力を蘇らせなければならない。書くのが無理なら、他人の詩でも良いから、気に入った詩を暗誦すべきだ。・・・」(p138)


うん。小田嶋隆の本を、もうすこし読んでみます。

コメント
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