平山周吉著「戦争画リターンズ」(芸術新聞社)
をめくっていると、
草森紳一氏が登場しております。
気になる箇所を引用。
「(2008年)の三月に、草森紳一は永代橋際の
マンションの一室で、三万冊の蔵書の中に埋もれて
死んでいた。
草森さんと連絡がつかなくなって一週間がたつと
いう報が入り、数人の知り合いと一緒に、永代橋
近辺の聞き込みと草森さんの部屋の捜索を敢行
することになった。その時の捜索隊長が、・・
芸術新聞社の相澤さんであった。
本がうずたかく積まれた部屋の中を、相澤隊長は
用意周到にも懐中電灯まで用意して、山男の
フットワークで陣頭指揮をとった。
入ることを禁じられていた部屋の中は、草森さんが
『随筆 本が崩れる』(文春新書)で書いている
とおりの惨状であった。・・・・
翌日、私(平山周吉氏)は捜索に加われなかった
のだが、相澤隊長が膨大な本で出来上った高い
『城壁』の向うに、草森紳一を発見した。
享年七十であった。・・・
締め切りをとっくに過ぎた連載原稿を書いている
途中での、あっけない死であった。・・・」
(p114~115)
あとがきには
こんな箇所も。
「相澤さんとは、これも本文に何回か登場して
もらった草森紳一さんを介して会った。
三人で会うことも多く、草森さんを抜きにして
二人で会うこともあった。毎年、暮れの三十日頃には、
門前仲町で忘年会となった。サッカー好きの相澤さん
の提案で、Jリーグのジュビロ磐田の試合を見に、
三人で出かけたこともある。十五年くらい前のことだ。
草森さんがバスの中で、その時書く原稿のために
持ち歩いていた会澤正志斎の『新論』を置き忘れ、
大慌てになったこともなつかしい。・・・」
(p418)
をめくっていると、
草森紳一氏が登場しております。
気になる箇所を引用。
「(2008年)の三月に、草森紳一は永代橋際の
マンションの一室で、三万冊の蔵書の中に埋もれて
死んでいた。
草森さんと連絡がつかなくなって一週間がたつと
いう報が入り、数人の知り合いと一緒に、永代橋
近辺の聞き込みと草森さんの部屋の捜索を敢行
することになった。その時の捜索隊長が、・・
芸術新聞社の相澤さんであった。
本がうずたかく積まれた部屋の中を、相澤隊長は
用意周到にも懐中電灯まで用意して、山男の
フットワークで陣頭指揮をとった。
入ることを禁じられていた部屋の中は、草森さんが
『随筆 本が崩れる』(文春新書)で書いている
とおりの惨状であった。・・・・
翌日、私(平山周吉氏)は捜索に加われなかった
のだが、相澤隊長が膨大な本で出来上った高い
『城壁』の向うに、草森紳一を発見した。
享年七十であった。・・・
締め切りをとっくに過ぎた連載原稿を書いている
途中での、あっけない死であった。・・・」
(p114~115)
あとがきには
こんな箇所も。
「相澤さんとは、これも本文に何回か登場して
もらった草森紳一さんを介して会った。
三人で会うことも多く、草森さんを抜きにして
二人で会うこともあった。毎年、暮れの三十日頃には、
門前仲町で忘年会となった。サッカー好きの相澤さん
の提案で、Jリーグのジュビロ磐田の試合を見に、
三人で出かけたこともある。十五年くらい前のことだ。
草森さんがバスの中で、その時書く原稿のために
持ち歩いていた会澤正志斎の『新論』を置き忘れ、
大慌てになったこともなつかしい。・・・」
(p418)