和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『コ』?

2019-05-24 | 本棚並べ
対談集を読むのは、
気楽で、好きです。

何だか、わかった気になる。
けれど、わかった気分だけ(笑)。

以前から、気になっている対談があります。
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)。
そこでの、司馬遼太郎との対談。題して、
「【人工日本語】の功罪について」。

はい。気になるテーマなのですが、
何となくしかわからないままです。


その対談を、あらためて読む機会がありました。
今回は、細部の方へと、ピントがあわさります。

司馬さんが話を切り出す。
その対談の最初の場面は、こうでした。


司馬】 きょうはなんのお話を伺おうかと思って、
桑原武夫全集をひっくりかえしてみたんですけれど、
どうも思いつきません。
この瓢亭さん(京の料亭)に入りますと、
きちんと着付けをしたキモノの女中さんたちが、
きれいな京ことばを喋らはります。
私の知人のお嬢さんも、この瓢亭さんに
言葉を習うために奉公にあがっていたことを
思いだしまして、話し言葉や書き言葉の問題を
中心にお伺いしようと思いまして・・・。

これが対談の、はじまりでした。

「瓢亭(ひょうてい)」といえば、

梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫傅習録」(潮出版社)
のなかにも、「瓢亭」がでていたのでした。
司馬さんは、書いています。

「場所は、京都南禅寺の『瓢亭』である。
瓢亭は建物といい座敷といい、
数寄屋が茶とむすびついてそれが行きついて
しまったような結構で・・・

繰りかえしていうと、氏にとって京都は
日常的な生活の場所である。
わざわざ思想的衝動を感じて
日本美に惑溺しにゆかなくても、
京都の生活者としてそこに在るがままの
ものの中に、たとえば登山者が路傍に
腰をおろす程度のさりげなさで
瓢亭にすわってみるだけのことで・・・」
(p151~152)

はい。読み返していると、対談内容と別に、
気もかけなかった、こういう言葉の細部の
断片が気になりました(笑)。

さてっと、こっちの司馬さんの文は題して
「明晰すぎるほどの大きな思想家」とあります。
はじまりに、NHK大阪の放送局での話のことが
でてきます。

「その放送がどういう主題の話だったかは
わすれたが、その後数日して氏が富士正晴氏に
洩らされたのを、富士氏が私に話した、
『ええコや』。そういうことであった。
・・・・・
蛇足をのべる。コというのは、・・・
さらには氏の堅牢で明快な文章にときに、
それも不意にあらわれる含蓄とのつながりかともおもった。
含蓄というより、論理の息づまるような感じをふせぐための、
文章の上での咳払いというようなものかもしれない。」

このあとに、桑原氏の講演でのことを、
ご自身が語っていたということで引用しております。
そこはというと、

「・・しだいに調子づいてつい京都弁が入った。
・・そういうことを考えとったらアカン、よういわん・・、
といったふうにやると、あとで投書がきて、
『話の内容はおもしろかったが、漫才と同じ言葉を
使ったりして態度が不まじめだ』。
ここで対談の相手は笑う。氏(桑原)の場合、
この種の咳払いによって・・・
要するに氏の話し方においても文章においても、
明晰すぎる論理と堅牢すぎる力学的構造のなかに、
こういう咳払いが入って、風が吹き通ってゆく。
これは反対の論理でもなく賛成の論理でもなく、
かといって中間の態度でもない。
奇妙な言葉の使い方をあえてすれば、
これが氏の文化意識であり、あるいは一般化すれば
文化とはこういうものであるかもしれない。

『ええコや』というのは、
そういう機微にやや通じている。
氏の文化的表現である。」

以前読んだときに、この箇所が、
もうひとつよく分からなかった。
『ええコや』が、どうなんだと?
気にせず、読み過ごしておりました。

その『コ』が、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)に、
あらためて、拾えました(笑)。

その個所はというと、

「全国のさまざまの方言には、それぞれの味わいがある。
私は仙台で三年間の学生生活を送っている。その間、
もちろん片鱗には違いないが、仙台のことばのあれこれ
に接して大変たのしかった。方言の魅力に憑かれたのは、
この頃であったのではないだろうか。
靴を修繕してもらおうと、小さな靴屋さんへ出かけると、
その店のおじさんが、靴の裏をひっくりかえして、
『カネコサぶつべか』という。
関西から出てきたての私は、知識としてあった、
東北地方では、思いがけないもにまで一種の愛称として
接尾語の『こ』をつけるということは
すぐには思い浮かばなかった。
しばらく間をおいて、私はどうぞどうぞと答えたのであったが、
瞬間きびしい戦時下で何もかも不安な、遠いはじめての地域で
の下宿暮らしが、一瞬あたたかな色あいに染められた気がした。
靴の裏のかねにまで『こ』をつけるとは、
なんというかわいらしい言語習慣だろうとうれしくなった。
以後、新聞でも雑巾でも『こ』がつくということを知るに及んで、
ますますその感は深くなったのであるが、どこのことばでも
そういう具合に、人の心を魅了するに足る特色をもっている。
・・・」(p18)

うん。仙台の小さな靴屋さんでの、寿岳章子さんの体験と
京都の富士正晴さんからのまた聞きをした司馬さんの体験が、
方言との地平でもって、重なるような気がしてきました(笑)。


この細部から、対談「『人工日本語』の功罪について」を、
読み直すと、アレレと思うほど、楽しく読める気がします。





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