藤田真一著「蕪村」(岩波新書)から引用。
「蕪村の転機は36歳のときに訪れた。
宝暦元年(1751)秋、在留20年になんなんとする
関東をあとにした蕪村は、中仙道をとって上方にむかった。
京都にたどりついた蕪村は、まず知恩院内の一隅に歩を休めた。
知恩院は、浄土宗の総本山である。浄土宗徒として、
身を預けるのに好都合だったのだろう。
京に荷をほどくや、取るものもとりあえず、
巴人門の長老弟子、宗屋(望月氏)のもとへあいさつに伺った。
それからは、洛中・洛外の寺でらを拝しまわる日々だったらしい。
京の寺院は、美術品を展示する博物館のような機能をもっていた。
しかも、陳列ケースのなかではなく、生きたままの姿で
拝観させてもらえるのだ。大徳寺や竜安寺に、
蕪村は足跡をのこしている。そんな美術館まわりのためにも、
『釈蕪村』の肩書きは有効だったにちがいない。
・・・」(p45)
「ところで、蕪村に関しては、事情がこみいっている。
前半生は、みずから『日本の過半は行歴』したと
自負する大旅行家であったのに、いざ宗匠についてから
というもの、京に腰をすえたきり、
行脚とよべる旅はしなかった。
大阪や兵庫・灘方面の弟子筋をまわる程度の旅行が
ほとんどだった。蕪村の特殊、
といってよいほどの無行動ぶりであった。
・・・・・・・・・
意外なのは、江戸から上京して、そのまま
居ついてしまうひとが珍しくなかったことである。
江戸を離れて、京の地に十年いた、蕪村の師巴人は、
最後には江戸にもどったが、
京を死に場所としたひとも多数(あまた)あった。
かつて芭蕉から、俳諧が似合わない土地柄だと、
嘆じられた京であったにもかかわらず、
江戸を捨てて、京都を活動の場とする者は少なくなかった。
江戸出身の仙鶴(せんかく)という人物などは、
京で茶道を極め、茶師となるかたわら、俳諧にも熱心だった。
みやこの文化的な底力とか潜在力といったものが、
魅力だったのだろう。蕪村もまた、
そんな京をひとりめざしたのだった。」(p44~45)
ちなみに、今回この新書を読んで
ハッとさせられた箇所があります。
それは蕪村の『俳画』をとりあげた箇所でした。
「本業の南画でも、
蕪村はことさらに人物図をこのんで描いた。
しかも、よくある山水画中の点景としてではなく、
大きくアップでかくことがおおかった。
そのすがたは、一見してくだけた姿態をもっていて、
親しみの表情にあふれている。けれども絵の専門家の眼で
それをとらえると、異端の烙印が押されることになる。
見るひとのこころをなごませる描法が、皮肉にも
正統性を逸脱する要因をつくっている、ということだろうか。
だが、かりに蕪村のなかに異端性がひそんでいたとすると、
それは上方画壇のこの時期の特異的現象にちょうど見合って
いるといってもよい。時あたかも、京都画壇では、
伊藤若冲・長沢蘆雪・曾我蕭白など、
まさに奇抜・破天荒な異端の画家が輩出していた。
奇想とよばれる画風の横行した時代であった。
一見したところ、なごやかそのものの蕪村の画作に、
異端のおももちは見受けられないが、
専門家たちは・・・・」(p79)
はあ。奇想の画家たちと同時代人だったのですね。
あらためて、与謝蕪村の俳画をみたくなりました。
「蕪村の転機は36歳のときに訪れた。
宝暦元年(1751)秋、在留20年になんなんとする
関東をあとにした蕪村は、中仙道をとって上方にむかった。
京都にたどりついた蕪村は、まず知恩院内の一隅に歩を休めた。
知恩院は、浄土宗の総本山である。浄土宗徒として、
身を預けるのに好都合だったのだろう。
京に荷をほどくや、取るものもとりあえず、
巴人門の長老弟子、宗屋(望月氏)のもとへあいさつに伺った。
それからは、洛中・洛外の寺でらを拝しまわる日々だったらしい。
京の寺院は、美術品を展示する博物館のような機能をもっていた。
しかも、陳列ケースのなかではなく、生きたままの姿で
拝観させてもらえるのだ。大徳寺や竜安寺に、
蕪村は足跡をのこしている。そんな美術館まわりのためにも、
『釈蕪村』の肩書きは有効だったにちがいない。
・・・」(p45)
「ところで、蕪村に関しては、事情がこみいっている。
前半生は、みずから『日本の過半は行歴』したと
自負する大旅行家であったのに、いざ宗匠についてから
というもの、京に腰をすえたきり、
行脚とよべる旅はしなかった。
大阪や兵庫・灘方面の弟子筋をまわる程度の旅行が
ほとんどだった。蕪村の特殊、
といってよいほどの無行動ぶりであった。
・・・・・・・・・
意外なのは、江戸から上京して、そのまま
居ついてしまうひとが珍しくなかったことである。
江戸を離れて、京の地に十年いた、蕪村の師巴人は、
最後には江戸にもどったが、
京を死に場所としたひとも多数(あまた)あった。
かつて芭蕉から、俳諧が似合わない土地柄だと、
嘆じられた京であったにもかかわらず、
江戸を捨てて、京都を活動の場とする者は少なくなかった。
江戸出身の仙鶴(せんかく)という人物などは、
京で茶道を極め、茶師となるかたわら、俳諧にも熱心だった。
みやこの文化的な底力とか潜在力といったものが、
魅力だったのだろう。蕪村もまた、
そんな京をひとりめざしたのだった。」(p44~45)
ちなみに、今回この新書を読んで
ハッとさせられた箇所があります。
それは蕪村の『俳画』をとりあげた箇所でした。
「本業の南画でも、
蕪村はことさらに人物図をこのんで描いた。
しかも、よくある山水画中の点景としてではなく、
大きくアップでかくことがおおかった。
そのすがたは、一見してくだけた姿態をもっていて、
親しみの表情にあふれている。けれども絵の専門家の眼で
それをとらえると、異端の烙印が押されることになる。
見るひとのこころをなごませる描法が、皮肉にも
正統性を逸脱する要因をつくっている、ということだろうか。
だが、かりに蕪村のなかに異端性がひそんでいたとすると、
それは上方画壇のこの時期の特異的現象にちょうど見合って
いるといってもよい。時あたかも、京都画壇では、
伊藤若冲・長沢蘆雪・曾我蕭白など、
まさに奇抜・破天荒な異端の画家が輩出していた。
奇想とよばれる画風の横行した時代であった。
一見したところ、なごやかそのものの蕪村の画作に、
異端のおももちは見受けられないが、
専門家たちは・・・・」(p79)
はあ。奇想の画家たちと同時代人だったのですね。
あらためて、与謝蕪村の俳画をみたくなりました。