梅棹忠夫著作集17巻の月報に、
寿岳章子さんの文があり、気になり、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)を
古本で注文。
山形県小白川町の「古書 紅花書房」へ
注文したところ、クロネコDM便で昨日届く。
宛名はサインペンによる手書き。有難い(笑)。
なんと、「山形の酒蔵」というパンフレットを
二つ折りにしてその中に本をはさんで送ってくれる。
山形県の53の酒蔵を紹介していて、年間イベントも、
そのパンフレットで紹介されているので、
捨てるわけにもいかない(笑)。
こういう楽しみは、ありがたい。
さてっと、届いた「暮らしの京ことば」を
さっそくパラリとひらけば、
第17巻の月報の文と同じ個所が
くわしく書かれており、こちらもありがたい。
う~ん。ここなど引用しておこう。
「・・この種の座談会などで、どうして誰もが
東京風のことばで話さなくてはならないのか
ということについての、つよい疑惑を常日頃から
持っておられるらしい。それぞれの持ち前のことば
で話す方が、ずっと身を入れて話せると信じておられる。
いったいに京都大学の人文科学研究所の人たちには、
そうした考え方を持つ人が多いように思える。
その総大将は、桑原武夫氏であろう。
私は以前、
桑原、梅棹2氏とともにある座談会に出たことがある。
お正月ののんきな番組で、思いつくままの好きなことを
次から次へと、際限もなく話をしあったのが、
出席者としてはとてもうれしかった。
それはラジオで全国放送された。聞いている人にとっては、
私たちがかなり京都弁で述べたてながら機嫌よくしゃべり
まくっているのが果たしてよかったか、
あるいは耳障りであったか。
しかし、私たちが話したことの内容は、
やはり京都ことばの濃厚な語り口において
はじめて効を発するようなものであったように私は思う。
そしてそのときのお二方が、どちらかと言えば
臆面もなくゆうゆうと京都ことばで話されるのを、
とてもたのしいと思った。・・・」(p28~29)
うん。梅棹忠夫といえば、
「知的生産の技術」しか、知らずに育った当方としては
これは、これは刺激的な入門となりました。
はい。ここからなら、スラスラと、
梅棹忠夫著作集を読みはじめられそう。
そんな、切り口に出会えた気がします。
わたしは、座談会とか鼎談とかを
読むのが、小説を読むよりも好きです。
好きなんですが、京都ことばを取り除いた、
座談は、炭酸が抜けてしまった、炭酸飲料を
飲んでいたような気がしてくるじゃありませんか(笑)。
たとえば、梅棹忠夫とか桑原武夫の対談集を
東京言葉風に読みかえてしまっていたのかもしれない。
そう思うと、いったい対談で何を読んでいたのやら、
心もとなくなってくる気がしてきます。
という風な収穫がありました。
そういえば、梅棹忠夫著作集18巻には
「第二標準語論」という文も含まれております。
そういう視点からならば、私には、
梅棹忠夫著作集の16巻以降の巻が、
がぜん興味を抱かせられるのです。
寿岳章子さんの文があり、気になり、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)を
古本で注文。
山形県小白川町の「古書 紅花書房」へ
注文したところ、クロネコDM便で昨日届く。
宛名はサインペンによる手書き。有難い(笑)。
なんと、「山形の酒蔵」というパンフレットを
二つ折りにしてその中に本をはさんで送ってくれる。
山形県の53の酒蔵を紹介していて、年間イベントも、
そのパンフレットで紹介されているので、
捨てるわけにもいかない(笑)。
こういう楽しみは、ありがたい。
さてっと、届いた「暮らしの京ことば」を
さっそくパラリとひらけば、
第17巻の月報の文と同じ個所が
くわしく書かれており、こちらもありがたい。
う~ん。ここなど引用しておこう。
「・・この種の座談会などで、どうして誰もが
東京風のことばで話さなくてはならないのか
ということについての、つよい疑惑を常日頃から
持っておられるらしい。それぞれの持ち前のことば
で話す方が、ずっと身を入れて話せると信じておられる。
いったいに京都大学の人文科学研究所の人たちには、
そうした考え方を持つ人が多いように思える。
その総大将は、桑原武夫氏であろう。
私は以前、
桑原、梅棹2氏とともにある座談会に出たことがある。
お正月ののんきな番組で、思いつくままの好きなことを
次から次へと、際限もなく話をしあったのが、
出席者としてはとてもうれしかった。
それはラジオで全国放送された。聞いている人にとっては、
私たちがかなり京都弁で述べたてながら機嫌よくしゃべり
まくっているのが果たしてよかったか、
あるいは耳障りであったか。
しかし、私たちが話したことの内容は、
やはり京都ことばの濃厚な語り口において
はじめて効を発するようなものであったように私は思う。
そしてそのときのお二方が、どちらかと言えば
臆面もなくゆうゆうと京都ことばで話されるのを、
とてもたのしいと思った。・・・」(p28~29)
うん。梅棹忠夫といえば、
「知的生産の技術」しか、知らずに育った当方としては
これは、これは刺激的な入門となりました。
はい。ここからなら、スラスラと、
梅棹忠夫著作集を読みはじめられそう。
そんな、切り口に出会えた気がします。
わたしは、座談会とか鼎談とかを
読むのが、小説を読むよりも好きです。
好きなんですが、京都ことばを取り除いた、
座談は、炭酸が抜けてしまった、炭酸飲料を
飲んでいたような気がしてくるじゃありませんか(笑)。
たとえば、梅棹忠夫とか桑原武夫の対談集を
東京言葉風に読みかえてしまっていたのかもしれない。
そう思うと、いったい対談で何を読んでいたのやら、
心もとなくなってくる気がしてきます。
という風な収穫がありました。
そういえば、梅棹忠夫著作集18巻には
「第二標準語論」という文も含まれております。
そういう視点からならば、私には、
梅棹忠夫著作集の16巻以降の巻が、
がぜん興味を抱かせられるのです。