藤田真一著「蕪村」(岩波新書)。
その「はじめに」の3行目から引用、
「・・京の芝居小屋は、四条通りを東にとって
鴨川を渡ったすぐの界隈に、競って軒を並べていた。
蕪村の住まいは、四条烏丸にほど近いところに位置して
いたから、芝居は四半刻(三十分)もあれば行ける、
ちょうど頃合いの距離にあった。根が好きなだけに、
折につけて芝居通いに精出した。
蕪村は観劇に出かけると、役者の一人ひとりについて、
手紙などでこと細かに論評を加えることがあった。・・」
蕪村の絵について、
「夜色楼台図(やしょくろうだいず)」を
とりあげた箇所があります。
「この絵は、京都東山山麓の冬の景色を描いたものと
考えられている。これが東山だとすると、
後半生を洛中に暮らした蕪村にとって、
その姿はもっともなじみの深い光景であっただろう。
花の盛りには遊山にでかけ、遠来の俳人を迎えて
句会をたのしみ、遊び仲間があれば芸妓ともどもさんざめく、
というふうに、四時(しいじ)のいつをとっても、
こころの弾みを覚える界隈であった。
そのような東山の姿は、蕪村にとって、
たんに景色として遠くから眺めやって、
画中に写しとる対象というものではなかっただろう。
・・・『夜色楼台図』は、いわば蕪村のこころに
刻印された東山の姿だったはずである。
写生的風景というのでは、まったくない。
描き手のやわらかな心性が、ここに宿っているのだ。
写生の手法ではけっして描きえなかった図であった。
蕪村は、それほどまでに、
京都という町を熟知し、
したわしい気持ちをもっていた。
だがその一方で、京都にたいして、
どうにもならない異邦意識も抜きがたくあったらしい。
もともと、蕪村は京の生まれではなく、
上洛するのはようやく36歳のことであった。
定住となると、さらにおそく、
すでに50歳をこす年齢になっていた。
蕪村が画・俳の両世界に活躍したのは、
京住の五十歳以上といってよい。・・」
(p32~34)
はい。蕪村の京都というのも
気になるのでした(笑)。
その「はじめに」の3行目から引用、
「・・京の芝居小屋は、四条通りを東にとって
鴨川を渡ったすぐの界隈に、競って軒を並べていた。
蕪村の住まいは、四条烏丸にほど近いところに位置して
いたから、芝居は四半刻(三十分)もあれば行ける、
ちょうど頃合いの距離にあった。根が好きなだけに、
折につけて芝居通いに精出した。
蕪村は観劇に出かけると、役者の一人ひとりについて、
手紙などでこと細かに論評を加えることがあった。・・」
蕪村の絵について、
「夜色楼台図(やしょくろうだいず)」を
とりあげた箇所があります。
「この絵は、京都東山山麓の冬の景色を描いたものと
考えられている。これが東山だとすると、
後半生を洛中に暮らした蕪村にとって、
その姿はもっともなじみの深い光景であっただろう。
花の盛りには遊山にでかけ、遠来の俳人を迎えて
句会をたのしみ、遊び仲間があれば芸妓ともどもさんざめく、
というふうに、四時(しいじ)のいつをとっても、
こころの弾みを覚える界隈であった。
そのような東山の姿は、蕪村にとって、
たんに景色として遠くから眺めやって、
画中に写しとる対象というものではなかっただろう。
・・・『夜色楼台図』は、いわば蕪村のこころに
刻印された東山の姿だったはずである。
写生的風景というのでは、まったくない。
描き手のやわらかな心性が、ここに宿っているのだ。
写生の手法ではけっして描きえなかった図であった。
蕪村は、それほどまでに、
京都という町を熟知し、
したわしい気持ちをもっていた。
だがその一方で、京都にたいして、
どうにもならない異邦意識も抜きがたくあったらしい。
もともと、蕪村は京の生まれではなく、
上洛するのはようやく36歳のことであった。
定住となると、さらにおそく、
すでに50歳をこす年齢になっていた。
蕪村が画・俳の両世界に活躍したのは、
京住の五十歳以上といってよい。・・」
(p32~34)
はい。蕪村の京都というのも
気になるのでした(笑)。