梅棹忠夫著「日本三都論」(角川選書)のまえがき。
そこに、こんな箇所。
「わたし自身は京都に生まれ、京都でそだった。
自分でも京都人とおもい、ひともそのようにいう。
しかし、かんがえてみると、最初に職をえて以来、
京都に勤務したもは約四分の一の期間にすぎない。
自分の仕事は東京・大阪・京都の三都を中心に展開した。
『おまえは何人か』ととわれれば、実質的には『三都人』
とこたえるのが、もっとも適切なのではないだろうか。
わたしはそういう人生をおくってきたのである。
・・ただし、根は京都だから、他都市への視点は、
多少のバイアスがかかっているかもしれない。」
この本が出来た際に、梅棹忠夫氏は視力が喪失しておりました。
この本の最後に「三都論の構造」が書かれているのですが、
「本稿はこの本のためにかきおろしたものである」とあります。
視力喪失の後に書かれた「三都論の構造」ですが、
まず、この箇所を読んでみました。
気になる箇所だけを引用すると、
「・・とくに東京と京都が問題である。
わたしの経験では東京の知識人の京都攻撃には
しばしば閉口することがある。日常のつきあいでは
さほどでもないのだが、多少メートルがあがてくると、
ときどき、すさまじい砲撃をくらうことがある。
京都にも伝統的に東京に対する批判的感情もないわけではないが、
東京人の京都攻撃ほどモーレツさはない。・・・
京都人であるところのわたしからみれば、
京都論というのは要するに東京からの
京都攻撃ということなのである。」
ここが、他では聞けないことなので、
丁寧に引用してみます(笑)。
「東京においてその種の攻撃をくらった経験はない。
東京人が京都へきたときが危険である。
京都にきた東京人はときとしてふかい自信喪失をあじわい、
それの反動として攻撃性が暴発するのではないかと推察する。
東京から京都に赴任してきた知識人で、
うまく適応できなかった例がすくなくない。
全国的にみれば東京からきたというだけで、
なにがしかの価値をともなうものだから、
ご本人も家族もその種の期待をもってくるのであろう。
京都では、東京からきたということはなんの価値もない。
かれらは期待をうらぎられ自信を喪失して
ひどい京都ぎらいになった。」(p253)
オモロイので、引き続き引用します。
「もともと京都は突出した文化性のゆえに、
全国のあこがれのまとである
と同時に憎悪のまとでもあったようにおもわれる。
都びとと地下(じげ)のひととの落差はおおきく、
いなかものあつかいされた地方のうらみはひろく、
かつふかいものがあったのではなかろうか。
・・・・
あたらしいよりどころをつくった。
それが東京であったのである。
政治的にはまさにそうなのだが、
文化的にもそのことはあてはまる。
京都以外の地に別個の価値の基準を
うちたてようとしたのである。
ようやくそれに成功したとおもっているのに、
京都へきてみると、ここはそのような日本的な
うごきにまったく同調していない。
自分たちが脱出し、克服したと信じてきた
伝統的・古典的な価値体系がここでは厳然といきていた。
ここにきてみると、いやおうなしにみずからの
内なる伝統的価値がよびさまされ、
克服したと信じてきたものが
みずからをうらぎって蘇生してくる。・・・」(p254~255)
はい。これを読んでいたら、
蛇足が、思い浮かびました。
日本の政治は、
与党は、自民党
野党は、関西党(維新の会)にして
二大政党とすればオモロイのに。
そして、これなら政権交代があっても、
さらに、オモロナイことはないだろう。
東京標準語だけよりも、
関西弁との対決に、日本語としての活路を。
そう思うと、どうしようもなく、
わたしには、今の野党が、
韓国語や中国語圏に思えております。
そこに、こんな箇所。
「わたし自身は京都に生まれ、京都でそだった。
自分でも京都人とおもい、ひともそのようにいう。
しかし、かんがえてみると、最初に職をえて以来、
京都に勤務したもは約四分の一の期間にすぎない。
自分の仕事は東京・大阪・京都の三都を中心に展開した。
『おまえは何人か』ととわれれば、実質的には『三都人』
とこたえるのが、もっとも適切なのではないだろうか。
わたしはそういう人生をおくってきたのである。
・・ただし、根は京都だから、他都市への視点は、
多少のバイアスがかかっているかもしれない。」
この本が出来た際に、梅棹忠夫氏は視力が喪失しておりました。
この本の最後に「三都論の構造」が書かれているのですが、
「本稿はこの本のためにかきおろしたものである」とあります。
視力喪失の後に書かれた「三都論の構造」ですが、
まず、この箇所を読んでみました。
気になる箇所だけを引用すると、
「・・とくに東京と京都が問題である。
わたしの経験では東京の知識人の京都攻撃には
しばしば閉口することがある。日常のつきあいでは
さほどでもないのだが、多少メートルがあがてくると、
ときどき、すさまじい砲撃をくらうことがある。
京都にも伝統的に東京に対する批判的感情もないわけではないが、
東京人の京都攻撃ほどモーレツさはない。・・・
京都人であるところのわたしからみれば、
京都論というのは要するに東京からの
京都攻撃ということなのである。」
ここが、他では聞けないことなので、
丁寧に引用してみます(笑)。
「東京においてその種の攻撃をくらった経験はない。
東京人が京都へきたときが危険である。
京都にきた東京人はときとしてふかい自信喪失をあじわい、
それの反動として攻撃性が暴発するのではないかと推察する。
東京から京都に赴任してきた知識人で、
うまく適応できなかった例がすくなくない。
全国的にみれば東京からきたというだけで、
なにがしかの価値をともなうものだから、
ご本人も家族もその種の期待をもってくるのであろう。
京都では、東京からきたということはなんの価値もない。
かれらは期待をうらぎられ自信を喪失して
ひどい京都ぎらいになった。」(p253)
オモロイので、引き続き引用します。
「もともと京都は突出した文化性のゆえに、
全国のあこがれのまとである
と同時に憎悪のまとでもあったようにおもわれる。
都びとと地下(じげ)のひととの落差はおおきく、
いなかものあつかいされた地方のうらみはひろく、
かつふかいものがあったのではなかろうか。
・・・・
あたらしいよりどころをつくった。
それが東京であったのである。
政治的にはまさにそうなのだが、
文化的にもそのことはあてはまる。
京都以外の地に別個の価値の基準を
うちたてようとしたのである。
ようやくそれに成功したとおもっているのに、
京都へきてみると、ここはそのような日本的な
うごきにまったく同調していない。
自分たちが脱出し、克服したと信じてきた
伝統的・古典的な価値体系がここでは厳然といきていた。
ここにきてみると、いやおうなしにみずからの
内なる伝統的価値がよびさまされ、
克服したと信じてきたものが
みずからをうらぎって蘇生してくる。・・・」(p254~255)
はい。これを読んでいたら、
蛇足が、思い浮かびました。
日本の政治は、
与党は、自民党
野党は、関西党(維新の会)にして
二大政党とすればオモロイのに。
そして、これなら政権交代があっても、
さらに、オモロナイことはないだろう。
東京標準語だけよりも、
関西弁との対決に、日本語としての活路を。
そう思うと、どうしようもなく、
わたしには、今の野党が、
韓国語や中国語圏に思えております。