和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京ことばの語り口。

2019-05-27 | 本棚並べ
古本で購入。
伊藤幹治著「柳田国男と梅棹忠夫」(岩波書店)
副題は「自前の学問を求めて」。
これが送料共で480円で、きれいな新刊並み(笑)。

カバーにはご両人が並んで、
カラーで写っております。
はい。この写真だけで私は満腹。

ちなみに、伊藤幹治氏は「まえがき」で

「晩年の9年余りの短い期間・・
わたしは当時、國學院大學大学院の学生として
柳田さんの講義に出席するほか、・・・
日本文化研究所で、柳田さんのもとで
研究生活を送っていた。」

「梅棹さんと接したのは、1974(昭和49)年4月から
1988年(昭和63)年3月にかけて、大阪の千里に
大学共同利用機関のひとつとして創設された
国立民族学博物館で過ごした14年間ほどの期間である。
梅棹さんは京都大学人文科学研究所教授を辞して
初代館長に就任された。・・・・」


パラリとめくると、
こんな箇所がある。


「1954(昭和29)年秋、梅棹は
『はつらつたる京ことば』を使って、
同志社女子大学で『これからの日本語』
(改題「京ことば研究会のすすめ」)
という講演会をしたことがある。
  ・・・・・・
この文章を読んでいると、
民博時代の梅棹のゆったりとした
京ことばの語り口が、記憶のなかから
よみがえってくる。」(p147)

はい。「京ことば研究会のすすめ」を
読んでみることに。
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に
それはありました。
本文の前には、どの文にも本人による
「解説」が置かれています。
そこを引用。

「昭和29年の秋、同志社女子大学の国語研究グループから、
講演の依頼があった。・・会場は同大学の教室であった。
わたしはこの際、ひとつの実験をおこなってみようとおもった。
京ことばで講演をしてみようというのである。
そのつもりで草案をつくった。その草案がのこっていたので、
ここに収録した。・・・」(p216)

単行本にして、11頁の講演草案です。
はい。読めてよかったなあ(笑)。

こんな感じです。

「京ことばも、やはり訓練のたまものやとおもいます。
発声法からはじまって、どういうときには、どういう
もののいいかたをするのか、挨拶から応対までを、
いちいちやかましくいわれたもんどした。
とくに中京(なかぎょう)・西陣はきびしゅうて、
よそからきたひとは、これでまず往生しやはります。
口をひらけば、いっぺんに、いなかもんやと
バレてしまうわけどっさかい。・・」(p221)

はい。最後の方も引用。

「こういうことになってくると、
いちばんの問題点は、標準語との衝突
ということどっしゃろな。
あんたはんらだれでも、
うつくしくただしい日本語というのは、
標準語のことで、一方京ことばは方言で、
ただしい日本語とはちがうのやないか、
とおもうてはるかもしれまへん。
しかし、それはおもいちがいどっせ。」

「ほんとの標準語ができあがるまでは、
まだとうぶん時間がかかるとして、
いわゆる標準語というのには、
お気をおつけやしたほうがよろしおす。
みなさん、なにか東京弁ふうにものをいうと、
標準語やとおもてしまうのんと、ちがいますか。」
(~p226)


すくなくとも、私など、京ことばを、
この講演で味わえるのが、うれしい。

そういえば、紙上では、
こういうのって、なかなか味わえないですよね。

梅棹忠夫編「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」(NHK出版)
の最後のコメント2を松原正毅が「知の饗宴」と題して書いて
おられました。そこから、この箇所を引用しておきます。

「卓抜な文章表現者としての梅棹と司馬は、同時に座談の名手である。
梅棹、司馬との対話には、つねに知的こころよさがともなう。
どういう話題であっても、話おえたあとも知的こころよさの余韻がのこる。
本書に収録された座談の名手どうしの対話にも、
行間から知的こころよさの余韻がのこる。
本書に収録された座談の名手どうしの対話にも、
行間から知的こころよさの片鱗がうかがうことは可能であろう。
じっさいの会話では、上方ことばが大量にまじりあうので、
話のたのしさは倍加する。
残念ながら、紙上ではこの話のたのしさを
完全に再現することはできない。・・・」(p297)


うん。とりあえず、京ことばの講演が読めただけでも
私は満足することにします(笑)。




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志ん生・小さん・春団治。

2019-05-27 | 先達たち
小林秀雄と桑原武夫の、
お二人の話し方が気になる。

そういえば、以前に、小林秀雄の
講演カセットテープを聞いたことがあった。

さてっと、まずはじめは小林秀雄。

「小林秀雄百年のヒント」(新潮四月臨時増刊)。
脇には「誕生百年記念」(平成13年)とあります。


そこに安岡章太郎・粟津則雄の対話
「小林秀雄体験」というのがあります。
そこから引用。

安岡】・・・・小林さんは、
失敗というようなことは絶対に嫌いなんですね。
嫌いというか、二度、三度と同じ失敗はしない方です。
昔、講演旅行は、菊池寛が連れていってくれたんだそうですよ。
戦争中は、文士に金が入らない時代なんです。ある時、
高松の小学校で講演があった。体育館みたいなところに、
筵が敷いてあって、入っていったら、目の前に
爺さんが孫を連れて、真正面で座って見てるって言うんですよ。
その瞬間に、小林さんはほとんどなんにもしゃべれなくなっちゃった。
それで、栗林公園のなかを一晩じゅう、ぐるぐる、ぐるぐる
歩きまわったっておっしゃってました。・・・

粟津】 小林さんは、考えに考え抜いたことを、
軽快に話しますね。

安岡】 江戸っ子ですからね、江戸っ子のおしゃべいりは、
いわば、自転車に乗って駆け抜けるようなしゃべり方ですよ。
だから、さあーっと軽快にしゃべるということは、
大変、これはいいんですね。
僕は、中村光夫さんの雑文のなかで読んだんだけれども、
小林さんのお母さんは、世間話の名人というおふうに
書いてありましたね。

粟津】 そうですか。

安岡】世間話の名人というのは、
ビートたけしというのがいるだろう。
あれも江戸っ子みたいだね。江戸っ子というか、
田舎の下町だからね。そういうところはあるな。
ロジックがあるんですよね、三段論法みたいなのが。
ビートたけしのおっかさんにしても。

粟津】 小林さんのおしゃべりは演奏だからね。

安岡】うん。演奏なんです。まさに。

粟津】いつか、大岡昇平さんが賞を取られたときに、
会がありましてね。小林さんが最初に挨拶をされて。
「大岡君は・・・」ってちょっと志ん生みたいな声でね。
・・・・
(p176~177)

うん。どこで切ったらよいか。引用に迷います。
小林秀雄の声が『志ん生みたいな』というのを
引用したかっただけです(笑)。


さて次は、桑原武夫。
富士正晴著「桂春団治」(河出書房)の
「序にかえて」を桑原武夫が書いております。
そこから、引用。

「当時、落語の名人といえば、
小さんというのが定説であった。
私は現物を聞いたことは二度しかない。
もちろんうまいが、江戸ッ子という言語的制約の
しからしむるところか、さっぱりして枯淡ですらあったが、
私が一流の芸術には不可欠だと思う一要素、
むるっとした艶っぽさ・・・・
そうした感じのものに欠けていて、
これを至芸などといっている江戸っ子文化とは、
薄くはかないものだという気がした。
東京の寄席などに通じているある先生に
一度春団治をお聞かせしたが、
いっこうに感心されなかった。・・・
あの微妙で猥雑な上方弁がわからなくては、
春団治は味わえない。・・・・・

私は、芸術とは何かということを考えるとき、
具体的なものによってしか考えられない私は、
・・・・・
話芸における独創ということを考えるとき、
春団治がいつも支えとなっている。
芸術の大衆性という点についても同じである。
春団治を忘れてはならない。・・・」


え~。
江戸っ子と上方弁の、対決の一幕。
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