古本で購入。
伊藤幹治著「柳田国男と梅棹忠夫」(岩波書店)
副題は「自前の学問を求めて」。
これが送料共で480円で、きれいな新刊並み(笑)。
カバーにはご両人が並んで、
カラーで写っております。
はい。この写真だけで私は満腹。
ちなみに、伊藤幹治氏は「まえがき」で
「晩年の9年余りの短い期間・・
わたしは当時、國學院大學大学院の学生として
柳田さんの講義に出席するほか、・・・
日本文化研究所で、柳田さんのもとで
研究生活を送っていた。」
「梅棹さんと接したのは、1974(昭和49)年4月から
1988年(昭和63)年3月にかけて、大阪の千里に
大学共同利用機関のひとつとして創設された
国立民族学博物館で過ごした14年間ほどの期間である。
梅棹さんは京都大学人文科学研究所教授を辞して
初代館長に就任された。・・・・」
パラリとめくると、
こんな箇所がある。
「1954(昭和29)年秋、梅棹は
『はつらつたる京ことば』を使って、
同志社女子大学で『これからの日本語』
(改題「京ことば研究会のすすめ」)
という講演会をしたことがある。
・・・・・・
この文章を読んでいると、
民博時代の梅棹のゆったりとした
京ことばの語り口が、記憶のなかから
よみがえってくる。」(p147)
はい。「京ことば研究会のすすめ」を
読んでみることに。
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に
それはありました。
本文の前には、どの文にも本人による
「解説」が置かれています。
そこを引用。
「昭和29年の秋、同志社女子大学の国語研究グループから、
講演の依頼があった。・・会場は同大学の教室であった。
わたしはこの際、ひとつの実験をおこなってみようとおもった。
京ことばで講演をしてみようというのである。
そのつもりで草案をつくった。その草案がのこっていたので、
ここに収録した。・・・」(p216)
単行本にして、11頁の講演草案です。
はい。読めてよかったなあ(笑)。
こんな感じです。
「京ことばも、やはり訓練のたまものやとおもいます。
発声法からはじまって、どういうときには、どういう
もののいいかたをするのか、挨拶から応対までを、
いちいちやかましくいわれたもんどした。
とくに中京(なかぎょう)・西陣はきびしゅうて、
よそからきたひとは、これでまず往生しやはります。
口をひらけば、いっぺんに、いなかもんやと
バレてしまうわけどっさかい。・・」(p221)
はい。最後の方も引用。
「こういうことになってくると、
いちばんの問題点は、標準語との衝突
ということどっしゃろな。
あんたはんらだれでも、
うつくしくただしい日本語というのは、
標準語のことで、一方京ことばは方言で、
ただしい日本語とはちがうのやないか、
とおもうてはるかもしれまへん。
しかし、それはおもいちがいどっせ。」
「ほんとの標準語ができあがるまでは、
まだとうぶん時間がかかるとして、
いわゆる標準語というのには、
お気をおつけやしたほうがよろしおす。
みなさん、なにか東京弁ふうにものをいうと、
標準語やとおもてしまうのんと、ちがいますか。」
(~p226)
すくなくとも、私など、京ことばを、
この講演で味わえるのが、うれしい。
そういえば、紙上では、
こういうのって、なかなか味わえないですよね。
梅棹忠夫編「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」(NHK出版)
の最後のコメント2を松原正毅が「知の饗宴」と題して書いて
おられました。そこから、この箇所を引用しておきます。
「卓抜な文章表現者としての梅棹と司馬は、同時に座談の名手である。
梅棹、司馬との対話には、つねに知的こころよさがともなう。
どういう話題であっても、話おえたあとも知的こころよさの余韻がのこる。
本書に収録された座談の名手どうしの対話にも、
行間から知的こころよさの余韻がのこる。
本書に収録された座談の名手どうしの対話にも、
行間から知的こころよさの片鱗がうかがうことは可能であろう。
じっさいの会話では、上方ことばが大量にまじりあうので、
話のたのしさは倍加する。
残念ながら、紙上ではこの話のたのしさを
完全に再現することはできない。・・・」(p297)
うん。とりあえず、京ことばの講演が読めただけでも
私は満足することにします(笑)。
伊藤幹治著「柳田国男と梅棹忠夫」(岩波書店)
副題は「自前の学問を求めて」。
これが送料共で480円で、きれいな新刊並み(笑)。
カバーにはご両人が並んで、
カラーで写っております。
はい。この写真だけで私は満腹。
ちなみに、伊藤幹治氏は「まえがき」で
「晩年の9年余りの短い期間・・
わたしは当時、國學院大學大学院の学生として
柳田さんの講義に出席するほか、・・・
日本文化研究所で、柳田さんのもとで
研究生活を送っていた。」
「梅棹さんと接したのは、1974(昭和49)年4月から
1988年(昭和63)年3月にかけて、大阪の千里に
大学共同利用機関のひとつとして創設された
国立民族学博物館で過ごした14年間ほどの期間である。
梅棹さんは京都大学人文科学研究所教授を辞して
初代館長に就任された。・・・・」
パラリとめくると、
こんな箇所がある。
「1954(昭和29)年秋、梅棹は
『はつらつたる京ことば』を使って、
同志社女子大学で『これからの日本語』
(改題「京ことば研究会のすすめ」)
という講演会をしたことがある。
・・・・・・
この文章を読んでいると、
民博時代の梅棹のゆったりとした
京ことばの語り口が、記憶のなかから
よみがえってくる。」(p147)
はい。「京ことば研究会のすすめ」を
読んでみることに。
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に
それはありました。
本文の前には、どの文にも本人による
「解説」が置かれています。
そこを引用。
「昭和29年の秋、同志社女子大学の国語研究グループから、
講演の依頼があった。・・会場は同大学の教室であった。
わたしはこの際、ひとつの実験をおこなってみようとおもった。
京ことばで講演をしてみようというのである。
そのつもりで草案をつくった。その草案がのこっていたので、
ここに収録した。・・・」(p216)
単行本にして、11頁の講演草案です。
はい。読めてよかったなあ(笑)。
こんな感じです。
「京ことばも、やはり訓練のたまものやとおもいます。
発声法からはじまって、どういうときには、どういう
もののいいかたをするのか、挨拶から応対までを、
いちいちやかましくいわれたもんどした。
とくに中京(なかぎょう)・西陣はきびしゅうて、
よそからきたひとは、これでまず往生しやはります。
口をひらけば、いっぺんに、いなかもんやと
バレてしまうわけどっさかい。・・」(p221)
はい。最後の方も引用。
「こういうことになってくると、
いちばんの問題点は、標準語との衝突
ということどっしゃろな。
あんたはんらだれでも、
うつくしくただしい日本語というのは、
標準語のことで、一方京ことばは方言で、
ただしい日本語とはちがうのやないか、
とおもうてはるかもしれまへん。
しかし、それはおもいちがいどっせ。」
「ほんとの標準語ができあがるまでは、
まだとうぶん時間がかかるとして、
いわゆる標準語というのには、
お気をおつけやしたほうがよろしおす。
みなさん、なにか東京弁ふうにものをいうと、
標準語やとおもてしまうのんと、ちがいますか。」
(~p226)
すくなくとも、私など、京ことばを、
この講演で味わえるのが、うれしい。
そういえば、紙上では、
こういうのって、なかなか味わえないですよね。
梅棹忠夫編「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」(NHK出版)
の最後のコメント2を松原正毅が「知の饗宴」と題して書いて
おられました。そこから、この箇所を引用しておきます。
「卓抜な文章表現者としての梅棹と司馬は、同時に座談の名手である。
梅棹、司馬との対話には、つねに知的こころよさがともなう。
どういう話題であっても、話おえたあとも知的こころよさの余韻がのこる。
本書に収録された座談の名手どうしの対話にも、
行間から知的こころよさの余韻がのこる。
本書に収録された座談の名手どうしの対話にも、
行間から知的こころよさの片鱗がうかがうことは可能であろう。
じっさいの会話では、上方ことばが大量にまじりあうので、
話のたのしさは倍加する。
残念ながら、紙上ではこの話のたのしさを
完全に再現することはできない。・・・」(p297)
うん。とりあえず、京ことばの講演が読めただけでも
私は満足することにします(笑)。