藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)。
昨夜読み返していたら、こんな箇所がある。
「研究室に通うようになって、二年目ぐらいだったろうか。
先生はある本の解説をかくことをひきうけていた。
しめきりまではかなりの日数があったのだが、
約束の日になっても、原稿を送ることができなかった。
・・その本は、全集のなかの一冊だったから、
発行予定日はきまっていて、すでに広告などで発表されている。
でも、先生の解説がかきあがってこない。」
(p222~234)
このあとは、秘書の視点から、原稿が出来上がるまでの
状況を時系列でたどっております。
そうして、この場面の最後は
「どちらにしろ、このときは原稿ができて・・よかった。
その後、何回かこういうことがあり、一週間ねばって
いただいたのに、できなかったこともあった。
カンヅメ状態を試みたが、ついに完成を見なかったときもある。
あのときはできたのに・・・」(p234)
はい。何となく読み過ごしていたのですが、
ちょっと、この箇所が気になったのでした。
ヒントは、
「研究室に通うようになって二年目ぐらい」と
そして、「全集の中の一冊の解説を・・」の二か所。
ちょうど、朝日新聞社の桑原武夫全集が出たのが
そのころです。
桑原武夫全集全7巻の第7回配本が昭和44年3月30日発行とあり。
第7回配本は、第7巻目。その第7巻の解説が梅棹忠夫でした。
もどって、この解説が出来上がらない状況を
藤本ますみさんは書いておいてくれました(笑)。
「めったにないことだが、いろいろと悪条件が重なると、
先生はきょうのようなむずかしい顔つきになる。
たいていは、原稿の執筆が思うようにすすまない、
疲れがたまって体の調子が悪くなる、前の仕事が
すすまないうちにあとの約束が追いかけてきて
二進(につち)も三進(さつち)もいかなくなる・・・と、
こんな悪循環がかさなってしまったときである。
原因は、すべて自分にあるのだからどうしようもない。
短気な人なら、まわりの者にあたりちらすところだが、
自制心の強い先生は、内にぎゅっとおさえて、
この窮地を脱出すべく、苦しみに耐えている。
その表情が、このつらそうな、こわい顔であった。」(p229)
こういう箇所を読んでから、
おもむろに、桑原武夫全集7の解説を読む贅沢(笑)。
第7巻は、登山に関する文があつめられておりました。
梅棹忠夫の解説は、
登山を知らない方々から、もろに顰蹙を買うかもしれない、
そんな微妙な箇所へと、果敢な断定をくだしてゆきます。
ということで梅棹忠夫の解説を引用。
「登山は、知識人のする仕事である。
大文化人でなければ、遠征隊の指揮などとれない。
京大学士山岳会には、そういう大文化人のリーダーが
続出した。・・・京大学士山岳会というのは、
人間形成という点では、やはりすぐれたリーダーの
大量養成所であったというべきであろう。
リーダー桑原武夫は、そこから出てきた。それは、
チョゴリザ遠征隊長としての作戦行動において、
すぐれた指揮者であったばかりではなく、かれの本拠、
京大人文科学研究所における研究活動においても、
みごとに発揮されたのである。
この研究所の共同研究は、すでにあまりに有名である。
・・・ひとくせもふたくせもある学者たちをあつめて、
ひとつのまとまった研究にもってゆくことがどんなに
むつかしいか、それはすこしでも研究ということを
知っているひとなら、すぐわかるだろう。
これは、単なる書斎的文化人でできることではない
こういうところに、遠征隊長に要求されるのと同質的な
リーダーシップをみとめることは、登山家の我田引水であろうか。
わたしどもには、桑原さんが登山家のリーダーであったからこそ、
これができたのだろうという気がする。」
こうして、解説は、大胆な結論へと導いてゆきます。
「・・・・人文科学研究所の共同研究班には、
文学者のほかに、哲学者、心理学者、歴史学者、経済学者、
社会人類学者、さらに農学者までがくわわっている。
その多数の専門のことなる人たちの協力によって、
ひとつのプロジェクトが推進されているのだ。
山岳部出身の桑原さんには、共同研究のありかたということが、
根本的なところでわかっていたのであろう。
単なる、文学部フランス語学・フランス文学出身の
桑原武夫の発想ではなかったのではないか。
共同研究の意味をたかく評価し、それを推進することにかけては、
桑原さんはきわめて熱心であった。その背後には、
このような大学山岳部―――ひいては京大学士山岳会でのありかたと、
そのなかでの今西さんや西堀さんとの交友が、大きい意味をもって
いるとおもわれる。平衡感覚の発達した桑原さんは、
その広い交友のなかから多くのものを吸収して知識の幅をひろげ、
さらに天才的リーダーたちの資質を吸収して、
共同研究のリーダーに成長してゆかれたのではないか。
こういう背景がなかったとしても、桑原さんはもちろん
偉大な学者になられただろうが、そのときはどうも、
すばらしく頭脳の明晰な文化人というイメージしか
出てこないような気がする。そして、そういう人なら、
世のなかにたくさんいるのである。・・・・」
ちなみに、桑原武夫全集全7巻がでたあとに、
3年後の昭和47年に補巻が出ております。
そちらの解説は、司馬遼太郎が書いておりました。
あとは、昭和56年に「桑原武夫伝習録」。
こちらは、梅棹忠夫・司馬遼太郎編となっており、
桑原武夫全集の解説と月報の文がまとめられております。
う~ん。ここまでにします(笑)。
昨夜読み返していたら、こんな箇所がある。
「研究室に通うようになって、二年目ぐらいだったろうか。
先生はある本の解説をかくことをひきうけていた。
しめきりまではかなりの日数があったのだが、
約束の日になっても、原稿を送ることができなかった。
・・その本は、全集のなかの一冊だったから、
発行予定日はきまっていて、すでに広告などで発表されている。
でも、先生の解説がかきあがってこない。」
(p222~234)
このあとは、秘書の視点から、原稿が出来上がるまでの
状況を時系列でたどっております。
そうして、この場面の最後は
「どちらにしろ、このときは原稿ができて・・よかった。
その後、何回かこういうことがあり、一週間ねばって
いただいたのに、できなかったこともあった。
カンヅメ状態を試みたが、ついに完成を見なかったときもある。
あのときはできたのに・・・」(p234)
はい。何となく読み過ごしていたのですが、
ちょっと、この箇所が気になったのでした。
ヒントは、
「研究室に通うようになって二年目ぐらい」と
そして、「全集の中の一冊の解説を・・」の二か所。
ちょうど、朝日新聞社の桑原武夫全集が出たのが
そのころです。
桑原武夫全集全7巻の第7回配本が昭和44年3月30日発行とあり。
第7回配本は、第7巻目。その第7巻の解説が梅棹忠夫でした。
もどって、この解説が出来上がらない状況を
藤本ますみさんは書いておいてくれました(笑)。
「めったにないことだが、いろいろと悪条件が重なると、
先生はきょうのようなむずかしい顔つきになる。
たいていは、原稿の執筆が思うようにすすまない、
疲れがたまって体の調子が悪くなる、前の仕事が
すすまないうちにあとの約束が追いかけてきて
二進(につち)も三進(さつち)もいかなくなる・・・と、
こんな悪循環がかさなってしまったときである。
原因は、すべて自分にあるのだからどうしようもない。
短気な人なら、まわりの者にあたりちらすところだが、
自制心の強い先生は、内にぎゅっとおさえて、
この窮地を脱出すべく、苦しみに耐えている。
その表情が、このつらそうな、こわい顔であった。」(p229)
こういう箇所を読んでから、
おもむろに、桑原武夫全集7の解説を読む贅沢(笑)。
第7巻は、登山に関する文があつめられておりました。
梅棹忠夫の解説は、
登山を知らない方々から、もろに顰蹙を買うかもしれない、
そんな微妙な箇所へと、果敢な断定をくだしてゆきます。
ということで梅棹忠夫の解説を引用。
「登山は、知識人のする仕事である。
大文化人でなければ、遠征隊の指揮などとれない。
京大学士山岳会には、そういう大文化人のリーダーが
続出した。・・・京大学士山岳会というのは、
人間形成という点では、やはりすぐれたリーダーの
大量養成所であったというべきであろう。
リーダー桑原武夫は、そこから出てきた。それは、
チョゴリザ遠征隊長としての作戦行動において、
すぐれた指揮者であったばかりではなく、かれの本拠、
京大人文科学研究所における研究活動においても、
みごとに発揮されたのである。
この研究所の共同研究は、すでにあまりに有名である。
・・・ひとくせもふたくせもある学者たちをあつめて、
ひとつのまとまった研究にもってゆくことがどんなに
むつかしいか、それはすこしでも研究ということを
知っているひとなら、すぐわかるだろう。
これは、単なる書斎的文化人でできることではない
こういうところに、遠征隊長に要求されるのと同質的な
リーダーシップをみとめることは、登山家の我田引水であろうか。
わたしどもには、桑原さんが登山家のリーダーであったからこそ、
これができたのだろうという気がする。」
こうして、解説は、大胆な結論へと導いてゆきます。
「・・・・人文科学研究所の共同研究班には、
文学者のほかに、哲学者、心理学者、歴史学者、経済学者、
社会人類学者、さらに農学者までがくわわっている。
その多数の専門のことなる人たちの協力によって、
ひとつのプロジェクトが推進されているのだ。
山岳部出身の桑原さんには、共同研究のありかたということが、
根本的なところでわかっていたのであろう。
単なる、文学部フランス語学・フランス文学出身の
桑原武夫の発想ではなかったのではないか。
共同研究の意味をたかく評価し、それを推進することにかけては、
桑原さんはきわめて熱心であった。その背後には、
このような大学山岳部―――ひいては京大学士山岳会でのありかたと、
そのなかでの今西さんや西堀さんとの交友が、大きい意味をもって
いるとおもわれる。平衡感覚の発達した桑原さんは、
その広い交友のなかから多くのものを吸収して知識の幅をひろげ、
さらに天才的リーダーたちの資質を吸収して、
共同研究のリーダーに成長してゆかれたのではないか。
こういう背景がなかったとしても、桑原さんはもちろん
偉大な学者になられただろうが、そのときはどうも、
すばらしく頭脳の明晰な文化人というイメージしか
出てこないような気がする。そして、そういう人なら、
世のなかにたくさんいるのである。・・・・」
ちなみに、桑原武夫全集全7巻がでたあとに、
3年後の昭和47年に補巻が出ております。
そちらの解説は、司馬遼太郎が書いておりました。
あとは、昭和56年に「桑原武夫伝習録」。
こちらは、梅棹忠夫・司馬遼太郎編となっており、
桑原武夫全集の解説と月報の文がまとめられております。
う~ん。ここまでにします(笑)。