「桑原武夫紀行文集」全3巻の古本が届いている。
古ほんや板澤書房(秋田市大町)。
1200円+送料510円=1710円なり。
その3巻目は、山岳文集でした。
そのまえがきから引用。
「私は決して謙遜な人間ではない。
しかし、登山について私は謙遜な気持でいる。
登攀もスキーもちっともうまくはないのである。
それがいささかの虚名を博したのは運命というのほかはない。
もし若い私が、
登山に稀有の才能と異常の情熱をもつ青年たち、
やがて世界の登山史、探検史に不朽の名をのこすべき
いくたりかの青年たちに出会い、その仲間に
加わらなかったとするならば、
私は何一つまともな仕事はなしえなかったであろう。
にもかかわらず私は、人生のもっとも楽しい幾日かを
山の中で生き、登山から学問、生活について
多くの貴重な影響をうけた。本書は私にとって
その幸福のささやかな記念碑である。」
年譜をひらくと、
桑原武夫54歳の1958年(昭和34年)の6月から9月まで、
チョゴリザ遠征隊長としてカラコルム(パキスタン)へ。
チョゴリザ登頂に成功。
とあります。
なぜ、54歳だったのか?
チョゴリザ登頂を読みはじめると、AACKの説明がある。
「AACKというのは、京都大学の山岳部出身者で組織したクラブ、
京都大学学士山岳会の略称である。28年前に創立したのだが、
その中心は今西、西堀栄三郎、四手井綱彦、そして亡くなった
髙橋健治などであった。私は三高山岳部以来、この仲間に
加わったのである。AACKは、大学を出てからも山に登ろう、
というのが創立趣意だが、ヒマラヤ遠征が究極目標だった。
・・・計画は、第二次大戦前の諸情勢にはばまれ・・
ヒマラヤに行けなくなったが、仲間はカラフト、冬の白頭山、
興安嶺などに、つぎつぎと遠征した。・・・」
そしてチョゴリザ遠征隊長の依頼が来る。
「1月31日の夜、今西錦司から電話がかかって来たのは、
もうかなりおそかった。アフリカへたつ前にちょっと話したいから、
これから行くという。彼は2月2日、京都をたって、ゴリラの生態研究
の予備調査のために、アフリカ大陸を横断することになっている。
・・・突然、私に、この夏のAACKのチョゴリザ遠征に隊長として
ぜひ出てくれ、と切り出した。・・・」
「私は固辞した。・・だが今西は出発直前、西堀は南極におり、
四手井は関西原子炉設置問題の中心で、しばらくも日本をあける
ことはできない。・・・・
それに副隊長には加藤泰安を出すから、遠征の現場の仕事は
大丈夫だ、ともかく引受けてもらいたいといわれる・・・
それにAACKの委員会といっても、事業の難易と私の実力は、
おそらく私以上に客観的に知っている友人ばかりだ。・・・」
「AACKはすでに何回も遠征隊を出しているので、
何がどれほど必要で、何はどの商社で、またその連絡は
どこを通して、等々といったことは、およそ見当がついている。
すると出発前の隊長の任務は、パキスタンと日本の官庁との
折衝と募金、つまり渉外が主要任務となる。・・・・
そして何とかなるだろう。『優』まではいかずとも、
『良』は取れるだろう。カラチへ着いてから山へ入るまでの
間の現地交渉は、私の英語はひどく貧弱だが、これも
体当りで『良』は確保したい。さてキャラバンに入ってからが
問題だが、これは・・・『不可』にならないことを目標に
してやってみようと考えた。」
「登山にせよ、学術調査にせよ、海外遠征の成否の半ばは、
自国を出発する際に決定しているといわれる。
あらゆる意味で準備が十分でなければならず・・
そして何より金が必要なのだ。・・・
日本の保有外貨は余裕がないので、遠征のための
海外渡航の許可を取るのは容易でない。
遠征の意義、その日程、こまかな予算書を大蔵省、
外務省に提出して口頭説明するのだが、なかなか
スラスラとはまいりかねる。もちろん東京在住の
副隊長以下が精を出してくれるのだが、行きづまると、
『あす来てくれなければ、もうダメです』などと
電話がかかる。何べん東京へ飛んで行ったことか。
加藤の家においた東京の事務所とは毎日定時連絡をするが、
そのほかにも臨時にかけることがあり、電話料は
出発までの10万を越しただろう。
・・・・
いろいろな雑業があって、考えてみれば
遠征計画は一つの企業であり、私はその中小企業の
社長のような位置にあった。・・・・
過労で脚がだるい日など、不安がきざすのだった。
今度の山旅は炎天の下、氷雪の上、二十日はつづく」
南極探検の『宗谷』からの電報も入る。
「『チョゴリザノ ニュース キイタ
キカノゴシュツバ トテモウレシイ
ニシボリ ヨシイ キタムラ』
『宗谷』からの電報は私を元気づけてくれた。
私は西堀と一ばん話したかった。
私がからだのことで一、二弱気なことをいうと、
―――うん、それでええ。
君が出るということが一ばん大事で、一ばんええのや。
ヘバるときはヘバったらええ。
君なら、ヘバったということが、
ちゃんと意味をもってくるからな。
ただ年のいったものは、一ぺんヘバると、
もう一度もち直すのがむつかしい。
仕事はみんな若いものにやらせて、
ラクにするの工夫が肝心や、
それは利己主義とは違うぜ。
そして馬のあるかぎり、必ず馬に乗ること、
それも初めて乗るのだったら、何かスポンジのような
ものをハート型に切って、サルマタにぬいつけたのを
用意して行くとよい、Mのところが引っかからぬように、
ちゃんと切っておかなければだめだ、などと教えてくれた。
そして帰国早々の多忙の中から広い顔をきかせて
準備をたすけてくれた。」
このあと出発してから
「暑さともどかしさ」と題する文のはじまりを
引用して、私の引用はここまで(笑)。
「カルカッタで発動機の小故障のため、三時間、
空港で待たされた。その暑さ。ここは最近
125度を越し、一日に死者が25人も出たという。
早くエア・コンディションの飛行機の中に逃げこみたい。
・・・・」
古ほんや板澤書房(秋田市大町)。
1200円+送料510円=1710円なり。
その3巻目は、山岳文集でした。
そのまえがきから引用。
「私は決して謙遜な人間ではない。
しかし、登山について私は謙遜な気持でいる。
登攀もスキーもちっともうまくはないのである。
それがいささかの虚名を博したのは運命というのほかはない。
もし若い私が、
登山に稀有の才能と異常の情熱をもつ青年たち、
やがて世界の登山史、探検史に不朽の名をのこすべき
いくたりかの青年たちに出会い、その仲間に
加わらなかったとするならば、
私は何一つまともな仕事はなしえなかったであろう。
にもかかわらず私は、人生のもっとも楽しい幾日かを
山の中で生き、登山から学問、生活について
多くの貴重な影響をうけた。本書は私にとって
その幸福のささやかな記念碑である。」
年譜をひらくと、
桑原武夫54歳の1958年(昭和34年)の6月から9月まで、
チョゴリザ遠征隊長としてカラコルム(パキスタン)へ。
チョゴリザ登頂に成功。
とあります。
なぜ、54歳だったのか?
チョゴリザ登頂を読みはじめると、AACKの説明がある。
「AACKというのは、京都大学の山岳部出身者で組織したクラブ、
京都大学学士山岳会の略称である。28年前に創立したのだが、
その中心は今西、西堀栄三郎、四手井綱彦、そして亡くなった
髙橋健治などであった。私は三高山岳部以来、この仲間に
加わったのである。AACKは、大学を出てからも山に登ろう、
というのが創立趣意だが、ヒマラヤ遠征が究極目標だった。
・・・計画は、第二次大戦前の諸情勢にはばまれ・・
ヒマラヤに行けなくなったが、仲間はカラフト、冬の白頭山、
興安嶺などに、つぎつぎと遠征した。・・・」
そしてチョゴリザ遠征隊長の依頼が来る。
「1月31日の夜、今西錦司から電話がかかって来たのは、
もうかなりおそかった。アフリカへたつ前にちょっと話したいから、
これから行くという。彼は2月2日、京都をたって、ゴリラの生態研究
の予備調査のために、アフリカ大陸を横断することになっている。
・・・突然、私に、この夏のAACKのチョゴリザ遠征に隊長として
ぜひ出てくれ、と切り出した。・・・」
「私は固辞した。・・だが今西は出発直前、西堀は南極におり、
四手井は関西原子炉設置問題の中心で、しばらくも日本をあける
ことはできない。・・・・
それに副隊長には加藤泰安を出すから、遠征の現場の仕事は
大丈夫だ、ともかく引受けてもらいたいといわれる・・・
それにAACKの委員会といっても、事業の難易と私の実力は、
おそらく私以上に客観的に知っている友人ばかりだ。・・・」
「AACKはすでに何回も遠征隊を出しているので、
何がどれほど必要で、何はどの商社で、またその連絡は
どこを通して、等々といったことは、およそ見当がついている。
すると出発前の隊長の任務は、パキスタンと日本の官庁との
折衝と募金、つまり渉外が主要任務となる。・・・・
そして何とかなるだろう。『優』まではいかずとも、
『良』は取れるだろう。カラチへ着いてから山へ入るまでの
間の現地交渉は、私の英語はひどく貧弱だが、これも
体当りで『良』は確保したい。さてキャラバンに入ってからが
問題だが、これは・・・『不可』にならないことを目標に
してやってみようと考えた。」
「登山にせよ、学術調査にせよ、海外遠征の成否の半ばは、
自国を出発する際に決定しているといわれる。
あらゆる意味で準備が十分でなければならず・・
そして何より金が必要なのだ。・・・
日本の保有外貨は余裕がないので、遠征のための
海外渡航の許可を取るのは容易でない。
遠征の意義、その日程、こまかな予算書を大蔵省、
外務省に提出して口頭説明するのだが、なかなか
スラスラとはまいりかねる。もちろん東京在住の
副隊長以下が精を出してくれるのだが、行きづまると、
『あす来てくれなければ、もうダメです』などと
電話がかかる。何べん東京へ飛んで行ったことか。
加藤の家においた東京の事務所とは毎日定時連絡をするが、
そのほかにも臨時にかけることがあり、電話料は
出発までの10万を越しただろう。
・・・・
いろいろな雑業があって、考えてみれば
遠征計画は一つの企業であり、私はその中小企業の
社長のような位置にあった。・・・・
過労で脚がだるい日など、不安がきざすのだった。
今度の山旅は炎天の下、氷雪の上、二十日はつづく」
南極探検の『宗谷』からの電報も入る。
「『チョゴリザノ ニュース キイタ
キカノゴシュツバ トテモウレシイ
ニシボリ ヨシイ キタムラ』
『宗谷』からの電報は私を元気づけてくれた。
私は西堀と一ばん話したかった。
私がからだのことで一、二弱気なことをいうと、
―――うん、それでええ。
君が出るということが一ばん大事で、一ばんええのや。
ヘバるときはヘバったらええ。
君なら、ヘバったということが、
ちゃんと意味をもってくるからな。
ただ年のいったものは、一ぺんヘバると、
もう一度もち直すのがむつかしい。
仕事はみんな若いものにやらせて、
ラクにするの工夫が肝心や、
それは利己主義とは違うぜ。
そして馬のあるかぎり、必ず馬に乗ること、
それも初めて乗るのだったら、何かスポンジのような
ものをハート型に切って、サルマタにぬいつけたのを
用意して行くとよい、Mのところが引っかからぬように、
ちゃんと切っておかなければだめだ、などと教えてくれた。
そして帰国早々の多忙の中から広い顔をきかせて
準備をたすけてくれた。」
このあと出発してから
「暑さともどかしさ」と題する文のはじまりを
引用して、私の引用はここまで(笑)。
「カルカッタで発動機の小故障のため、三時間、
空港で待たされた。その暑さ。ここは最近
125度を越し、一日に死者が25人も出たという。
早くエア・コンディションの飛行機の中に逃げこみたい。
・・・・」