朝日選書「ベストセラー物語」下。
ここに、加藤秀俊氏が、梅棹忠夫著「知的生産の技術」を
とりあげておりました。8頁の文で
副題は「情報時代への具体的指針」。
わかりやすい箇所を引用。
「『かんがえる』ということを、
特別にえらばれた人びとの天才的能力の問題だ、
と信じていた多くの日本人にとって、
それを『技術』と断定したこの本は、
たぶんひとつの大きなショックであった。
この本に先行して、『わたしにも写せます』という
8ミリ撮影機のコマーシャルがあったが、
この本も、思想的には、このコマーシャルとおなじ
健康さをもっている。
世のなかにはむずかしいこともたくさんあるけれども、
どんなにむずかしいものであろうと、あるいは
むずかしくみえるものであろうと、手つづき順序を
まちがえずに一歩ずつ練習してゆけば、おおむねできる―――
その原則を、思考の世界にもちこんでみよう、というのだから、
この本は、『かんがえる』ことの不得手な多くのアマチュアにとって、
それまで夢みたこともなかった大きなはげましであった、とおもわれる。」
このあとに、加藤秀俊氏は、
いささか疑問に思う読者に対して
『著者はふたつの方法でこたえた。』と指摘しております。
はい。わたしは、その第一番目だけを引用してみることに、
「その第一は、みずからの体験をそのまま一人称単数の
主語で語ってゆくやりかたである。こうしたらできるだろう、
という推測のかわりに、こうすればできる、あるいは、できた、
という体験にもとづく事実命題がこの本にはみちあふれており、
また、普遍的な一般原則のかわりに、おびただしい数の
個別事例がずらりとならんでいる。こころみに、
この本の数ページをランダムにひらいてみて、
1ページあたり、『わたし』という主語が何回使われているか、
をしらべてみたら、平均3・5回、という結果が出た。
『わたし』、つまり筆者梅棹忠夫が、たとえばタイプライターを
どう使っているか、ファイリングについてどんなくふうをしてきたか、
筆記具としてはなにをえらんだか―――
命題は、つねに『私』を主題にして組み立てられている。
『わたし』を主語にした文学に『私小説』というジャンルがあるが、
そのひそみにならえば『知的生産の技術』は『私論文』ないしは
『私評論』とでもいうべきカテゴリーにぞくする、
ということにでもなろうか。」(p73)
あとは、この本の卓抜な題名について
加藤秀俊氏は、こう指摘しているのでした。
「そもそも『かんがえる』というのはどういうことなのか
―――それを梅棹は『知的生産』というみごとなことばで表現し、
そのための手つづきを『技術』ということばでしめくくった。
『技術』というのは、そのやり方さえわかれば誰にでもできる
領域のことである。自動車の運転、写真のうつしかた、
そしてご飯の炊きかた―――よほど愚鈍でないかぎり、
こうした一連の技術は訓練によって身につけることができる。
きっちりと使いかた、うごかしかたの教則本にのっとって
やってみれば、誰にだってできる。
梅棹は『かんがえる』という行為も、そのすくなからぬ部分は、
『技術』に還元できる、とみた。
それがこの本の卓抜な題名に集約されたのである。」
(p72)
ふう。これだけで私は満腹(笑)。
ここに、加藤秀俊氏が、梅棹忠夫著「知的生産の技術」を
とりあげておりました。8頁の文で
副題は「情報時代への具体的指針」。
わかりやすい箇所を引用。
「『かんがえる』ということを、
特別にえらばれた人びとの天才的能力の問題だ、
と信じていた多くの日本人にとって、
それを『技術』と断定したこの本は、
たぶんひとつの大きなショックであった。
この本に先行して、『わたしにも写せます』という
8ミリ撮影機のコマーシャルがあったが、
この本も、思想的には、このコマーシャルとおなじ
健康さをもっている。
世のなかにはむずかしいこともたくさんあるけれども、
どんなにむずかしいものであろうと、あるいは
むずかしくみえるものであろうと、手つづき順序を
まちがえずに一歩ずつ練習してゆけば、おおむねできる―――
その原則を、思考の世界にもちこんでみよう、というのだから、
この本は、『かんがえる』ことの不得手な多くのアマチュアにとって、
それまで夢みたこともなかった大きなはげましであった、とおもわれる。」
このあとに、加藤秀俊氏は、
いささか疑問に思う読者に対して
『著者はふたつの方法でこたえた。』と指摘しております。
はい。わたしは、その第一番目だけを引用してみることに、
「その第一は、みずからの体験をそのまま一人称単数の
主語で語ってゆくやりかたである。こうしたらできるだろう、
という推測のかわりに、こうすればできる、あるいは、できた、
という体験にもとづく事実命題がこの本にはみちあふれており、
また、普遍的な一般原則のかわりに、おびただしい数の
個別事例がずらりとならんでいる。こころみに、
この本の数ページをランダムにひらいてみて、
1ページあたり、『わたし』という主語が何回使われているか、
をしらべてみたら、平均3・5回、という結果が出た。
『わたし』、つまり筆者梅棹忠夫が、たとえばタイプライターを
どう使っているか、ファイリングについてどんなくふうをしてきたか、
筆記具としてはなにをえらんだか―――
命題は、つねに『私』を主題にして組み立てられている。
『わたし』を主語にした文学に『私小説』というジャンルがあるが、
そのひそみにならえば『知的生産の技術』は『私論文』ないしは
『私評論』とでもいうべきカテゴリーにぞくする、
ということにでもなろうか。」(p73)
あとは、この本の卓抜な題名について
加藤秀俊氏は、こう指摘しているのでした。
「そもそも『かんがえる』というのはどういうことなのか
―――それを梅棹は『知的生産』というみごとなことばで表現し、
そのための手つづきを『技術』ということばでしめくくった。
『技術』というのは、そのやり方さえわかれば誰にでもできる
領域のことである。自動車の運転、写真のうつしかた、
そしてご飯の炊きかた―――よほど愚鈍でないかぎり、
こうした一連の技術は訓練によって身につけることができる。
きっちりと使いかた、うごかしかたの教則本にのっとって
やってみれば、誰にだってできる。
梅棹は『かんがえる』という行為も、そのすくなからぬ部分は、
『技術』に還元できる、とみた。
それがこの本の卓抜な題名に集約されたのである。」
(p72)
ふう。これだけで私は満腹(笑)。