加藤秀俊著「わが師わが友」を、あらためてひらくと、
こんな箇所があったのでした。
「もつべきものは友だち、とよくいわれる・・・
そのなかで、とくにありがたいとおもっているのは
このグループなのである。」(p91)
これは「社会人類学研究班」の章にあります。
そこから詳しく引用。
「この今西流の学問のすさまじさをわたしはその後、
社会人類学研究班に参加することで思い知らされた。
とにかく、この研究会の議論たるや、ものすごいのである。
梅棹さんや藤岡さんはもとよりのこと、川喜田二郎、
中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、
和崎洋一といった論客がずらりと顔をそろえ、
わたしと同世代の人間としては、米山、谷、それに
佐々木高明、といった人びとがいた。このメンバーは、
それぞれ頑固としかいいようのないほど自己主張がつよく、
第三者がみると、喧嘩をしているのではないか、
としかおもえないほど議論は白熱した。
だが、この人びとにはひとつの共通した特性があった。
それは、現地調査に出かけた人物がもたらす一次的素材
に関しては、絶対的な信頼を置くということである。
一般に学者の議論というものは、書物で得た知識にもとづいた
ものであることが多い。・・・しかし、そういう論法は
この研究会ではいっさい通用しなかった。
トインビーいわく、といった俗物的引用をする人間がいると、
誰かが、それはトインビーが間違っとるのや、あのおっさんは
カンちがいしよるからな、と軽く否定するのであった。
そのかわり、フィールド経験は最高に信頼された。・・・」
(p88~89)
「この研究会についてひとつつけ加えておくべきことがある。
それは、この研究会のメンバーの多くが、京大学士山岳会、
および京大探検隊の出身者であった、ということだ
・・・・共同の作業は一糸乱れずにすすめてゆくが、
『人情』というものではいっさいうごかされない・・・
そんなふうに、きっちりとケジメがついているからこそ、
人間関係はかえってさわやかだった。研究会がおわると、
それまで顔面蒼白になって論戦をつづけていた二人の人物が、
肩をならべて酒を飲みに出かける、といった風景も日常的であった。
学問上の自説は曲げない、だが、人間としてのつきあいは別だ
―――そのことを、わたしはこの研究会の人びとから教えられたのである。
学問上の見解あるいはイデオロギーのちがいから、個人的な
怨恨関係をもつようになった、という事例をわたしはいくつも知っている。
いや、日本の学界では、そういうことのほうが多い。
だが、この研究会のメンバーのわかちあう哲学は、そうではなかった。
・・・このグループの人間的つながりは、こんにちにいたっても、
なお強力にのこっている。・・・・
それを象徴するかのように、毎年二月の末には、
今西先生を中心に『洛北セミナー』という、いわば研究会OB会
がひらかれる。OB会といっても、当時をなつかしむ式の宴会ではない。
こんにちもなお、このときのメンバーは、かつてとおなじような
学術討論に夜を徹するのが習慣になっているのだ。」
(p90~92)
うん。まだまだ続くのですが、キリがない(笑)。
このなかで、加藤秀俊氏は
「もつべきものは友だち、とよくいわれるし、
わたしはさいわいにしてよき友にめぐまれているけれども、
そのなかで、とくにありがたいとおもっているのは
このグループなのである。」(p91)
と念をおしているのでした。
こんな箇所があったのでした。
「もつべきものは友だち、とよくいわれる・・・
そのなかで、とくにありがたいとおもっているのは
このグループなのである。」(p91)
これは「社会人類学研究班」の章にあります。
そこから詳しく引用。
「この今西流の学問のすさまじさをわたしはその後、
社会人類学研究班に参加することで思い知らされた。
とにかく、この研究会の議論たるや、ものすごいのである。
梅棹さんや藤岡さんはもとよりのこと、川喜田二郎、
中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、
和崎洋一といった論客がずらりと顔をそろえ、
わたしと同世代の人間としては、米山、谷、それに
佐々木高明、といった人びとがいた。このメンバーは、
それぞれ頑固としかいいようのないほど自己主張がつよく、
第三者がみると、喧嘩をしているのではないか、
としかおもえないほど議論は白熱した。
だが、この人びとにはひとつの共通した特性があった。
それは、現地調査に出かけた人物がもたらす一次的素材
に関しては、絶対的な信頼を置くということである。
一般に学者の議論というものは、書物で得た知識にもとづいた
ものであることが多い。・・・しかし、そういう論法は
この研究会ではいっさい通用しなかった。
トインビーいわく、といった俗物的引用をする人間がいると、
誰かが、それはトインビーが間違っとるのや、あのおっさんは
カンちがいしよるからな、と軽く否定するのであった。
そのかわり、フィールド経験は最高に信頼された。・・・」
(p88~89)
「この研究会についてひとつつけ加えておくべきことがある。
それは、この研究会のメンバーの多くが、京大学士山岳会、
および京大探検隊の出身者であった、ということだ
・・・・共同の作業は一糸乱れずにすすめてゆくが、
『人情』というものではいっさいうごかされない・・・
そんなふうに、きっちりとケジメがついているからこそ、
人間関係はかえってさわやかだった。研究会がおわると、
それまで顔面蒼白になって論戦をつづけていた二人の人物が、
肩をならべて酒を飲みに出かける、といった風景も日常的であった。
学問上の自説は曲げない、だが、人間としてのつきあいは別だ
―――そのことを、わたしはこの研究会の人びとから教えられたのである。
学問上の見解あるいはイデオロギーのちがいから、個人的な
怨恨関係をもつようになった、という事例をわたしはいくつも知っている。
いや、日本の学界では、そういうことのほうが多い。
だが、この研究会のメンバーのわかちあう哲学は、そうではなかった。
・・・このグループの人間的つながりは、こんにちにいたっても、
なお強力にのこっている。・・・・
それを象徴するかのように、毎年二月の末には、
今西先生を中心に『洛北セミナー』という、いわば研究会OB会
がひらかれる。OB会といっても、当時をなつかしむ式の宴会ではない。
こんにちもなお、このときのメンバーは、かつてとおなじような
学術討論に夜を徹するのが習慣になっているのだ。」
(p90~92)
うん。まだまだ続くのですが、キリがない(笑)。
このなかで、加藤秀俊氏は
「もつべきものは友だち、とよくいわれるし、
わたしはさいわいにしてよき友にめぐまれているけれども、
そのなかで、とくにありがたいとおもっているのは
このグループなのである。」(p91)
と念をおしているのでした。