「座談 今西錦司の世界」(平凡社・昭和50年)が本棚にある。
納品書には、平成24年12月に送料共・380円なり。
古本で買ったままに、本棚に収まっておりました。
今が読み頃と、最後の方をめくる。
「解説にかえて―――今西錦司の世界を語る」
鼎談で、森下正明・梅棹忠夫・河合雅雄の3名。
うん。読めてよかった(笑)。
はじまりは河合雅雄氏でした。
河合】 私、きょう、司会というよりも進行役を仰せつかった
わけなんですが、今西さんの『今西錦司の世界』という座談会
が雑誌『マニア』に12回連載されて、それが今度、単行本に
まとめられる。で、その解説なり、入門書の役目をするような
座談会を、というのがきょうの主旨なんです。・・・・
この司会役は、二か所にわたって、
今西さんと京都との関連を指摘しておりました。
その二か所目を引用してみます。
河合】生粋の日本人、生粋の京都人だということなんですね。
ぼくはやっぱり、それが西陣の生まれというところにつながる
ものがあると思うんです。山がアルプスではなくて北山であり
丹波の山であり、京都とその周辺というものと密着した文化的
土着性みたいなもの―――文化的に成熟したほんものが心の髄まで
入り込んでしまったというようなこと・・・。
梅棹】ぼくも同じ京都の西陣の生まれやから、
それはほんまによくわかります。つまり西洋何するものぞ、
というほど気負うたものじゃないけど、たとえば、やっぱりこれは
北京とか洛陽とか、そういうところに匹敵するところなんだ。
一個の大文明のセンターだという意識は、これはありますわ、
やっぱり。そこによそのものが導入されて少し花が咲いてきた。
べつに勝負というほどのことはないけれど、
ここはここで勝手なこと言うてもよろしやないかという、
その意識はあるな。
河合】今西さんは探検の座談のところで
『探検の原動力はライバル意識だ』ということを
はっきり言っていますね。西欧との対決というところで
・・・それが成立する土台があったんでしょうね。
梅棹】・・・・・・もちろんそれは
客観的な力は少々及ばないかもしれないけれども、
意識としてはハーバードでありオックスフォードだという、
それがありますわね。何を言うたってかまへんやなか。
ところが、そこへ行って学んできた人はあかんのや、
それが言えんようになって帰ってくる。
われわれには知らん者の強味みたいなものがあってな。
森下】今西さんという人は、
こういう初期の時代から考えてみると、
いわば何ものにもとらわれない一つの見方というものを
最大限に求めはったわけやけど、しかしそのプロセスとしては、
新しい考え方というものを、ほかの人の考え方であっても
わりあいにフリーに取り入れようとする、
そういう側面はありますね。・・・・
(p374~375)
今西錦司への追悼文で、私に印象に残っているのは、
梅棹忠夫の「ひとつの時代のおわり」がありました。
この鼎談を読んでいると、その追悼文の意味の深みへ、
どんどん踏みこんでゆくような緊迫感があるのでした。
納品書には、平成24年12月に送料共・380円なり。
古本で買ったままに、本棚に収まっておりました。
今が読み頃と、最後の方をめくる。
「解説にかえて―――今西錦司の世界を語る」
鼎談で、森下正明・梅棹忠夫・河合雅雄の3名。
うん。読めてよかった(笑)。
はじまりは河合雅雄氏でした。
河合】 私、きょう、司会というよりも進行役を仰せつかった
わけなんですが、今西さんの『今西錦司の世界』という座談会
が雑誌『マニア』に12回連載されて、それが今度、単行本に
まとめられる。で、その解説なり、入門書の役目をするような
座談会を、というのがきょうの主旨なんです。・・・・
この司会役は、二か所にわたって、
今西さんと京都との関連を指摘しておりました。
その二か所目を引用してみます。
河合】生粋の日本人、生粋の京都人だということなんですね。
ぼくはやっぱり、それが西陣の生まれというところにつながる
ものがあると思うんです。山がアルプスではなくて北山であり
丹波の山であり、京都とその周辺というものと密着した文化的
土着性みたいなもの―――文化的に成熟したほんものが心の髄まで
入り込んでしまったというようなこと・・・。
梅棹】ぼくも同じ京都の西陣の生まれやから、
それはほんまによくわかります。つまり西洋何するものぞ、
というほど気負うたものじゃないけど、たとえば、やっぱりこれは
北京とか洛陽とか、そういうところに匹敵するところなんだ。
一個の大文明のセンターだという意識は、これはありますわ、
やっぱり。そこによそのものが導入されて少し花が咲いてきた。
べつに勝負というほどのことはないけれど、
ここはここで勝手なこと言うてもよろしやないかという、
その意識はあるな。
河合】今西さんは探検の座談のところで
『探検の原動力はライバル意識だ』ということを
はっきり言っていますね。西欧との対決というところで
・・・それが成立する土台があったんでしょうね。
梅棹】・・・・・・もちろんそれは
客観的な力は少々及ばないかもしれないけれども、
意識としてはハーバードでありオックスフォードだという、
それがありますわね。何を言うたってかまへんやなか。
ところが、そこへ行って学んできた人はあかんのや、
それが言えんようになって帰ってくる。
われわれには知らん者の強味みたいなものがあってな。
森下】今西さんという人は、
こういう初期の時代から考えてみると、
いわば何ものにもとらわれない一つの見方というものを
最大限に求めはったわけやけど、しかしそのプロセスとしては、
新しい考え方というものを、ほかの人の考え方であっても
わりあいにフリーに取り入れようとする、
そういう側面はありますね。・・・・
(p374~375)
今西錦司への追悼文で、私に印象に残っているのは、
梅棹忠夫の「ひとつの時代のおわり」がありました。
この鼎談を読んでいると、その追悼文の意味の深みへ、
どんどん踏みこんでゆくような緊迫感があるのでした。