和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「なんにしまひょか」

2019-08-19 | 本棚並べ
京都のうどん屋さんに、
うどん品切れの表示がありました。

五条通を歩いていると、車道とは別に、
歩道と自転車道とがあるんですね。

京都駅から、東本願寺へと歩き始めると、
パチンコ屋がある。わたしが知るような、
地方市の駅前通りは、もうパチンコ屋は
珍しくなりました。郊外のバイパス近辺の
パチンコ屋なら、ちょくちょくお目にかかります。
ちなみに、わたしはパチンコをしないなあ。

さてっと、思い浮かんだのは、
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社)。

時は、1953年。東京にいる加藤秀俊さんは、
京都大学人文科学研究所の助手の募集にひかれます。

「『思想の科学研究会』をつうじて、鶴見俊輔さんを知り、また
多田道太郎さんを知っていた。このふたりの人物の話をきいていると、
ときには漫才のごとく、ときには形而上学のごとく
(もっとも、このふたつは似たようなものかも知れぬ)、
話題はあちらこちらにとび、わたしは、ただ、
あれよあれよと呆気にとられるだけであった。
その鶴見さんが人文の助教授、多田さんが助手。・・・
こういう人たちといっしょに勉強できるなら、
人生はたのしかろうとおもっていた。その人文からの公募である。
わたしには、いささかのためらいもなかった。」
(p43)

 そして、面接もうけたあとでした。

「多田さんがそこで待っていてくれた。疲れたでしょう、
うどんでも食いに行きましょうか―――
多田さんはわたしにほほえみかけてくれた。
 ・・・・・・・黙って歩きつづけ、
銀閣寺の橋本関雪邸のちかくのうどん屋にはいった。
おかみさんがなんにしまひょか、と注文をとりにきた。
わたしは壁にかけられたいろがきを見て、
『たぬきうどん』といった。なにしろ、
貧乏暮らしがつづいていたので、東京では、
あこがれの天ぷらうどんなど食べる余裕がなく、
もっぱら、天ぷらのあげ玉をのせた『たぬきうどん』を
食べつづけていたから、かなしい習慣で、
自動的に『たぬき』と反応したのであろう。しかし、
やがてはこばれてきた『たぬきうどん』なるものは、
東京でいう『あんかけ』であった。
関東の呼称法と、関西のそれとのあいだに、たいへんな
落差があることをわたしはそのときはじめて発見した。」
(~p46)

 助手に採用されてからでした。

「日が暮れて、さあ帰ろうか、という時分になると、
多田、樋口(謹一)両氏のいずれかが、右手の親指をまげ、
ちょっとやらへんか、とおっしゃる。要するにパチンコ
なのである。・・よくパチンコに出かけた。・・・

このパチンコで、わたしは
京都文化というものに開眼したような気がする。
それまでわたしの生活していた東京では、
およそパチンコなどというものは『庶民』のする、
おろかな娯楽であり、知識人というものは、
そんなものに手をふれるべきでない、
そんなムダな時間があるなら、本でも読むべきである、
といったスノビズムが支配的であった。・・・
ところが、京都では、身分は助手であっても、
いやしくも文部教官という肩書きをもった人たちが、
ごくあたりまえにパチンコ屋に堂々と出入りする。
パチンコ屋のなかで顔をあわせても、どうですか、
入りますか、などとやりとりをしている。
その、ごくしぜんなのびやかさが、
わたしにはうれしかった。」(p48)


はい。「たぬき」と「パチンコ屋」でもって
京都文化への開眼をはたした一節でした(笑)。


コメント
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