小長谷有紀編「梅棹忠夫のことば」(河出書房新社)。
この本は、ありがたい。
知的整理のカードシステムって、こんなふうな使い方をするのだ。
その見本のような一冊。そのままにして梅棹忠夫への水先案内書。
ページを開き、右頁が梅棹忠夫著作集からの拾われた言葉。
見開き左頁は、それにまつわる小長谷有紀氏の記載メモ。
ということで、引用。
第2章は「知の整理」。そのはじまり。
まず右頁から
「・・・知的活動が、
いちじるしく生産的な意味をもちつつあるのが現代なのである。
知的生産ということばは、いささか耳なれないことばだが、
これもそのような時代のうごきを反映しようとしたものとして、
うけとっていただきたい。また、
人間の知的活動を、教養としてではなく、
積極的な社会参加の仕かたとしてとらえようというところに、
この『知的生産の技術』というかんがえかたの意味も
あるのではないだろうか。」
はい。次は小長谷有紀さんの左頁のコメント。
うん。短文の、前半部分を引用。
「かつて、生産といえば農作物や工業製品を作ることであった。
たとえば本のように知にかかわることは、ほんの一握りの人たちが
生産する以外は、圧倒的に消費の行為である、と考えられていた。
しかし、21世紀の現代ではまったくさまがわりしている。
多くの人たちがブログを書いて、情報を提供し、意見を開陳している。
収入を得るかどうかではなく、(積極的な社会参加の仕かた)として、
知的生産にたずさわっている。だから、〈知的生産の技術〉とは、
いかに情報を整理するかという方法論であると同時に、情報発信を
通じていかに社会とかかわりながら生きるかという哲学でもある。
・・・」
はい。わたしは梅棹忠夫著作集を今年購入したものです(笑)。
それを読みはじめても、ついつい読書が脇道へとそれてゆく。
そんなときに、立ちかえるのに心強い本「梅棹忠夫のことば」
であります(笑)。
この本「梅棹忠夫のことば」の最後も引用。
右頁は、こうでした。
「最後にもう一ど、思想はつかうべきものである。
思想は論ずるためだけにあるものではない。
思想は西洋かぶれのプロ思想家の独占物ではないのであって、
アマチュアたる土民のだれかれの自由な使用にゆだねるべきである。
プロにはまかせておけない。アマチュア思想道を確立すべきである。」
はい。こうして、わたしも、ごく自然に、
「梅棹忠夫著作集」へとチャレンジができそうな気になります。
この本は、ありがたい。
知的整理のカードシステムって、こんなふうな使い方をするのだ。
その見本のような一冊。そのままにして梅棹忠夫への水先案内書。
ページを開き、右頁が梅棹忠夫著作集からの拾われた言葉。
見開き左頁は、それにまつわる小長谷有紀氏の記載メモ。
ということで、引用。
第2章は「知の整理」。そのはじまり。
まず右頁から
「・・・知的活動が、
いちじるしく生産的な意味をもちつつあるのが現代なのである。
知的生産ということばは、いささか耳なれないことばだが、
これもそのような時代のうごきを反映しようとしたものとして、
うけとっていただきたい。また、
人間の知的活動を、教養としてではなく、
積極的な社会参加の仕かたとしてとらえようというところに、
この『知的生産の技術』というかんがえかたの意味も
あるのではないだろうか。」
はい。次は小長谷有紀さんの左頁のコメント。
うん。短文の、前半部分を引用。
「かつて、生産といえば農作物や工業製品を作ることであった。
たとえば本のように知にかかわることは、ほんの一握りの人たちが
生産する以外は、圧倒的に消費の行為である、と考えられていた。
しかし、21世紀の現代ではまったくさまがわりしている。
多くの人たちがブログを書いて、情報を提供し、意見を開陳している。
収入を得るかどうかではなく、(積極的な社会参加の仕かた)として、
知的生産にたずさわっている。だから、〈知的生産の技術〉とは、
いかに情報を整理するかという方法論であると同時に、情報発信を
通じていかに社会とかかわりながら生きるかという哲学でもある。
・・・」
はい。わたしは梅棹忠夫著作集を今年購入したものです(笑)。
それを読みはじめても、ついつい読書が脇道へとそれてゆく。
そんなときに、立ちかえるのに心強い本「梅棹忠夫のことば」
であります(笑)。
この本「梅棹忠夫のことば」の最後も引用。
右頁は、こうでした。
「最後にもう一ど、思想はつかうべきものである。
思想は論ずるためだけにあるものではない。
思想は西洋かぶれのプロ思想家の独占物ではないのであって、
アマチュアたる土民のだれかれの自由な使用にゆだねるべきである。
プロにはまかせておけない。アマチュア思想道を確立すべきである。」
はい。こうして、わたしも、ごく自然に、
「梅棹忠夫著作集」へとチャレンジができそうな気になります。