梅棹忠夫著「知的生産の技術」。
その第四章「きりぬきと規格化」は、
まず、新聞の切り抜きの小学校の思い出から
はじまっていたのでした。
「小学生のころ、
新聞に『良寛さま』という連載小説がのっていた。
わたしたちは、担任の先生から、毎日その一回分を
よんできかせてもらうのがたのしみだった。先生は、
その小説をきりぬいて、ながくつなぎあわせ、
まき紙のようにまいて保存しておられた。
良寛和尚の人がらとともに、
新聞にはきりぬいて保存するにたる部分があるものだ
という事実が、ながくわたしの記憶にのこることとなった。」
第四章は、こうしてはじまっておりました。
さてさて、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」の第三章に
「新聞切抜事業団」という箇所がありました。
こうあります。
「そのころ、先生(梅棹)は家で日刊紙を三つとておられた。」
「新聞は待ったなしにやってくる。どんどんたまっていく新聞を、
日付順に並べて一カ月文をヒモでくくる仕事は、奥さまの役割の
ようだった。・・梅棹家の物置きは、たまりにたまった先生の
古新聞に占拠され、パンク寸前のところまできてしまった。」
「その古新聞の山が片づくチャンスが、ついにきた。
1967年のことである。加納一郎先生の古稀記念事業に、
その門下生たちのあいだで、今日までの日本の探検の全成果を
まとめて出版しようという企画がもちあがったのである。
・・・計画は最初『探検講座』と呼ばれ、具体的にことが
進行するまで、事務連絡は当然のことながら、研究室でひきうけた。
その探検講座の資料の一部に、先生は自分の新聞を提供しよう
と考えられた。たまった新聞は、十年分はゆうにある。
このなかから、探検や冒険に関連のある記事を切り抜いていけば、
立派な文献資料ができる。探検ジャーナリスト、加納一郎先生を
編集委員の筆頭に立ててつくる探検講座には、絶対必要な資料で
はないか。講座づくりにつかったあとは、公共のものにして、
みんなで利用するようにしたらいい。
出版社に交渉したら、切り抜きに必要な経費は、
編集費の一部として出していただけることになり、
物置きに眠る古新聞は、いよいよ日の目を見ることになった。」
フィールド・ワークの経験もある福井勝義さんが
まかせられて、その作業ははじまりました。
「話がきまればあとは早い。切り抜いてもらいたい記事、
取りたい記事が両面にあるときはどちらを優先するか、
アルバイト料はいくらにするかなど、いくつかのことをとりきめた。
研究所の裏にある・・部屋が、このために少しスペースを提供した。
アルバイトをしてくれる・・若者たちの手で、
梅棹家から古新聞がはこびこまれ、台紙、合成糊、赤色マジックペン、
新聞名や日付を台紙におすハンコ、スタンプ台、カッターなど
消耗品は・・届けてもらった。いよいよ作業開始である。
気になっていた記事の指定は、選定基準をもとに、
まず学生たちが赤で記事をかこみ、そのあと、福井さんが
記事のとりこぼしがないかチェックする。さらに
切り抜きと台紙にはりつける作業は、
梅棹家のお子さんと若い学生さんたちで
手わけしてやるときまった。
・・・・
用事でときどき裏の作業場へ行くと、
手をまっ黒にして新聞をめくり、赤マジックでかこみをつけ
ている若者たちを見た。梅棹家では家族の見終わったあとの
新聞を、奥さまがきちんとたたまれ、積みあげていられるの
を見たことがある。・・・・
それにしても、先生が十年分の新聞を持ちこたえてきた
執念には、おそれいる。・・・・
これらを途中であきらめないで持続できるエネルギーは、
どこからわいてくるのであろうか。」
(p206~212)
さてっと、梅棹家のお子さんには、
この技術、どのように記憶にのこったのでしょう。
ちなみに、
岩波新書で「知的生産の技術」が出たのは、
ほぼ同じころの、1969年でした。
その第四章「きりぬきと規格化」は、
まず、新聞の切り抜きの小学校の思い出から
はじまっていたのでした。
「小学生のころ、
新聞に『良寛さま』という連載小説がのっていた。
わたしたちは、担任の先生から、毎日その一回分を
よんできかせてもらうのがたのしみだった。先生は、
その小説をきりぬいて、ながくつなぎあわせ、
まき紙のようにまいて保存しておられた。
良寛和尚の人がらとともに、
新聞にはきりぬいて保存するにたる部分があるものだ
という事実が、ながくわたしの記憶にのこることとなった。」
第四章は、こうしてはじまっておりました。
さてさて、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」の第三章に
「新聞切抜事業団」という箇所がありました。
こうあります。
「そのころ、先生(梅棹)は家で日刊紙を三つとておられた。」
「新聞は待ったなしにやってくる。どんどんたまっていく新聞を、
日付順に並べて一カ月文をヒモでくくる仕事は、奥さまの役割の
ようだった。・・梅棹家の物置きは、たまりにたまった先生の
古新聞に占拠され、パンク寸前のところまできてしまった。」
「その古新聞の山が片づくチャンスが、ついにきた。
1967年のことである。加納一郎先生の古稀記念事業に、
その門下生たちのあいだで、今日までの日本の探検の全成果を
まとめて出版しようという企画がもちあがったのである。
・・・計画は最初『探検講座』と呼ばれ、具体的にことが
進行するまで、事務連絡は当然のことながら、研究室でひきうけた。
その探検講座の資料の一部に、先生は自分の新聞を提供しよう
と考えられた。たまった新聞は、十年分はゆうにある。
このなかから、探検や冒険に関連のある記事を切り抜いていけば、
立派な文献資料ができる。探検ジャーナリスト、加納一郎先生を
編集委員の筆頭に立ててつくる探検講座には、絶対必要な資料で
はないか。講座づくりにつかったあとは、公共のものにして、
みんなで利用するようにしたらいい。
出版社に交渉したら、切り抜きに必要な経費は、
編集費の一部として出していただけることになり、
物置きに眠る古新聞は、いよいよ日の目を見ることになった。」
フィールド・ワークの経験もある福井勝義さんが
まかせられて、その作業ははじまりました。
「話がきまればあとは早い。切り抜いてもらいたい記事、
取りたい記事が両面にあるときはどちらを優先するか、
アルバイト料はいくらにするかなど、いくつかのことをとりきめた。
研究所の裏にある・・部屋が、このために少しスペースを提供した。
アルバイトをしてくれる・・若者たちの手で、
梅棹家から古新聞がはこびこまれ、台紙、合成糊、赤色マジックペン、
新聞名や日付を台紙におすハンコ、スタンプ台、カッターなど
消耗品は・・届けてもらった。いよいよ作業開始である。
気になっていた記事の指定は、選定基準をもとに、
まず学生たちが赤で記事をかこみ、そのあと、福井さんが
記事のとりこぼしがないかチェックする。さらに
切り抜きと台紙にはりつける作業は、
梅棹家のお子さんと若い学生さんたちで
手わけしてやるときまった。
・・・・
用事でときどき裏の作業場へ行くと、
手をまっ黒にして新聞をめくり、赤マジックでかこみをつけ
ている若者たちを見た。梅棹家では家族の見終わったあとの
新聞を、奥さまがきちんとたたまれ、積みあげていられるの
を見たことがある。・・・・
それにしても、先生が十年分の新聞を持ちこたえてきた
執念には、おそれいる。・・・・
これらを途中であきらめないで持続できるエネルギーは、
どこからわいてくるのであろうか。」
(p206~212)
さてっと、梅棹家のお子さんには、
この技術、どのように記憶にのこったのでしょう。
ちなみに、
岩波新書で「知的生産の技術」が出たのは、
ほぼ同じころの、1969年でした。