和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

知的生産術・知的格闘術。

2019-08-12 | 本棚並べ
今西錦司追悼文「ひとつの時代のおわり」のなかに、
『それはまるで知的格闘術の道場であった』と記す箇所があります。

そこを引用。

「・・・ミクロネシアを皮きりに、わたしたちは
1942年の北部大興安嶺、1944年から46年のモンゴルと、
たてつづけに大陸における学術探検を実施するのだが、
今西はつねにそのリーダーだった。青年たちに対する
今西の指導は徹底したものであった。
つねに、自然を直接に自分の目でみよ、というのが基本であった。

そして、直接の観察でえた事実をどう解釈するかを議論するのである。
わたしたちは探検家として行動しながら、
夜にはキャンプで猛烈に議論をした。
議論はフィールドだけではなかった。
京都においても、ことあるたびにあつまって議論をした。
議論はしばしば深夜におよんだ。

青年たちに対して今西はつねに対等に議論した。
わたしたちは論理をふりかざして今西にいどみかかった。
今西は若者たちに対して、なさけ容赦なくきりかえしてきた。
それはまるで知的格闘術の道場であった。

この知的格闘においては、
つねに自分の目でたしかめた事実とみずからの
独創的な見解が尊重された。だれがどういっているなど
という他人からの借りものの言説はもっとも軽蔑された。
この気風は、今西を中心とするわれわれの仲間のあいだでは、
のちのちまでもながく保持されているものである。」

この「知的格闘術の道場」ということで
ひとつ、私に思い浮かぶ箇所があります。

斎藤清明著「京大人文研」(創隆社)。
その第9章「多士済済」に

「・・・多士済済であった。
なかでも今西は、ひときわ異彩を放つことになる。・・
今西が研究所に入って間もないころ、『人文学報』第一号の
合評会があった。西洋部から出席していた今西は、
巻頭を飾っていた日本部の教授、重松俊明の論文
『身分社会の基礎理論』に対して

『これは学術論文ですか、それとも単なる報告なんですか』
ぶっきらぼうに言い放った。
『〇〇〇がこういうとる。×××によるとこうだ、などと、
そんな他人の説ばかりひいてきてるのを、
ボクらはペーパー(論文)とはいわへんのですけど』

合評会はシーン、としらけてしまう。
司会役の桑原もとりつくろいようがなく、弱ってしまった。
若い研究者に対してなら、厳しい助言になろうが、
ひとかどの学者に対してズケズケというのは、今西ならではのこと。

今西にとって、『事実はこうだ。オレはこう考える』という
研究者のオリジナリティーが何にも増して大切なのである。
今西の個性の強さといえばそれまでだが、新参の講師である今西の、
そんな辛辣な発言を認めるような雰囲気が、人文にはあった。

のちに加藤秀俊も、人文に来たばかりのころ、
今西にカツンとやられている。
入所して自分の研究を所内で最初に発表したときである。
E・フロムの『自由からの逃走』をもとに『国民性』研究について、
日本人もフロムのいう『サド・マゾヒズム的傾向』をもっている
のではないか、とか述べた。質問やコメントがひととおり終わると、
それまでブスッとしていた今西が加藤に向かって言った。

『おまえはものごとの順序を逆にしとる。
フロムはフロムでよろしい。しかし、フロムはどれだけ
実証的事実をもっとる。まして日本人についていうのに、
おまえはひとつも根拠になる事実をいってないやないか。
おまえにはまず他人の学説に基づく結論があって、
その結論を飾り立てているだけや。
学問というのは事実から模索していくもんで、
結論なんかすぐに出なくてよろしい。
これからは、事実だけをいうことにせい』

それだけいうと、今西はタバコに火をつけて横を向いてしまった。
・・・・加藤が立ちすくんでいると、助手の藤岡が、

『まあ、そういうことでしゃろな。では、これで』

と会を締めくくった。今西流学問のすさまじさの洗礼を受けた
加藤は、のちに今西の社会人類学研究班に積極的に加わっていく。」
(p142~144)

ここに、『今西流学問』とある。
「座談 今西錦司の世界」(平凡社)の
最後にある「今西錦司の世界を語る―――解説にかえて」で
雑誌に12回連載された座談会を、最後に解説しているなかで
梅棹忠夫は、その連載座談会への読後の違和感を述べております。

「たとえば、私なんか、
文学を読み、哲学を語りというようなことは、
全部今西さんからたたき込まれたことなんです。
文章が今日書けるようになったのも、
こういう座談会でひとかどのことをしゃべれるようになったのも、
全部今西錦司という人物によって開発されたことなんだ、
そういうことを言いたいわけなんです。
それを単に学者として、今西学というところへ閉じ込められると、
ちょっと私の気持からそぐわないものがある。
もちろん、学問として非常に大きなものも
私は今西さんからちょうだいいたしました。
しかし、どうもそれだけではないんやね。」(p361)


はい。
「知的生産の技術」には盛り込めなかった、
「知的格闘の技術」の現場を思い描きます。




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