和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

文間の余白。

2010-08-11 | 他生の縁
暑いですね。こういうときは余白を思います。
ここでは、文間の余白ということで。思い浮かぶこと。

外山滋比古著「エディターシップ」を読めば、自然、編集者へと注意が向くのでした。さて編集といえば、菊池寛・池島信平・齋藤十一・花森安治・古田晃・扇谷正造・・・と思い浮かんでくるのですが、そうかといって、それらの方を読むつもりも湧かないなあ。などと思っていると、そういえば、山本七平・山本夏彦のどちらも出版や雑誌と関係があります。などと連想がひろがります。さて、マンガ雑誌の編集者というのが、ちょうど気になってるのでした。

 鶴見俊輔著「大切にしたいものは何?」(晶文社)に、マンガの編集者の感想が書かれておりました。そこでは、「コマ割り」ということに話がつながっております。

「マンガ専門の出版社の、もう亡くなってしまったんですが、『ガロ』という出版社の長井勝一さんという社長がいっていたんですが、素人の人が会社にマンガをもちこんでくるとね、絵がうまいかどうかでは判定しないんです。コマ割りなんだという。30年間仕事をやってきての感想なんですね。ほら、マンガのコマ割りって、楽々といってる感じ、音楽にとても似ているでしょう。長井さんは、『コマ割りの巧みさをみて、これはのびるだろう』と。そういうことで、マンガ家とずっとやってきたんですね。・・・」(p94)

これって、詩でいえば、行あけのようなものでしょうか?
そうそう、鶴見俊輔著「文章心得帖」(潮出版社)に
マンガのコマ割りに似た言葉が拾えます。

「これは文間文法の問題です。一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶかその筆勢は教えにくいもので、会得するほかはない。その人のもっている特色です。この文間文法の技法は、ぜひおぼえてほしい。・・・・
一つの文と文との間は、気にすればいくらでも文章を押し込めるものなのです。だからAという文章とBという文章の間に、いくつも文章を押し込めていくと、書けなくなってしまう。とまってしまって、完結できなくなる。そこで一挙に飛ばなくてはならない。」

ここを拾い上げているのが、
井上ひさし著「自家製文章読本」(新潮文庫)にある「文間の問題」でした。
ちゃんと、鶴見俊輔氏の文間に関する箇所を引用しておりまして、

「読み手は、与えられた文間の余白を、自分で埋める。読み手は意味と意味とを自分で繋ぎ、そして新しい意味をつくり、ついには意味に向って行動する主体となる。そここそがたのしい。文間の余白の深く広い、だからこそ叙事性や物語性に富んだ作品を読むたのしみは、くどいようだがここにある。
児童用に書き直された民話の再話ものがおしなべてつまらないのは、文間の余白を埋めることばかりに作業が集中しているせいではないだろうか。再話作業にたずさわる人たちの善意と親切心にはつくづく頭がさがるけれども、原(ウル)民話の文間の余白を書き手は埋めてはならぬ。その文間の余白は『無形文化財』なのだから。」(p97)
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