和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「定型」?

2007-09-05 | 詩歌
産経新聞の文化欄に「断」という署名入りコラムがあります。このコラム、
いっとき書き手が交代してしまってから、何だか気の抜けた随筆でも読まされている気分だったのですが、また以前の書き手が戻ってきて、がぜん面白くなってきました。たとえば今日(2007年9月5日)は大月隆寛さんで、その始まりはこうなのです。

「この夏は猛暑であった。暑ければ暑いほど、『敗戦』の記憶の輪郭も鮮明になる。敗戦、猛暑、そして甲子園、夏休みに蝉しぐれ、そして入道雲・・・われら日本人にとっての『夏』のイメージは歴史の中、このようにすでに『定型』化してきている。そんな『定型』と寄り添いながら『語られた敗戦』の歴史もそろそろ、検証されるべきだろう。・・・」


ということで、伊東静雄にもどります。
古本で「伊東静雄研究」というのが一万円ぐらいであるようです。
全集のほうが安い。それで私は「研究」は買わずに、全集をこの夏開いていたというわけです。どなたか、「研究」にはこう書いてあるよとご指摘していただけると、ありがたい(まったく横着者です)。

さて、全集の書簡のページ。昭和24年9月22日の葉書に
「お手紙拝見、『夏の終り』の件、あれだつたら私の作としては、ましな方と考へます。どうぞ適当に御使用下さい。・・・」
とあります。これには注がありまして、
「『夏の終り』は『雲』と改題され、成城国文学会編『中等現代国語三下』に収録された、市ヶ谷出版社刊。」とあります。

さてこの場合、詩集「春のいそぎ」と詩集「反響」と、どちらの「夏の終り」を取り上げたのでしょう?
まあ、それはそれとして、
書簡ですが、このひとつ前に、同じ栗山理一宛に書いた封書(同年9月5日)が、全集に載っております。それも興味深いので引用してみます。


「先日は清水君と半日閑談出来、真にうれしかったです。皆様昔日の如く酒と仕事と大へんお元気のこと承り、小生も早く病気よくなり東京にも一度出てみたし。
さて『砂の花』。あれは中学生には大へん無理ぢやないでせうか。あれは陰気でその上譏笑的心理をもてあそんだところがあつて甚だよろしくないです。出来るならおやめ下されば私は気がらくです。おねがひします。中学生向には――否、詩といふものは総じて――もつと単純で素直で、何の註釈も不要なものでなくてはいかんとこのごろは会得しました。・・・・」(全集・p514)


ちょいと話題をかえますが、井上靖の詩「海」(詩集「運河」)がありました。
こういう詩だということで、詩の全文を引用。


      海

  ある壮大なるものが傾いていた、と海を歌った詩人があった。
  その言い方を借りれば、波打際はある壮大なるものの重い裳(もすそ)だ。
  海は一枚の大きな紺の布だと歌った詩人もある。
  さしずめ波打際は、それを縁どる白いレースということになる。
  併し、私が一番好きなのは、雪が降ると海は大きなインキ壺になる、
  と歌った詩人だ。分厚く白い琺瑯質(ほうろうしつ)の容器
  の中に青い海があるだけだ。もうどこにも波打際はない。

 
あまり私の興味を引く詩ではないのですが、「・・と海を歌った詩人があった。」という書き出しが気になったわけです。この井上靖の詩集には詩「海」の次に「旅から帰りて」という詩がありまして、そこに「庭」という言葉がある。こりゃ、厭わずに引用してみましょう。


     旅から帰りて

   一カ月の旅から帰って来ると、裏庭の花壇にバラの花が咲き乱れていた。
   伸びきった茎の先きに、赤と白の花が花弁をひろげ、
   寝乱れた姿態を見せている。手入れは行き届いていたが、
   まさしく廃園であった。私はいっさいの旅の記憶を喪っていた。
   バラ園の中に立ちつくし、どこからともなく聞えて来る
   淡水湖の水の騒ぎの音のようなものに耳を傾けていた。


どうですか?
私はとりあえず、河合隼雄さんの箱庭のことを思い浮かべました。
「・・人に見せるとか、面白半分とかでは、あまり意味のあるものはできない」という河合さんの言葉を思い浮かべたりしたのです。伊東静雄の詩「庭の蝉」と、井上靖の詩「旅から帰りて」は読み比べると、井上靖における伊東静雄の詩の影響というテーマで、何か参考になりそうな気がします。詩人として、井上靖さんは伊東静雄を尊敬しておられたのでしょうね。




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夏の終り。

2007-09-04 | 詩歌
伊東静雄の詩集。「春のいそぎ」と「反響」の2つの詩集の、どちらにも「夏の終り」と題する詩がある。これをどう考えればいいのだろうと、思っておりました。もちろん、詩の内容は異なるのです(題名も多少ちがいます。最初が「夏の終」、もう片方が「夏の終り」)。
別にどうでもいいことなのでしょうが、2つの詩のことが、気になっておりました。
すると、産経新聞の石原慎太郎連載「日本よ」(月一回の連載)を、読んで、ああ、そうか、という気になりました。まずは、その連載「日本よ」(2007年9月3日)のはじまりが重要なので、引用します。

「夏休みの最中にテレビで見た亡き城山三郎氏に関する番組に強い印象を受けた。同じ文壇で暮らし同窓の先輩でもある彼が、戦争中に海軍兵としてあれほど過酷な体験を強いられてきたと初めて知らされた。その彼の述懐に、戦争に負けた時軍隊の規律を含めていろいろな抑圧から解放され初めて、空がこんなに高く明るいものだと知らされたとあった。その言葉には私自身の経験から照らして共感させられた。当時、逗子という美しい海に面した町に住みながら、敗戦の年の夏は、いよいよの本土決戦に備えて兵隊たちが砂浜に蛸つぼを掘り、浜も海も立ち入り禁止となった。それは遊び盛りの子供たちにとっては業苦で、私の家は海から100メートルも離れていないのに目の前に見える海で泳ぐことの出来ぬ不条理に耐えることが出来なかった。その一方、敵が上陸すれば子供も女も竹やりを持って玉砕覚悟で戦うのだと宣告され、子供心に死ぬというのは一体どんなことなんだろうかと懸命に考えさせられたものだった。そして敗戦となり砂浜を占拠していた兵隊たちは姿を消し、海は私たちに戻ってきた。戦に敗れたという悔しさと相反して、私たちにようやく海が戻ってきたという解放のしみじみした喜びがあった。夏の半ばにようやく全身で味わいなおした海は、こんなにもと思うほど青く深く透明で素晴らしく、自由を表象して感じられた。」

これを読んで、ああ、そうかと私は思ったのでした。さっそく調べてみますと、

  詩集「春のいそぎ」は、昭和18年9月10日、弘文堂書房刊。
  詩集「反響」は、昭和22年11月30日、創元社刊。

つまり、二つの詩集は、戦中と戦後とにわかれて刊行されたものでした(詩集「反響」の「夏の終り」は、雑誌「文化展望」昭和21年10月号に掲載とあります)。

詩集「春のいそぎ」の詩「夏の終」の始まりと終りの数行を引用してみます。


   月の出にはまだ間があるらしかつた
   海上には幾重にもくらい雲があつた
   そして雲のないところどころはしろく光つてみえた

   ・・・・・・・・・・・

   そんなことは皆どうでもよいのだつた
   ただある壮大なものが徐(しづ)かに傾いてゐるのであつた
   そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた


それでは、もうひとつの「夏の終り」を、これは詩の全文引用。


      夏の終り


  夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
  気のとほくなるほど澄みに澄んだ
  かぐはしい大気の空をながれてゆく
  太陽の燃えかがやく野の景観に
  それがおほきく落す静かな翳は
  ・・・・さよなら・・・さやうなら・・・
  ・・・・さよなら・・・さやうなら・・・
  いちいちそう頷く眼差のやうに
  一筋ひかる街道をよこぎり
  あざやかな暗緑の水田(みづた)の面(おもて)を移り
  ちひさく動く行人をおひ越して
  しづかにしづかに村落の屋根屋根や
  樹上にかげり
  ・・・・さよなら・・・さやうなら・・・
  ・・・・さよなら・・・さやうなら・・・
  ずつとこの会釈をつづけながら
  やがて優しくわが視野から遠ざかる

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108人のベスト3。

2007-09-03 | Weblog
諸君!(2007年10月号)が出ております。
興味を引いたのが「永久保存版 私の血となり、肉となった、この三冊」。
副題に「読み巧者108人が教える『私のオールタイム・ベスト3』」とあります。めずらしいのは、まず最初に「編集部より」として言葉が掲げられておりました。
こう始まります「奔流のような情報がとりまく時代にあって、己を見失わず、確固たる視点をもち続けるために必要なのは、肺腑に染みわたるような読書体験をひとつでも多く重ねていくことではないでしょうか。・・・・」。

私は本を読むのが遅いせいか、このような、人が語る本のリストを眺めるのは、楽しみ。何か豊かな感じを抱かせてもらえる(読まない癖してね)。まるで宝島への地図を手にしたような、そんな気分(ニセの地図でも結構)。だいぶ前なのですが、愛読書というので、文庫解説本(出版社からタダで貰えるあの本です)を挙げておられた方がいましたっけ。そうか、そういう手もありなんだ。と妙に感心したことがあります。さて、こういう心持を、私ごときが語ってもつまらない(笑)。というので、ここでは谷沢永一著「回想 開高健」から引用してみましょう。

「・・我ながら滑稽なのだが、いかなる書物の場合でも、序、跋、解説、かりに貶しめて言うならそれら付属品の類いに、まず惹きつけられるのである。どう謗られようとも、それらが何よりも面白いのだから致し方ない。その結果として、当然、内外の諸作品をめぐる評語の定型を、たいてい私はそらんじていた。人には評定を好むという厄介な傾きがあるとわきまえ、自分だってその最たるものと苦笑しながら、しかし一方、世の評定の十中八九は、決まり文句のキャッチボールにすぎない、と、だいたい見通しをつけていた。だから、手垢にまみれた語彙語法に、頭から嫌悪の情を禁じえない。と言っても、この生意気ざかりに、新しい評語を思案する才覚はないのだから、要するに、この解説読みは、世の文学青年にとって、厭な奴だったにすぎなかったろう。」「実際には、開高も、人には負けぬ解説読みだった。『世界文学全集』や岩波文庫などの解説の、記憶にのこる一句一節一条を、興にまかせて私たちは朗誦した。しかし、いざ或る作品について自分の感想をのべるとき、彼は、既成の文脈の埒外にいた。・・・」

以上は「回想 開高健」の第一章「出会い」に出てくる「解説読み」についての箇所でした。じつは「諸君!」のこの特集に、この「回想 開高健」を取り上げている方がおられました。北康利さん。せっかくですから北さんの、その箇所を全文引用してみますね。

「最後に、とりわけ大きな影響を受けた本として『回想 開高健』を挙げたい。
開高先生も谷澤先生も、ともに高校の先輩である。お二人の友情物語を知っていただけに、『読み終えるのが惜しい』とさえ思った。そして終章までたどり着いた時、『開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である』という結びの文章に止めを刺された。滂沱の涙に、もう字を追うことができないのだ。この時の感動を正確に表現する言葉を持たないが、筆不精な小生が、生まれて初めてファンレターを送ろうと思いたったと言えば、その一端なりともご理解いただけるだろうか。谷澤先生と言えば厳しいことで有名な方である。大変な勇気が要ったが、すぐに丁寧な返書が届いた。そこには何と、調子に乗って同封した稚拙な自費出版本の感想まで記されているではないか。心に火が点り、背中を押されるようにして作家としての第一歩を踏み出した。果して次代に思いを語り継げるか。課題は重いが、影響を受けた本への、それが恩返しである。」(p230)


そういえば、今日(9月3日)の産経新聞に、
「大型連載『同行二人 松下幸之助と歩む旅』が4日付から始まります。
筆者は『白洲次郎 占領を背負った男』で第14回山本七平賞を受賞した作家・北康利氏。毎週火曜日付で連載します。」とありました。


一人だけ紹介しても、全体を知らせることにはならないでしょうが、まあいいか。この「諸君!」の永久保存版は、うれしくなる特集で、108人のお薦め本を、楽しく拝見・拝聴できるのです。
コメント (3)
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詩とは「庭」?

2007-09-02 | 詩歌
人文書院の「定本伊東静雄全集」によると、詩人伊東静雄は昭和28年3月に亡くなっております。次の年に、諫早城址に詩碑が建立されており、選辞、揮毫が三好達治となっております。そこに、詩碑として選ばれた言葉はというと、

    手にふるる野花は
    それを摘み
    花とみづからを
    ささへつつ
    歩みをはこべ


これは、詩「そんなに凝視(みつ)めるな」の中にある言葉で、
ちなみに、詩碑にはない、この次の行はというと
「問ひはそのままに答へであり」とあるのでした。
ここでは、その「問ひ」を提案したくなりました。

この8月は、本を読まなかったなあ(いつものことなのですけれど)。
そんなわけで、たまたま読んだ伊東静雄の詩が、他の言葉に取って代られることなく自分の中でふくらんでいきました。たのしかった。それは「庭」。

伊東静雄の詩の題名に、「庭」がでてくるのがあります。

   詩集「春のいそぎ」に、「庭の蝉」。(日記・昭和16年に同じ題の推敲前の詩)
   拾遺詩篇に、「庭をみると」。
   そして、日記の昭和16年に「夏の庭」(p266・p268)。

とあります。まず、詩集には取り上げられなかった「庭をみると」から。

   庭をみると
   辛夷の花が 咲いてゐる
   この花は この庭のもの

   人の世を苦しみといふべからず

   花をみる時
   私は
   花の心になるのである


あまりに簡単すぎて、詩集に入れるのも憚られたのかもしれません。
でも、わかりやすい詩で、私はというと、いろいろと思い描くのです。
たとえば、私はⅤ.E.フランクル著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房)にある、あの有名な箇所が浮かんできたりしました。
そのエピソードは一人の若い女性のことでした。

「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。・・・その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。『あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。』と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。『この樹とよくお話しますの。』と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女に訊いた。『樹はあなたに何か返事をしましたか?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?』彼女は答えた。『あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・。』」(p170~171)


この著者フランクは、医学部教授(神経学、精神医学)と略歴にあります。
今年の7月19日には、元文化庁長官でユング派の分析心理学者・河合隼雄さんが亡くなっております。そういえば蓋棺録に「心理療法家としても知られたが、ヨーロッパ文化を基盤とする分析心理学を、そのまま日本に適用するのには反対だった。日本の昔話に注目し、鎌倉時代の僧・明恵の夢を分析するなど、常に日本文化の特質を念頭においた。また箱庭を導入し、日本人向きの療法を模索した。」(文芸春秋2007年9月号)という箇所があります。その箱庭療法というのは、どのようなものなのか?

その箱庭というのが、いったいどのようなものなのか覗いて来た人がおりました。
南伸坊さん。新潮文庫「心理療法個人授業」に河合隼雄を先生にして、生徒として南伸坊がいろいろとイラストを交えながら質問しております。
そこから見学の様子を引用してみます。

「今回は、京都にある先生の診療所にお伺いして箱庭療法の部屋を見学させていただいた・・・部屋は八畳か十畳くらいの洋室でした。三方に、箱庭に使われるミニチュアがびっしり並べられてて、ものすごくおもしろい。」
「部屋の真ン中には大きなテーブルがあって、そこに乾いた砂と、湿った砂のつめられた、平べったい箱が二つ置いてある。この箱の底は水色に塗られていて、砂をおしのけると、ちょうど湖や海や、川を表わせるようになっています。先生がプロの手つきで(って、砂あそびのプロってのもヘンですが)砂をおしのけて、ホラこのとおり、という風にやってみせてくださいます。そうして元通り砂を平らにすると、やっぱりプロっぽい手つきで砂を払われる。『ちょっとやってみますか?』と、いわれるかと思って身構えていると、先生は何も言われない。」(p143~146)

ここらで、すこし伊東静雄にもどりましょう。その日記に記された詩「夏の庭」を引用してみます。

    ひとやむかしのひとにして
    ひらめきいづる朝の雲
    池に眠むれる鯉のかげ
    薔薇はさきつぎ

    われやむかしのわれならず

    ひとはむかしのひとにして

    薔薇さきつぎ
    ひらめきいづる朝の雲
    池にねむれる魚のかげ

    われはむかしのわれならず



これが伊東静雄の昭和16年4月の日記にあります。つづいて昭和17年7月の日記に、推敲された、こんな詩も載っておりました。


    ひとはむかしのひとにして

    薔薇(そうび)さきつぎ
    ひらめきいづる朝の雲
    池にねむれる鯉のかげ

    われはむかしのわれならず

    われはむかしのわれにして

    薔薇さきつぎ
    ひらめきいづる朝の雲
    池にねむれる鯉のかげ

    ひとやむかしのひとならず


この推敲の詩のあとに、日記ですから、言葉が書きつけてあります。
「やはり疲れてゐる。竹のまばらにはえた明るい庭(赭土の地面)に面した縁でねたい。・・」(定本・p268)
縁といえば、久世光彦さんの対談での言葉が思い浮かびます。
ちなみに久世光彦氏は2006年3月に逝去されております。テレビの名演出家として知られておりました。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などのドラマを演出しております。
対談相手の齋藤慎爾氏が「いちばん郷愁を持って語る時代は昭和十年から二十五、六年ですか」と問いかけると、久世さんは
「そうですねえ。エッセイは違いますが、小説とかテレビドラマはだいたい昭和十年代に限られていると言っていいくらい、非常に偏狭です。それほど確かな考えがあってではないけれど、やっていると幸福なんです。いまはもうどの家庭でも見られないようなものが何でもなく当たり前みたいにあるという茶の間の絵を撮っていると落ち着くんです。縁側を撮るのが好きなんです。」(p215・「久世光彦の世界」柏書房)

「庭に面した縁」から「縁側」と引用を重ねました。
つぎはテレビドラマじゃないですが「夢の露地」。
高橋新吉の詩の中にあります。その詩「霧雨」を引用します。


     霧雨

    霧雨の しづかにふる朝
    幻しの犬が匍ひ歩いてゐる

    茶を沸かし ひとり飲めば
    姿なき猫が 膝にかけ上る

    ひとときの 夢の露地に
    竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く

    雲走り 夕となれば
    うつつの窓を閉ぢ ねやにふす


この詩については、篠田一士が丁寧な解説をしております。
篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社)にあります(p174~)。


さきに南伸坊さんの箱庭見学記がありましたが、それに河合隼雄が「先生の一言」を書きこんでおりました。

「今回は箱庭療法が取りあげられた。南さんが箱庭をされなかったのは賢明である。やはり、一対一で誰にも見せないことを前提にするから意味のあるものができるのだ(例外がないとは言えないが)。人に見せるとか、面白半分とかでは、あまり意味のあるものはできない。悩みの深い人は、表現せざるを得ないものをもってくる。それが自然に出てくるのだから、迫力があるのも当然だ。・・・ロールシャッハはむしろ、診断のために用いられるが、箱庭療法はその作品を見ていろいろと判断するよりも、それを作った人が、そのような創作活動によって自ら癒される、という点が大切である。どんな人でも自分の心の奥底に『自己治癒』の可能性をもっている。しかし、どのようにして発露されるかが問題なのだ。『箱庭』はそのような自己治癒の作用がはたらく『場』を与えてくれる。」(p155~156)



最後は、まだ引用していなかった、伊東静雄の詩「庭の蝉」をもってきます。


    旅からかへつてみると
    この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる
    おれはなにか詩のようなものを
    書きたく思ひ
    紙をのべると
    水のやうに平明な幾行もが出て来た
    そして
    おれは書かれたものをまへにして
    不意にそれとはまるで異様な
    一種前生(ぜんしょう)のおもひと
    かすかな暈(めま)ひをともなふ吐気とで
    蝉をきいてゐた
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