和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

けものみち。

2008-01-11 | Weblog
ちっとも読んでいないのに、それでも、あれこれと本を結びつけたくなることがあります(こうして、もったいぶった書き方をしているのは、楽しいからです)。昨年の夏に伊東静雄詩集を読み。いつか「伊東静雄研究」という古本を読んでみたいと思っておりました。それが今年に入ったら、今でもいいのじゃないかと、ふと、思ったわけです。さっそく古本屋に注文し、それが今日届きました。

ということで、まずは、あれこれと本を結びつけたくなったのです。

 梅田望夫著「ウェブ進化論」「ウェブ時代をゆく」(ちくま新書)
 内山節著「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書)
 富士正晴編著「酒の詩集」(カッパブックス・1973年古本)
 富士正晴編「伊東静雄研究」(思潮社・1971年古本)

この本を、あらぬところから、むすびつけたくなったのです。
まずは、富士正晴編「伊東静雄研究」の「あとがき」。
といっても6行ほどの短文です。そのはじまりはこうでした。

「編集しおわって、今更語ることはほとんどない。本自体に語ってもらうつもりである。本としてスラリとした内容のものにはしたくなかった。なるべく多くの読者がつまづき、疑問をもち、自分解決して歩みすすんで行く道のようなものを心掛け、すらすら走れる高速道路のようなものになるのを避けた。・・・」

ここに「高速道路」という言葉がでてきます。
それが、楽しい連想に誘われました。
梅田望夫著「ウェブ進化論」「ウェブ時代をゆく」の両方に、「高速道路」論というのが興味深い指摘として登場しておりました。
それは、将棋の羽生善治さんの指摘だと、梅田望夫さんは書いております。

「『ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走り抜けた先では大渋滞が起きています』あるとき、羽生さんは簡潔にこう言った。聞いた瞬間、含蓄のある深い言葉だと思った。」(「ウェブ進化論」p210)詳しくは本文に譲るとして、つぎにいきます。

その議論を引き継ぐ形で「ウェブ時代をゆく」には「高速道路を降りて『けものみち』を歩く」という記述があります。

「さて羽生善治が提示した高速道路論の難問とは、『素晴らしい高速道路はできたものの、高速道路を走り抜けた先には『大渋滞』が待っているぞ、そんな時代に我々はどう生きればいいのか』であった。私なりに何年間か考え続けて出した結論は、次の通りである。・・・・仮に大渋滞に差し掛かったら、その専門をさらに突き詰めて大渋滞を抜けようとするか、そこで高速道路を降りて、身につけた専門性を活かしつつも個としての総合力をもっと活かした柔軟な生き方をするか(道標もなく人道がついていない山中を行くという意味で「けものみち」と呼ぶ)、そのときに選べばいいじゃないか。ひとつの分野で『好き』を突き詰めて『知の高速道路』を大渋滞まで疾走して一芸に秀でる経験は、のほほんと生きている多くの人たちに対して、絶対的な競争力を持つはずだ。そう信ずることだ。『けものみち』を生き抜くのに大切なのは、自信とちょっとした勇気と対人能力と『一人で生きるコツ』のようなもので、それは『知の高速道路』を疾走できる人なら、少しの努力で身につけることができると思うよ・・・・」(p100~101)


では、現在のけもの道はどうなっているのか。
高速道路ならぬ、けもの道路最新情報ということで、
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」から

「私が暮らす上野村だけでなく、1990年代に入った頃から作物の動物による被害がほとんどの山村で激しくなっている。ジャガイモ、ヤマイモ、大豆が食べられてしまうのはイノシシの仕業で、大豆はサルが食べにくることもある。サルはネギ、シイタケ、果物、ときにカボチャやスイカ、白菜なども狙ってくる。もうひとつ被害の大きい動物にシカがいる。シカは葉のあるものなら何でも食べる。イノシシのいない東北の山村以外では、ほとんどの山村でイノシシ、サル、シカが田畑を荒らしていて、村人は困りはてるようになった。」(第三章キツネにだまされる能力・p90)

ちなみに、私の地域では、山村にイノシシ・サル・シカが出没するせいか。すみわけでしょうか。町並みにタヌキ・イタチなどが夕方から夜にかけて道路を横切るのを目撃することがあります(こちらではキツネはみかけません)。ところで、道路を横切る、イタチなどはスマートで、最初はネコかと思っていると、実に毛並みもよさそうで、ほっそりして走り抜けます(おもわずふりかえりたくなるような異性にであったときのような感じで、イタチの通り抜けを見送ります)。ああ、そうそう、第三章「キツネにだまされる能力」は、私には柳田國男の「山の人生」よりも地域密着型で納得して読めました。

富士正晴編「伊東静雄研究」の2年後に、富士正晴編著「酒の詩集」が出版されておりました。その「酒の詩集」には司馬遼太郎さんが「著者・富士正晴氏のこと」という短文を書いております。これ「司馬遼太郎が考えたこと 7」(新潮社・文庫もでておりましたね)にも掲載されております。
短い文ですから、ほとんどを引用しちゃいましょう。
それでもって、今回は終わります。

「けさ、家の前で、黄色いイタチが意外にゆるゆると道路を横切ってゆくのをみて、変なぐあいだがとっさに富士正晴氏のたたずまいを連想した。大阪の北郊の農家に氏は住んでいる。わらぶきのわらを掻きわけてイタチが閃くように顔をだすという天然の動きと、その上の灰色の空と、その下で石を据えたようにして住んでいるところの、実意にあふれすぎている奇妙な虚無家である氏の景色が、竹をみても、イタチをみても、抜け落ちた虫歯をみても、私にはいつでもさまざまに造形化できる。それほどに氏の思想も、思想の住まい方としてのその詩藻(しそう)も、そして陰鬱な世界にたえず呪文をかけつづけているような酒の飲み方も、まわりの私どもにとっては宗教性を抜いた光明のような魅力をもっている。しかしその魅力を感ずるのは氏と膝をつきあわせている三メートル四方の者たちの冥利で、その冥利がマスコミに増幅されないところにわれわれの私(ひそ)かなたのしみがあった。・・・」


高速道路から、イタチの横切り、までの引用でした。
ここまで読んで、「だまされた」とは思われた方は、
あらためて、内山節氏の新書をお読みください。






  
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ハラボジ(じいさん)。

2008-01-10 | Weblog
うちの子が中学生の時に、教えていただいた恩師が本をだされていた。
私は顔ばかりしかしらない方だったのですが、子が中学を卒業する頃に、ちょうど前後して定年をむかえておられ、退職のお葉書をいただいたことがあります。それから、韓国に単身留学(2年半ほど)して、帰ってきてからその体験を本にされたのでした。うちの子がお正月にクラス会で、本のことを聞いてきて、遅ればせながら読み始めたというわけです。

まるで、現代版浦島太郎物語といったところでしょうか。
たとえば、竜宮城のイメージとして、私はNHKスペシャルで放映された司馬遼太郎の「街道をゆく」の「韓のくに紀行」の場面を思い浮かべるのでした。あの映像を思い浮かべるといまでも心温まるような思いがふくらむような感じがします。そういえば、この本にも司馬さんのことが語られております。
「石窟庵(ソックラム)への道を傘をさして歩いていった。加茂はここにも三、四回きたことがあったが、雨に降られたのは初めてだった。今はガラス越しにしか見られないが、石仏の美しさは変わらない。司馬遼太郎はその美しさに感激して、立ち去ることを忘れる、と表現している。加茂も初めて見たときの感激は、今でもはっきりと覚えている。こんな美しい石仏がこの世にあったなどとは、とても信じられなかった。」(P86~87)

さて、先生は退職される6年前から毎年夏休みに「韓国の南部地域にある古墳、遺跡、博物館を見て回りました」(P11)とあります。そして韓国語も話せないのですが、韓国の大学に留学したいという思いを抱いたのでした。

ご自身のことについても、ときたま回想しながら、語られております。
「高校も大学も昼間は働き、夜、学校に通った。加茂(主人公のペンネーム)は高校二年のとき、東京に引っ越してきた。」(P200)

奥さんともども先生をしている家庭のようです。
娘さんのこともでてきます。
「生まれたときからの娘の映像が浮かんでは消えていった。ヘルニア(脱腸)の手術、小児喘息、椎間板ヘルニアの手術、そして、今は膠原病と、病気と縁の深い娘である。」(P73)

そして、卒業論文を書く場面。
「卒業論文の準備は、さらに加茂の肩に重くのしかかってきた。韓国語の論文はいちど日本語に訳して、利用できそうなところは別に抜き出した。参考文献は山ほどあって、時間がいくらあっても足りなかった。加茂は暇さえあれば机に向かってペンを走らせていた。こんなに勉強したことがこれまでにあっただろうか。加茂の記憶にはなかった。」(P342)

その論文はどうだったのか。
「あるとき李教授が加茂に言った。
『この論文には新しい発見がありません。形式も論文の形式ではありません。ここに引用された金教授は学会では評価されていません。』すべてその通りだ、と加茂は思った。客観的には論文とはいえないほど不出来なものだろう。しかし、加茂は今までの研究の成果をまとめただけでも満足していた。」(P427)


最後は、部屋を引き払い帰国する場面で終わるのですが、
手伝いに来てくれた玉姫さんとの会話が、まるで浦島太郎がおじいさんにもどる瞬間をとらえているようでした。

読後感としては、ああ、この本を書くことで、やっと留学が終わったのだと思える書きぶりだったのだと思い当たるのでした。この本自体が加茂さんの卒業論文なのだったのだと理解できます。そういえば、先生は中学では国語の先生でした。

 峰龍一著「ハラボジ(じいさん)の留学」(新読書社・2100円+税)



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柿と望郷。

2008-01-09 | Weblog
インターネットで本が注文できる。
というのが、どれほど恩恵をこうむっていることか。
家にいながらにして、新刊もとどけば、古本も買える。
古本とは、古本屋へと出かけて、探してみつけて、買って帰って読むものとばかり思っておりました。それに私などは、お目当ての古本を探して帰ると、それだけで満足してしまって、とても本を読む気がしないことしばしばでした。それを思うと、本を読むのに際して、ネット上での購入が、陽だまりに思えるのでした。

ということで、今年もその恩恵にあずかって読んでいきたいと思います。
中村草田男句集「長子」も、ネット古本屋で注文しました。
例によって、パラパラとめくっていたら、こんな句がありました。

       望郷

    柿の木の無き都邊の秋幾度


中村草田男は伊予松山の松山中・松山高を出ております。
明治34年(1901)~昭和58(1983)年。

 もう少し引用しましょう。


   道ばたに旧正月の人立てる

   降る雪や明治は遠くなりにけり

   たたみたる傘はすこしの雪まじり

   雪解けて茨の露となりにけり

   石に無く岩には雪の残りたる



司馬遼太郎著「『昭和』という国家」(NHK出版)に、こういう箇所があります。

「私が『坂の上の雲』という小説を書こうとした動機は、もうちょっと自分で明治を知りたいということでした。動機のうちの、いくつかのひとつに、やはりみなさんご存じの中村草田男(1901~83)の俳句がありました。『降る雪や明治は遠くなりにけり』草田男は明治34年生まれでしたか、松山の人であります。大学生であることを30歳ぐらいまで続けていた暢気な人でした。たしか私は草田男の文章を読んだ記憶があるのですが、青山付近を通っていて、青山南小学校の生徒たちがランドセルを背負って校門から出てくるのを見ながら、この俳句が浮かんだと。それ以上のことはよくわかりません。つまり『明治は遠くなりにけり』というのは、明治という日本があったと、その明治という日本も遠くなったなということですね。それを草田男が感じたのは、昭和6年だった。激動の時代が始まろうとしている年であります。」(p162~163)


さて、私が購入した古本の句集「長子」は昭和21年10月の再刊とあります。
最後の「再刊の跋」は草田男の文で、こうはじまっておりました。

「畏友松本たかし氏・・・御好意に依り、私の第一句集『長子』が茲に再刊される運びとなつた。同書は昭和十一年の初刊であるから、正に十年の歳月が其間に経過してゐる。十年ひと昔の語は陳腐であるかもしれないが、現実はひと昔の語に匹敵するだけの変転を呈した。国家は未曾有の準戦時及び戦時を経て、今混沌の中に再建の業に新らしく就かんとしつつある。身亦、其機運の中にあつて、国民の一員として、内界外界を統べての新らしい困苦と創造の第一歩を踏み初めんとして居る。・・・・」
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蜜柑色柚子色。

2008-01-08 | Weblog
中原中也の詩「冬の長門峡(ちょうもんきょう)」の忘れられない二行。

  やがても蜜柑の如き夕陽、
  欄干にこぼれたり。

この蜜柑(みかん)色っていうのは、
柚子よりも、どちらかといえば柿色にちかいのでしょうか?
どうなのでしょうね。

この頃、贅沢にも柚子湯に、ほぼ毎日はいっております。
花柚子という小ぶりの柚子で、沢山なるままに捨てておりました。
今年は、そうだお風呂に入れればいいのだと、思い立ちまして、
贅沢風呂なのです。
そういうわけで、俳句にもついつい柚子の言葉が目にとまります。

「銀漢」とは銀河のことだそうですね。
東京新聞2008年1月6日「東京俳壇」の鍵和田秞子選の一番は

  銀漢をくぐりて入る柚子湯かな  杉並区 土方けんじ

【評】季語は冬至の柚子湯。町の湯屋に星を仰ぎながら行く。銀漢をくぐると表現して壮大な詩の世界になった。

日経新聞1月6日「俳壇」黒田杏子選の一番には

  柚子の香を胸に仕舞ひて争はむ   魚津  坪川正

【評】柚子湯を浴びたのちのその香でも、食卓で身に帯びた柚子の香、どちらでもよい。働きざかり、仕事ざかりの作者は・・・・


ところで、漱石俳句の明治29年には、こんな句が並んでいました。

    累々と徳孤ならずの蜜柑哉

    同化して黄色にならう蜜柑畠

    日あたりや熟柿の如き心地あり



さて、蜜柑は黄色か柿色か?
欄干にこぼれた夕陽の色はどっち。

話はかわりますが、岩波書店の漱石全集の装丁の色は
あれ、鮮やかな柿色ですよね。どうでしょう?
古本で安く買った新書版サイズの漱石全集第23巻。その本の背は、
日にあたっていたせいか、色が変色して黄色くなっておりました。

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「私の代表作」

2008-01-07 | Weblog
毎日新聞2008年1月6日(日曜日)に第6回毎日書評賞の発表が載っておりました。受賞は「鶴見俊輔書評集成全3巻」(みすず書房)。

新聞には「選考を終えて」で丸谷才一氏の感想。
そして、鶴見さんへのインタビューをまとめた紹介記事が載っておりました。
その鶴見さんの紹介の途中と最後を引用しときましょう。
「『そもそも私の原体験は、5歳で読んだ宮尾しげをの漫画『団子串助漫遊記』でしたから』。宮尾はチェコ人作家ハシュクの『兵士シュベイクの冒険』に刺激を受け、25年に串助を出版した。シュベイクは第一次大戦でオーストラリア軍に属領から徴兵され、面従腹背の精神で上官を翻弄する。『欧州の少数民族が投げた直球が、5歳の私に届いたわけです。それがすべての発端』と、感慨深げ。鶴見少年は串助に夢中になり、『何百回読んだか分からない』。小学生の時、この本を再び楽しむ方法はないかと、庭に埋めてみた。内容を忘れたころに掘り出し、読み返すつもりだったという。しかし地下水に浸され、宝物だった串助は台無しに。『あの落胆は、今も忘れられません』」

「書評は、本がなければ成り立たない。『いわば、時代との合作』だ。60年にわたり書かれた書評3巻から、戦後の日本が浮かび上がってくる。『だからこの集成が、私の代表作。伯楽が評価して下さったことに、感謝します』。受賞の報を受けたとき、土に埋められた串助が、タイムカプセルのように脳裏によみがえったという。」


さて、面白かったのは丸谷才一氏の感想「選考を終えて」でありました。
これは、書評にとっての若さというのは何かというのを考えさせられました。

毎日書評賞というのは、どうやら若い書評家の登竜門とする意図のもとに創設されたものだと私は思っておりました。その第1回目を前にして、書評家向井敏氏亡くなっております。その時にてっきり、私などは向井敏氏が最初の受賞をするものと思っておりました(向井氏は毎日新聞の書評欄で、輝いておりましたから)。でも受賞はしなかった。何で向井敏氏を受賞させなかったのだろうと、ずっと思っておりました。おそらく大家だからだろうと思うことにしました。すると今回の丸谷氏の導入部が理解できます。
以下「選考を終えて」のはじまりの引用。

「本当のことを言えば若い受賞者にしたかった。鶴見俊輔では老大家に過ぎる。しかし若い著者たちの書評集は見劣りした。候補になるくらいだから一つ一つの書評は上手に書けている。うまい。名手揃いである。しかし一冊の本として見ると、途中で退屈する。心にこたえる要素がすくないのだった。・・・」

こうして、いままでの受賞の経緯からして、辻褄あわせをしながら、どうしても辛い評価をしなければならない、丸谷才一氏の悪戦苦闘する書きぶりが読みどころ。
そのなかに、こういう箇所がありました。

「わたしはこの三冊本にほとんど圧倒される感じだった。若い読者はときどき、ずいぶん常識的な意見だと思う箇所があるかもしれないが、しかしそれはたいてい鶴見さんがこの六十年間に言いつづけたせいで日本の社会に普及したものである。彼は新しい知識人の型を作り、新しい常識の型を創出した。」

私に思い浮かぶのは、桑原武夫著「文章作法」(潮出版1980年・p63~64)でした。そこでは梅棹忠夫氏『文明の生態史観』の一部を引用しながら、桑原さんが語っておりました。
「これを読んで、あたりまえのことが書いてあると思ったら、それは皆さんが若くて歴史感覚がないからです。40以上の人だったらわかるでしょうが、いまから20年前に、西洋人にむかって『すくいがたい無知と独善』というような言葉を書いた人があったか、考えてみてください。一人としていないですよ。ですから、あとになたらふつうに見えることが、書かれたそのときにはドキッとさす。これがいい文章、いい評論というものの特色です。私はその当時、この部分を読んだときにドキッとしました。なんと大胆なことを書くかと。」


桑原武夫といえば1950年に「書評のない国」という短文を書いております。
58年たった新春にあらためて引用してみたいと思ったのでした。その最後。

「かつて『思想』は書評欄に努力したが失敗し、唯一の雑誌『書評』も廃刊した。これを惜しむよりも、なぜ日本では書評が成立せぬかを分析してみる必要があるだろう。よい書評は高くつき、貧しい出版資本ではもたぬこと、学界、文学界の前近代性が公正な批評を忌避すること、インテリに悪しきオリジナリティ意識がつよくて書評に頼らないこと、大衆は流行で本を選び書評を不要とすること、まだまだあろうが、ともかくも書評が成立せぬかぎり日本の出版界は一人前ではない。」

楽しいじゃありませんか。
いま、出版界の書評が成熟期へと羽ばたこうとしてるわけで。
あらためて、鶴見俊輔氏の言葉を、かみしめてみるのでした。

「この集成が、私の代表作。伯楽が評価して下さったことに、感謝します」


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燭(ひ)をとぼせ。

2008-01-06 | Weblog
1月5日。市の消防団出初式。
風なく。ぽかぽか陽気のうちに終了。
そしてお昼から、ビールで乾杯。
同じテーブルのお仲間は、糖尿にひっかかり、
五キロ痩せたということで、乾杯以外はウーロン茶。
その脇で、注(つ)がれるビールを飲んでいるのが私。
(今年は、ふだん、酒を飲まないことにしよう)
お昼はそうして注いだり、注がれるままに飲んでおりました。
地域に帰ってからは、4時からの会。そして6時からの会と。
また飲んで注いで家に帰れば、コタツでそのままダウン。
酒にはめっぽう弱い私ですが、それでも飲むわけです。
消防団員でも、若い人はお酒を飲まない人が増えてきているようで、
そういう方に送迎をたのんだりします。
ということで、昨日のブログ更新はできずじまい。
うん。1月6日から、毎日ブログの更新をかかすまい(笑)。

古本で買わせていただいたカッパブックスの富士正晴編著「酒の詩集」というのが
ありました。これを読んじゃうと、また酒を飲みたくなるのじゃないかと、そのままにしてあったのですが、こういう時こそ、開いてみましょうと、思ったわけです。
どれも、酒を飲みたくなる詩に見えてくるので、
ここでは、ちょいと酔いがさめそうな詩を引用。

     飲酒(その十三)  陶淵明 富士正晴訳

  ひとがいて いつも一緒に住んでいた
  やることなすこと てんで別々
  一人はいつも独り酔い
  一人は年中しらふなり
  しらふと 酔ったが 笑いあう
  言うこと どっちも理解せず
  まじめくさるは何とアホ
  傍若無人がまだましか
  言うことあるよ 酔いの人
  日が沈んだら 燭(ひ)をとぼせ


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哀愁のソーライス。

2008-01-04 | Weblog
産経新聞1月4日の産経抄が印象鮮やかでした。
もったいないので引用しちゃいます。
最初から
「ライスにウスターソースをかけただけの食べ物を『ソーライス』と呼ぶ。昭和恐慌の時代に、大阪を中心に流行した。『お断り』の食堂が相次いだが、阪急百貨店の大食堂は、ライスだけの客も歓迎して、福神漬けまで付けて出した。小林一三社長が残した美談である。戦前の少年小説に出てくる貧しい主人公が弁当に詰めていたのは、『醤油ライス』だ。高橋哲雄甲南大学名誉教授が、当時のことを確認しようとインターネットで調べていて驚いた。両方とも今ではB級グルメの雄としてもてはやされているではないか。高橋さんは、けしからん、とは言わない。むしろ、飽食と『貧窮の予兆』が入り交じる現代が生んだ若者の食文化に対して、『元祖のそれより深い哀愁の影をかぎとる』という(『東西食卓異聞』ミネルヴァ書房)。・・・・食料自給率が39%にすぎない日本の輸入がストップする事態だって、あり得ないことではない。農林水産省では、国内生産物だけで最低限のカロリーを確保する食事のメニューをホームページで紹介している。・・・」


哀愁といえば、椎名誠著「哀愁の町に霧が降るのだ」を思い浮かべたのでした。
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屠蘇(とそ)。

2008-01-03 | Weblog
寺田寅彦著「柿の種」(岩波文庫)の短章10番目に「屠蘇」がでてきておりました。お正月なので、ここを引用してみたくなりました。
短いのでほとんど引用しちゃいましょう。

「親類のTが八つになる男の子を連れて年始に来た。・・彼は、中学校の体育教師で、男の子ばかり九人養っている。宅(うち)へ行って見ると、畳も建具も、実に手のつけ所のないほどに破れ損じているのである。挨拶がすんで、屠蘇が出て、しばらく話しているうちに、その子はつかつかと縁側へ立って行った、と思うといきなりそこの柱へ抱きついて、見る間に頂上までよじ上ってしまった。Tがあわててしかると、するするとすべり落ちて、Tの横の座布団の上にきちんとすわって、袴のひざを合わせた上へ、だいぶひびの切れた両手を正しくついて、そうして知らん顔をしているのであった。しきりに言い訳をするTを気の毒とは思いながらも、私は愉快な、心からの笑い声が咽喉からせり上げて来るのを防ぎかねた。」

私はここまで、読んだときに、こりゃ西原理恵子の「毎日かあさん」の世界じゃないか。と思ったわけです。そういえば、寺田寅彦は高知出身で、おそらく親類のTというのは同じ高知の人だと考えてもよさそうです。そして西原理恵子も高知出身。寺田寅彦は、そのあとをこう記して終わっておりました。

「貧しくてもにぎやかな家庭で、八人の兄弟の間に自由にほがらかに活発に育って来たこの子の身の上を、これとは反対に実に静かでさびしかった自分の幼時の生活に思い比べて、少しうらやましいような気もするのであった。」


大正時代に寺田寅彦が笑った、その笑いが、いまの家庭漫画(四コマなどの)へとつながっているように思われます。「柿の種」のそこここにある笑いを、並べてみると、そのつながりを思い浮かべるのです。たのしいですよ。
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新春対談。

2008-01-02 | Weblog
今年は、1月2日にも年賀はがきの配達がありました。
新聞は、お休みなので元旦の新聞を見なおします。
気になるのは対談でした。
産経新聞は2~3面をつかっての正月対談。
梅田望夫(ネットの伝道師)と佐藤康光(将棋界を背負う)の対談。

読売新聞は「この国をどうする①」で、
聞き手が橋本五郎(本社特別編集委員)。
語るのは脳科学者の茂木健一郎。今回は上とありますから、つづくようです。

そして読み甲斐ありの新春対談は東京新聞。
鷲田清一(哲学者)と内田樹(思想家)の「大人学の出番 ほころぶ社会」。

各新聞があるのですが、私が興味深かったのはこの三つ。
梅田望夫さんはちょうど「ウェブ時代をゆく」(ちくま新書)を読んでいたので、すんなり読めました。茂木さんは本を読んでいないのですが、テレビでおなじみ、NHK紅白歌合戦の審査委員にも登場していたのでした(笑)。

さて、3日の新聞にも対談がいろいろと載るのかなぁ。楽しみです。
話を聞きたいという思いと、新春対談とが重なるたのしみ。
思い出すのは、司馬遼太郎さんが生きておられた頃に、週刊朝日の新春号が楽しみでした。司馬さんがどなたかと毎回対談されるのを読めるのが、年末から正月にかけての楽しみでした。そんなワクワクする対談を読みたいなあ。

私がよく思い浮かぶのは司馬・桑原対談「『人工日本語』の功罪について」です。
そこで
【司馬】ですから、日本語というか、日本語表現の場所は、もうどうしようもないものがあるのかもしれない。
こう語った後に
【桑原】いや、日本語はもうどうしようもないと、あきらめに話をおとさずに・・・、正月早々だから・・・・(笑)。

これは文藝春秋1971年1月号に掲載された対談なのだそうです。

さて、ここから朝日新聞の2008年1月1日社説の始まりを引用したくなりました。

「不穏な年明けである。と、元旦の社説に書いたのは5年前のことだった。・・今年もまた、穏やかならぬ年明けだ。外から押し寄せる脅威よりも前に、中から崩れてはしまわないか。今度はそんな不安にかられる。」

これは、朝日新聞社御自身の「中からの崩れ」を予言しているのでしょうか。
それとも、御自身は棚にあげて、朝日新聞社以外のほかの世の中の「不安」をかきてててでもいるのでしょうか。
なんて、大学入試の問題を作る人がいてもよい時代ではないでしょうか(笑)。
というように、不安を笑いにかえて、本年もよろしくお願いいたします。

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元旦。

2008-01-01 | Weblog
元旦はよい天気。
日の出を見ずに、寝ておりました。
ことしは、家族通信を書くぞ。というのが新年の抱負。

コンビニへ元日の新聞を買いに。
買って来た朝日新聞に、朝日賞の発表が載っており、
そこに児童文学者石井桃子さん(100)の名が。
桃子さんへのインタビューが印象に残りました。
「『傑作とは飛び抜けて立派なものではありません。生活そのものから生まれるのでしょう』いま、そう実感するという。」とあります。
そして最後には「3月には101歳に。ここ4年は風邪知らず。字を眺めているだけで安らぐ活字好きで、本を読み、毎日、拡大鏡を使って新聞に目を通す。テレビは見ない。子どもの本とは何か。プーと出会い、ずっと考えてきた。答えを今も探し続ける。『子どもの本と大人の本。区別ははっきりしてきたようでありながら、私はまだ道筋の途中にいて説明できない。大人と子どもの間をふらふらと歩いているのです』」。

朝日新聞の新春詠に馬場あき子さんの「帰れず」がありました。
「初心とはいつでも帰れる貌をして傍らにありてすでに帰れず」

稲村汀子さんの「去年今年」には

  松籟に潮匂へる初明り

というのがありました。
初春の新しい水を汲むように、今年も言葉をすくいながら
ブログを書きこんでゆきたいと思います。よろしくお願いいたします。
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