和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

バカボンのパパ。

2008-09-09 | Weblog
鶴見俊輔の赤塚不二夫追悼文(朝日新聞8月5日)に

「中国大陸の東北部、旧満州に育ったこどもが、せまくるしい日本に引き揚げてきて、理由のわからないせまくるしさに悲鳴をあげて、自分を息苦しくしている塀にわが身をぶつけている。そのあがきに、彼のマンガは根ざしている。根があるから、どんどん育ってやむことがない。」


この箇所が、印象に残ります。
ところで、文藝春秋9月号に「日本の師弟89人」という特集。
北見けんいち(マンガ家)が赤塚不二夫を書いております。
そこに、「ダメおやじ」の古谷三敏。『総務部総務課山口六平太』の高井研一郎というアシスタントの顔ぶれが紹介されておりました。

「赤塚先生がマンガを描くとき、まず古谷さん、担当編集者などと、アイデア出しを行う。赤塚マンガの魅力である辛辣なギャグは古谷さんの力がとても大きかった。キャラクター作りは高井さん。赤塚先生が口でキャラクターのイメージをしゃべったのを、高井さんがその場で絵にしていく。イヤミやハタ坊などはこうして作り出された。赤塚先生は映画でいえば、プロデューサー兼映画監督。出てきたアイデアやキャラクターを自在に動かし、鮮やかにマンガの形にまとめていくのである。ぼくの仕事はというと、最初は原稿用紙の切り出し。当時はマンガ用の原稿用紙など売っておらず、大きな紙を包丁で原稿の大きさに切りそろえていくのである。そして鉛筆で枠を描いて、千枚通しで同じところに穴を開け、束ねていく。一生続くかと思うくらい膨大な量の原稿用紙と毎日格闘していた。それから、消しゴムをかけたりベタを塗ったりして、原稿を完成させる『仕上げ』。あまり大した貢献はしていないなあ。不思議なことに赤塚先生をはじめ、古谷、高井、ぼくと、みな大陸からの引き揚げを経験している。赤塚、古谷、ぼくが満洲で、どこか都会的な高井さんだけが上海というのもちょっと面白い。・・・『釣りバカ日誌』の連載が始まったのは、ぼくが39歳のときだ。赤塚先生から『もうマンガはやめろ』と言われたことが二回ある。・・・・」



明日は「文藝春秋」10月号の発売日。
年間定期購読してるので先にクロネコメール便で届きました。10月号。まず読んだのがタモリの「追悼 これでいいのだ、赤塚不二夫」10ページの文。最後には、タモリの弔辞も載せてあります。
たとえば、こんな箇所はどうでしょう。
「赤塚さんは極度に気が弱い。特に売れない頃は、気が弱いあまり道の真ん中を歩けなかったというくらいですから。しかも、気が弱いうえに気が優しいという複雑な人なので、ほかの人と接触して徐々に仲良くなることが、恥ずかしくて苦手なんです。本当は、初対面で兄弟のように仲良くなりたい。でも、その思いが高じて大胆な方向に作用してしまう。初対面なのにその人の欠点をズバリついたりする。それで、『なんだよ、このバカ野郎』などと言われながら仲良くなりたいらしいんですが、それは上手くいかない。禿げている人に向って『なんだこの禿野郎』と言ってしまうので、ムッとして帰っていった人を何人も見ています。」

なんだか、人ごとながら、他人事には感じられない気がしてくるじゃありませんか。そういえば、タモリ氏の弔辞の印象深い最後はこうでした。

「私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。・・・ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです。合掌。 平成二十年八月七日 森田一義」


日経新聞8月7日文化欄には鈴木伸一氏が「さらば赤塚不二夫さん」を載せておりました。そこに
「シャイな赤塚さんはお酒によって多くの人と付き合えるようになり、だんだんお酒を手放せなくなっていったのではないだろうか。」という箇所があったのでした。





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現今詩人異聞。

2008-09-08 | Weblog
丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」の最後の対談に、こんな箇所がありました。

【丸谷】・・詩人たちの会というのは長いのよね。
【井上】普段、短く書いているからでしょう(笑)。
【丸谷】高見順賞のパーティなんて長い。それから、受賞者の挨拶というので、だれそれに感謝します。だれそれに感謝しますっていうのを、はじめから終りまでしゃべる人がいるでしょう。二十人も三十人もに対して感謝する。それで終りなのね。
【井上】ハハハハハ。
【丸谷】感謝される対象と感謝する人との共同体だけの問題ですよね。


現今詩人異聞ということで、もう一つ引用。
大岡信著「しのび草 わが師わが友」(世界文化社)に「空穂(うつぼ)先生の恵み」という4ページほどの文があります。
そこに

「『おいおい』と相手に向かって右手をひらひら差し出して振りながら話す。それが空穂先生の話し方の癖の一つだった。そんなときは必ずにこにこ笑って、である。『おいおい、詩壇の有名な人でも、文章を書くとどうもいけないやね、こないだ某という詩人の文章を読んだが、これが今の詩人で一番えらいほうの人の文章かと驚いたよ。きみはどう思う』ときどきこの種の厳しいことをいわれた。」

ちなみに、この大岡氏の文の最初の方にこうあるのでした。

「・・・私は空穂を通じて、古典詩歌を読むのも現代の詩歌を読むのと同じ態度でぶつかって、決して間違ってはいないということを教わった。これを端的にいえば、古典を学問研究の対象とのみ見なすのではなく、生きた文芸として読むということである。現在のわが身辺に起きる出来事の一つとして古典を読むということも存在する、そういう接触の仕方をすることである。・・・早い話が、これはたとえば柿本人麻呂や紀貫之や和泉式部を、わが隣家に住む先達として読む、というのに近い感覚の話なのである。私が空穂を通してそういうことを教えられるようになった・・・・」

現代詩が難しいというなら、チャンス。
現代は、古典を読むチャンス。
隣家に住む先達を知らない手はありません。
ということで、
窪田空穂を読もうではありませんか。
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墨蹟・筆蹟・揮毫。

2008-09-07 | Weblog
テレビ「開運!なんでも鑑定団」で、鑑定士のお一人・思文閣の田中大氏が本を出されておりました。「先賢諸聖のことば 直筆の格言・名言コレクション75」(PHP研究所)。田中氏の商売の蔵品から選ばれた墨蹟75点が写真掲載。そこに解釈と、そして面白いことには作品の価格(田中氏のお店価格)まで入っております。まあ、それはそれとして、最初の9ページほどが渡部昇一氏と田中氏の対談になっておりました。ちょっと興味をひきます。

【田中】日頃から弊社は古書や掛け軸を扱わせていただいているのですが、むかし私が丁稚をしていたころは、江戸の儒学者の書や、漢詩を書いたものが非常によく流通し、お買いあげいただいていました。納品に行ったとき、学者の方などから、この書はこれこれこういう内容を書いたものだというのを、よくご教授いただいたものでした。なるほど、そういうことが書かれているのかと、恥ずかしながら勉強させていただいたことを思い出します。・・・ところが、こうしたすばらしい書が売れなくなってきています。漢文や古典の教養が浅くなってきていますね・・・。
過去のひとのことばから学ぶというのは大事なのですが、とても難しいんです。いくら良いことばでも、行書や草書に崩して書いた直筆の文字を見て、ぱっと読めるひとは少ないでしょう。たとえ読めたとしても意味が取りづらい。読むことも難しいし、理解もしにくいとなると、敬遠されるのは当然ですから、それをいかにわかりやすくお伝えするかというのが、これからの課題だと思っています。(p21~22)

そういえば、渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)は、渡部氏の「はじめに」がありました。そのはじまりはこうです。
「唐の太宗には親しいものを感じている、と言ったら不遜に、あるいは奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、書を習った人ならわかってくれると思う。ここ二十数年・・書を習っている・・何しろ極端に練習不足で・・恥ずかしいが、太宗の字が素晴らしいことぐらいはわかるようになった。太宗の拓本の臨書をやっていると、その人のスケールの大きさが何となく感じられるのである。弘法大師の字の素晴らしさとは別種の素晴らしさがある。・・・」

ということで、思文閣の田中大氏による掛け軸の値段などを見ていると、こりゃどうしても、私はこんな墨蹟を掛ける人物じゃなくて、素人でも太宗の字を真似て習ってみる方にしか進む方向が限られているなあと、あらためてみなくても、思い到るわけでした。

さっそく古本で、本朝三字経なるものを買ってみました。
習字の手本のようです。墨の跡まであるのでした。
ちなみに、ネット検索してみますと、
「三字経」(このファイルは「漢文教室」(大修館書店)にて紹介した本文に、通釈と注を付したものです。訓読・通釈・注は加藤敏先生のものです。)が分かりやすくて楽しめました。たとえば、

  子不学  子として学ばざるは
  非所宜  よろしき所に非ず
  幼不学  幼にして学ばざれば
  老何為  老いて何をか為さん


  玉不琢  玉みがかざれば
  不成器  器を成さず
  人不学  人まなばざれば
  不知義  義を知らず


そういえば、昭憲皇太后御歌(みうた)に

 みがかずば玉の光はいでざらむ人のこころもかくこそあるらし

 おこたりて磨かざりせば光ある玉も瓦にひとしからまし

というのが、ありました。ありました。
こういう御歌を聞く人には、三字経を小さい頃から習った覚えがあるのでしょうね。などと教養の背景に思いいたるのでした。

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辞書編纂コピペ。

2008-09-06 | Weblog
え~と。9月1日のNHKクローズアップ現代。
普段はとんと見てないのですが、その日はコピペを取り上げており、興味から見ました。コピー&ペーストでもって、宿題の感想文なりを簡単に仕上げてしまうという問題点を指摘しながら展望を有識者に聞いております。

しばらくして、私は辞書編纂についてなら、昔からコピペ天国だったのじゃないかと思い浮かんだのでした。
ということで原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書・古本)の「諸橋『大漢和辞典』編纂秘話」の箇所を思い出したのでした。これは第二章なのですが、読み甲斐がありまして、コピペ問題以外にも様々な発想が刺激されるのでした。残念ながらここでは一箇所のみ引用。

「一年に一度ぐらい、諸橋先生が近藤先生、原さん、川又さん、大島・佐々木と私の編纂関係者を九段下にあった『維新号』という中華料理店に招待してくれた。この店は内部に装飾が少しもない殺風景な店であったが、『味は私が北京留学中に味わった本場の味と同じだ』ということであった。このときの歓談の中で聞いたことであるが、『大日本国語辞典』を編纂して冨山房から出版した松井簡治氏(この本は上田万年と共著になっているが、実は松井が独力で編纂したもの)は、東京高等師範学校以来の同僚として先生と親しかったが、その松井簡治氏が『諸橋君、きみは大きな辞書を作っているそうだが、完成したら必ず自分の手で、その要約版(ダイジェスト版)を作りなさい。私はそれをしなかったために、これこのように、私が永年苦辛して集めたり解釈を施した語彙を、すっかり盗まれてしまった』と新村出著の『辞苑』(『広辞苑』の前身)の真っ赤に書き込みをしたものを見せてくれた。だから『大漢和辞典』が完成したら、ぜひ要約版も作りたいと話されたのである。
まさか新村氏自身が『大日本国語辞典』から盗んだのではないと思うが、頼まれて協力した人たちが安易に『大日本国語辞典』から語彙や語釈を取って『辞苑』をこしらえたのであろうと思われる。洋の東西、辞典編纂には必ずこういう話がつきまとう。」(p119)

ということで、現在のパソコン上で、安易に出来るコピー&ペースト問題は、松井簡治氏の『大日本国語辞典』と『辞苑』(広辞苑)の辞書編纂問題として、古くからあった視点であります。

ちなみに、現在発売中の文藝春秋SPECIAL「素晴らしき日本語の世界」(1000円)には、紀田順一郎氏が「辞書界の巨人たち」という題で、雑誌のところどころにコラムを五回にわけて書いておりました。そこの「新村出と『広辞苑』」には新村出(しんむらいずる)が紹介されております。
「明治29年東京帝大文科大学博言語科に入り、上田万年(かずとし)に学んだ」とあります。昭和のはじめに岡書院の社長岡茂雄から辞書編纂の申し出。「もっと大型の辞書を理想としていた新村は、気乗りせず固辞したが、最終的には教え子の溝江八男太が手伝ってくれるという条件で承諾した。溝江は教育者としての体験から、百科項目を加えた国語辞典の必要性を痛感していたので、二つ返事で引き受けた。前後四年間にわたる編纂作業の途中、岡は辞書の規模が予想よりも大きくなるのを知って、この企画を博文館に譲ってしまった。・・・・戦後、この辞典は岩波書店が引受け・・・『広辞苑』と変更された・・・一冊で間に合う机上辞書として、広く普及した。・・・」(p143)


コピペとは別に原田種成氏の「漢文のすすめ」にある「『大漢和辞典』編纂秘話」には辞典づくりのお金の出所から、どのくらいの金額がかかるかとか、さまざまな角度から分かりやすく書き込まれており、引き入れられます。




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最初はモノマネ。

2008-09-05 | Weblog
伊良林正哉著「大学院生物語」(文芸社)に「晩夏」という小見出しで始まる文がありました。
「厳しい残暑がようやく矛を収めた頃からは学会シーズンの幕開けである。・・・この時期の私の仕事の一つは、大学院生や留学生達が書いた学会発表の日本語や英語の要旨を添削してまともな文章に仕上げることにある。まともに英文論文を書いている研究員にとっては、英文での要旨のチェックあるいは書き直しの方が本当は楽なのである。つまりは、今時の若者の書いた日本語ほどひどいものはないのである。学会の要旨というものは、目的、方法、結果および考察を限られた字数制限の範囲の中で要領良くまとめなくてはならないのである。日本語の文章というのは難しいものである。基本的な主語や述語がどこにあるのか分からない文章など当たり前、研究目的も曖昧で考えられないような、つまりは実験結果に基づかない考察が書かれているものも多い。そんな文章をまともな日本語の文章に書き直す作業は気の遠くなりそうなものである。・・・私見ではあるが、インターネットの普及とお笑いを軸に据えたテレビ番組に、日本人の文章力の顕著な低下の原因があると私は考えている。これらのメディアを介した情報は、日本人から美しい文章を味わいなおかつ良い文章を書くという機会を奪い取っているとしか思えない。プロの文筆家が書いた文章を読むことが今程要求されている時代もないと思う。最初はモノマネでいいのである。そのうち、まともな文章を書くことが出来るようになるものである。化石だと笑われるかもしれないが、私は新聞を毎日愛読しているし、純文学はウソくさくてとても読む気にはなれないが社会派の小説を必ずカバンに忍ばせているのである。このようにして、自らの文章力を鍛えているつもりである。そんな努力を今時の大学院生達を含めた若者達にしていただきたいと切に思う次第である。」(p61~63)

この箇所を読んで、私に思い浮かんだのは、菊池寛著「文章読本」の序論でした。昭和12年印刷とあります。そこにはこうありました。「いつぞや、女子大學の生徒だといふ若い女性から、手紙を貰つたことがある。筆跡は、なかなかあざやかであつたが、手紙の文章は、ひどく拙(まづ)い。手紙として備へねばならなぬ文句も書いてない。云はんとすることが至極曖昧(あいまい)である。文章の構成など支離滅裂だ。女子の最高学府で、教育を授けられてゐる女子大生ですら、碌(ろく)に手紙が書けないのである。・・・」

そして菊池寛はこう書いておりました。
「いかに文明が進歩して、新しい機械が発明され、人手が省けるやうになつたとしても、文章をかく手数が省けるやうな時代は絶対に来ないのだ。時代が進歩すればするほど、文章の必要はいよいよ深く切実になつて来ると思う。ただ、新しい時代には、新しい文章を要求するのだ。」

どうやら、平成20年の現在でも、まだまだ菊池寛のこの言葉にはリアリティがあり続けているようです。
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「父の戦地」。

2008-09-04 | Weblog

昨日は、北原亞以子(あいこ)著「父の戦地」(新潮社)を読みました。
かぞえ年四歳の時に父親が出征した北原さんでした。
「父についての記憶は、あると言ってよいのかどうか迷っている。」
そんな風にこの本は始まっております。
その父が手紙を送ってきていたのでした。
「戦地の父から届いた私宛ての葉書は、七十数枚に及ぶ。そのほか母宛てのもの、祖母に宛てたもの、祖父に宛てたものをかぞえると、百七十枚近くなる。なくしてしまったものもある筈で、それらを含めると優に二百枚をこえていたのではないか。」(p75)

北原亜似子氏は昭和13年生まれ。NHKドラマ「深川澪通り木戸番小屋」の原作者といえば御存知の方もいるでしょうね。

この本の後半に、おケイちゃんが語られております。

「私が二十代の頃だったと思う。遊びに行った私の目の前で、おケイちゃんがカラダを震わせて泣き出したことがある。小学生くらいだったおケイちゃんの息子が、戦争物ののっている漫画雑誌を買ってきたのである。おケイちゃんは、息子の手から雑誌を奪い取って畳へ叩きつけた。戦争漫画は読むなと、日頃から息子に言っていたそうだが、息子もまさか母親がそこまで怒るとは思わなかったのだろう。呆気にとられたように口を開け、母親を見つめていた。・・・昭和二十年のおケイちゃんは、二十六、七歳だった筈である。婚約者は戦地にいて、寝たきりの母親とあまり動けない父親をかかえていた。動きの鈍くなった父親をまず防空壕に入れ、母親を連れ出しに行ったというおケイちゃんの話を思い出すと、戦争漫画を面白がる息子に腹が立つ気持ちもよくわかる・・・」(p170~171)
ここから、その日の大本営発表を引用しておりました。
「『大本営発表』といえば、今日でもあてにならないことのたとえに使われるが」(p159)という、発表を丁寧にふりかえっております。

そのおケイちゃんとの関わりが、この本の理解を助けます。

「おケイちゃんが見たのは、空襲がつくる地獄だった。思い出すなどしたくなかったにちがいない。が、有馬頼義先生が企画された東京大空襲の記録収集には協力すると言ってくれたのである。私はすぐに飛んで行くべきだったのだ。言訳をすれば、私はその頃、新潮新人賞受賞後の20年間沈みっ放しの真っ最中で、何とかして水の上に顔を出そうとあがいていた。おケイちゃんのところへ行く暇がないと思っていたのだが、実は、一行も書けずに原稿用紙を眺めていたこともあったのだ。まとまらない考えなど、放り出せばよかったのである。そのうちに、おケイちゃんの体調がわるくなった。・・・手遅れだった。癌だったのである。」(p178)

作者の北原氏は、この本で戦地からの父の手紙を道案内として、ご自身の戦争体験に、あらためて錘(おもり)をたれてゆこうとしています。その戸惑いのような気分が、断片的な小さい頃の思い出を、あちこちから反芻してゆくような、何ともまどろっこしい文体となって前後を繰り返しながら、書きすすめられてゆくのでした。
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福田首相辞任会見。

2008-09-02 | Weblog
福田首相辞任会見をテレビで見ておりました。
繰り返して、何回も丁寧に最初から再放送してほしい会見なのでした。
考えてもみてください、nhkの朝のドラマは、朝昼と二回放送しますし、BSも入れれば日に三・四回も見れる。辞任会見の最初から最後まで、どうして再放送しないのでしょうねえ。
解説者やキャスターの意見が、耳障りでいけません。
辞書を引いて、肝心な内容を読めずに、解説者のお説教しかなければ、イヤな辞書と呼んでもよいでしょう。辞任会見ぐらい、カットせずに、繰り返し流してくれてもよさそうなものなのに。この会見は、繰り返しノーカットで見たい、聞きたいものでした。記者とのやりとりも記者の質問もきちんと再生して、はしょらないで、いただきたい。それを疎かにしておいて、私はわざわざ街の人の意見や、韓国・中国の意見など聞きたいとも思わないのでした。nhkがもし中立公正を旗印にするのであれば、丁寧に首相の記者会見を繰り返し、要約せずに流すべきなのです。まずは、視聴者に首相の姿を会見をとおして伝えていただきたい。そのほうがよっぽど価値があるのに、それが出来ない。一国の首相がかりにも辞任の記者会見をテレビでする。それを要約しようとする傲慢。何度でも見せてもらいたい。それがテレビには出来ない。朝のドラマなら出来る。これが日本の現在であるなら、テレビよ、もっと変わりなさい。首相は、パフォーマンスこそなかったけれど、まれにみる率直さを発信しつづけておりました。その首相最後の会見を、要約しようとする傲慢。パフォマンスならぶつ切りにしても伝わるかもしれない。率直さは要約ではむりです。朝のドラマは、端折って再放送していますか?ここぞの会見を再放送できない幼稚さを嘆く。
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地震ぎらい。

2008-09-01 | 地震
関東大震災は、大正12(1923)年9月1日におこりました。
いまから、85年前。ということは、現在90歳の方が、
当時5歳の時に関東大震災を体験しているということになります。
その震災体験はどのように現在に伝わっているかどうか?

ところで、半七捕物帳で知られる岡本綺堂の話。
綺堂は、明治5(1872)年に高輪泉岳寺のほとりに生まれた。とあります。
その綺堂が関東大震災の体験を書いた「震災の記」は、こう始まります。

「なんだか頭がまだほんとうに落ちつかないので、まとまったことは書けそうもない。去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳(とお)の年に日本橋で安政の大地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聞かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、又そのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうも落ち着いていられない。・・・・」(「綺堂むかし語り」旺文社文庫)

うん。地震好きというのは、いないでしょうが。
地震ぎらいというのは、どこか体験に根ざしているのでしょうね。
それが幼い頭にしみ込んでいたという「おそろしい昔話」とは、
何とも聞かされる方はリアルだったことでしょうね。

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