井波律子氏は、幸田露伴についての文のなかで
「明治39年に開設された京都帝国大学文科大学は、当初、『進取の気概』にあふれ、学歴にこだわらず、ずばぬけて優秀な学者を積極的に採用しました。正規の学歴は小学校どまりの露伴を講師に迎え、秋田師範出身の中国学の逸材、内藤湖南を東洋史学科の教授に迎えたのも、そうした気概のあらわれにほかなりません。もっとも、露伴の場合、家族を東京に残し単身赴任しているところを見ると、迎えられたのはいいけれど、『水が合わない』のではと、最初から危惧するところがあったのかもしれません。さらにまた、幾美子夫人が病気がちだったことも、早期辞任の原因の一つだったのかもしれません。幾美子夫人は露伴が京都から帰還した翌年の明治43年、亡くなっています。付言すれば、露伴はこのまた翌年の44年、『遊仙窟』を主要業績として文学博士号を授与されています。大学をやめた後、博士になるというのも、皮肉な話であります。」
もう少し詳しく引用してみます。
「『天うつ浪』を中断した後は、ほとんど小説を書かなくなり、明治40年、41歳の時に、主要論文ともいうべき『遊仙窟』を発表します。これは随筆集『蝸牛庵夜譚』に収録されていますが、書下ろし論文だと思われます。唐代の伝奇小説『遊仙窟』が『万葉集』の歌人にいかに深い影響を与えているかを、縦横無尽に論じたこの論文が、『業績』として評価されたとおぼしく、翌41年、開設まもない京都帝国大学文科大学講師に任ぜられ、江戸後期文学を担当することになります。実際に京都に移り住んだのは、翌42年の初めのようですが、なんとこの年の9月には早くも辞任しています。夏休みがすんだらもどって来なかったというわけです。・・・・何かやはり事情があったのでしょう。江戸後期文学ばかり担当させられ、中国・日本を問わず、自在にさまざまな文学ジャンルを横断する露伴にとって、大学の講座制なるものがきわめて窮屈で息苦しく、肌に合わなかったのは確かだと思います。」
以上は、井波律子・井上章一共編「幸田露伴の世界」(思文閣出版)にあります。
面白いのは、この本に井上章一氏が、この辞任について、別の角度から考察しているのでした。
「露伴は京都大学から講師として、まねかれています。『頼朝』を書いた明治41年のことです。しかし、けっきょく、このつとめは一年しかつづきませんでした。露伴は、継続をことわっています。その訳を、事情通の薄田泣菫が書いた『茶話』から、しのぶことにしましょう。『茶話』は、『大阪毎日新聞』で連載されたコラムですが、そこで泣菫は、こんな逸話を紹介しています(大正4=1915年7月12日付)。
幸田露伴博士が京都大学の講師になつて来た時、
家族を同伴しないのを何故だと他に訊かれて、
『でも、子供に京都語だけは覚えさせたくありませんからね。』
と言つた事があつた。それを人伝(ひとづて)に聞いた、上田博士は、
『全くですね。』
と言つて、煙脂焼のした前歯をちつと見せて笑つてゐた。
数多い京都大学にこの二人のやうな東京好きはまたと無かつた。
周知のように、幸田家は江戸幕府に、代々表御坊主衆として、つとめてきました。有識故事などをきわめることが仕事とされる家に、そだったのです。露伴の博識は、その家柄とも無縁じゃあないでしょう。のみならず、江戸・東京に対する偏愛も、そんな家系ではぐくまれたのではないでしょうか。もともと、関東、東京びいきであった。そこへ明治以後の関東史観がおいかぶさる。そうしたところに、露伴の頼朝論や将門論は生みだされたのだと思います。日本史へ、最初に中世史という区分をもちこんだのは、原勝郎です。『日本中世史』という本で、原はそのこころみを世に問いました。・・・・南部藩士の家に、原はそだっています。そのせいでしょう。原もまた、東国のすこやかさに共感をいだき、京都をきらっていました。・・・・
気の毒なことに、原は明治42年から、京都大学につとめだします。歴史の先生として。原先生の息子は、だんだん京都弁をおぼえだしたと言います。それが、原先生には不快であった。息子が京都弁をしゃべるたびになぐっていたという原勝郎伝説が、京都にはのこっています。そう、京都弁をしゃべる息子なんかはなぐってしまう男が、今の時代区分をもたらしたのです。泣菫によれば、露伴も、家族が京都弁にそまるのをきらっていたようですね。私は、このエピソード、けっこう図星をついていると思います。」
あとは山本夏彦著「最後のひと」に、辞任についての解釈があるのですが、これよりも、井上章一氏の方の説が面白いなあ。
辞任してまでも、話し言葉を、露伴は、幸田文・青木玉へと伝えておりました。それを紐解く楽しみが、なにやら残されているように感じる私であります。
「明治39年に開設された京都帝国大学文科大学は、当初、『進取の気概』にあふれ、学歴にこだわらず、ずばぬけて優秀な学者を積極的に採用しました。正規の学歴は小学校どまりの露伴を講師に迎え、秋田師範出身の中国学の逸材、内藤湖南を東洋史学科の教授に迎えたのも、そうした気概のあらわれにほかなりません。もっとも、露伴の場合、家族を東京に残し単身赴任しているところを見ると、迎えられたのはいいけれど、『水が合わない』のではと、最初から危惧するところがあったのかもしれません。さらにまた、幾美子夫人が病気がちだったことも、早期辞任の原因の一つだったのかもしれません。幾美子夫人は露伴が京都から帰還した翌年の明治43年、亡くなっています。付言すれば、露伴はこのまた翌年の44年、『遊仙窟』を主要業績として文学博士号を授与されています。大学をやめた後、博士になるというのも、皮肉な話であります。」
もう少し詳しく引用してみます。
「『天うつ浪』を中断した後は、ほとんど小説を書かなくなり、明治40年、41歳の時に、主要論文ともいうべき『遊仙窟』を発表します。これは随筆集『蝸牛庵夜譚』に収録されていますが、書下ろし論文だと思われます。唐代の伝奇小説『遊仙窟』が『万葉集』の歌人にいかに深い影響を与えているかを、縦横無尽に論じたこの論文が、『業績』として評価されたとおぼしく、翌41年、開設まもない京都帝国大学文科大学講師に任ぜられ、江戸後期文学を担当することになります。実際に京都に移り住んだのは、翌42年の初めのようですが、なんとこの年の9月には早くも辞任しています。夏休みがすんだらもどって来なかったというわけです。・・・・何かやはり事情があったのでしょう。江戸後期文学ばかり担当させられ、中国・日本を問わず、自在にさまざまな文学ジャンルを横断する露伴にとって、大学の講座制なるものがきわめて窮屈で息苦しく、肌に合わなかったのは確かだと思います。」
以上は、井波律子・井上章一共編「幸田露伴の世界」(思文閣出版)にあります。
面白いのは、この本に井上章一氏が、この辞任について、別の角度から考察しているのでした。
「露伴は京都大学から講師として、まねかれています。『頼朝』を書いた明治41年のことです。しかし、けっきょく、このつとめは一年しかつづきませんでした。露伴は、継続をことわっています。その訳を、事情通の薄田泣菫が書いた『茶話』から、しのぶことにしましょう。『茶話』は、『大阪毎日新聞』で連載されたコラムですが、そこで泣菫は、こんな逸話を紹介しています(大正4=1915年7月12日付)。
幸田露伴博士が京都大学の講師になつて来た時、
家族を同伴しないのを何故だと他に訊かれて、
『でも、子供に京都語だけは覚えさせたくありませんからね。』
と言つた事があつた。それを人伝(ひとづて)に聞いた、上田博士は、
『全くですね。』
と言つて、煙脂焼のした前歯をちつと見せて笑つてゐた。
数多い京都大学にこの二人のやうな東京好きはまたと無かつた。
周知のように、幸田家は江戸幕府に、代々表御坊主衆として、つとめてきました。有識故事などをきわめることが仕事とされる家に、そだったのです。露伴の博識は、その家柄とも無縁じゃあないでしょう。のみならず、江戸・東京に対する偏愛も、そんな家系ではぐくまれたのではないでしょうか。もともと、関東、東京びいきであった。そこへ明治以後の関東史観がおいかぶさる。そうしたところに、露伴の頼朝論や将門論は生みだされたのだと思います。日本史へ、最初に中世史という区分をもちこんだのは、原勝郎です。『日本中世史』という本で、原はそのこころみを世に問いました。・・・・南部藩士の家に、原はそだっています。そのせいでしょう。原もまた、東国のすこやかさに共感をいだき、京都をきらっていました。・・・・
気の毒なことに、原は明治42年から、京都大学につとめだします。歴史の先生として。原先生の息子は、だんだん京都弁をおぼえだしたと言います。それが、原先生には不快であった。息子が京都弁をしゃべるたびになぐっていたという原勝郎伝説が、京都にはのこっています。そう、京都弁をしゃべる息子なんかはなぐってしまう男が、今の時代区分をもたらしたのです。泣菫によれば、露伴も、家族が京都弁にそまるのをきらっていたようですね。私は、このエピソード、けっこう図星をついていると思います。」
あとは山本夏彦著「最後のひと」に、辞任についての解釈があるのですが、これよりも、井上章一氏の方の説が面白いなあ。
辞任してまでも、話し言葉を、露伴は、幸田文・青木玉へと伝えておりました。それを紐解く楽しみが、なにやら残されているように感じる私であります。