和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

辞任。

2009-05-10 | 幸田文
井波律子氏は、幸田露伴についての文のなかで
「明治39年に開設された京都帝国大学文科大学は、当初、『進取の気概』にあふれ、学歴にこだわらず、ずばぬけて優秀な学者を積極的に採用しました。正規の学歴は小学校どまりの露伴を講師に迎え、秋田師範出身の中国学の逸材、内藤湖南を東洋史学科の教授に迎えたのも、そうした気概のあらわれにほかなりません。もっとも、露伴の場合、家族を東京に残し単身赴任しているところを見ると、迎えられたのはいいけれど、『水が合わない』のではと、最初から危惧するところがあったのかもしれません。さらにまた、幾美子夫人が病気がちだったことも、早期辞任の原因の一つだったのかもしれません。幾美子夫人は露伴が京都から帰還した翌年の明治43年、亡くなっています。付言すれば、露伴はこのまた翌年の44年、『遊仙窟』を主要業績として文学博士号を授与されています。大学をやめた後、博士になるというのも、皮肉な話であります。」

もう少し詳しく引用してみます。

「『天うつ浪』を中断した後は、ほとんど小説を書かなくなり、明治40年、41歳の時に、主要論文ともいうべき『遊仙窟』を発表します。これは随筆集『蝸牛庵夜譚』に収録されていますが、書下ろし論文だと思われます。唐代の伝奇小説『遊仙窟』が『万葉集』の歌人にいかに深い影響を与えているかを、縦横無尽に論じたこの論文が、『業績』として評価されたとおぼしく、翌41年、開設まもない京都帝国大学文科大学講師に任ぜられ、江戸後期文学を担当することになります。実際に京都に移り住んだのは、翌42年の初めのようですが、なんとこの年の9月には早くも辞任しています。夏休みがすんだらもどって来なかったというわけです。・・・・何かやはり事情があったのでしょう。江戸後期文学ばかり担当させられ、中国・日本を問わず、自在にさまざまな文学ジャンルを横断する露伴にとって、大学の講座制なるものがきわめて窮屈で息苦しく、肌に合わなかったのは確かだと思います。」

以上は、井波律子・井上章一共編「幸田露伴の世界」(思文閣出版)にあります。
面白いのは、この本に井上章一氏が、この辞任について、別の角度から考察しているのでした。

「露伴は京都大学から講師として、まねかれています。『頼朝』を書いた明治41年のことです。しかし、けっきょく、このつとめは一年しかつづきませんでした。露伴は、継続をことわっています。その訳を、事情通の薄田泣菫が書いた『茶話』から、しのぶことにしましょう。『茶話』は、『大阪毎日新聞』で連載されたコラムですが、そこで泣菫は、こんな逸話を紹介しています(大正4=1915年7月12日付)。

  幸田露伴博士が京都大学の講師になつて来た時、
  家族を同伴しないのを何故だと他に訊かれて、
 『でも、子供に京都語だけは覚えさせたくありませんからね。』
  と言つた事があつた。それを人伝(ひとづて)に聞いた、上田博士は、
 『全くですね。』
  と言つて、煙脂焼のした前歯をちつと見せて笑つてゐた。
  数多い京都大学にこの二人のやうな東京好きはまたと無かつた。

周知のように、幸田家は江戸幕府に、代々表御坊主衆として、つとめてきました。有識故事などをきわめることが仕事とされる家に、そだったのです。露伴の博識は、その家柄とも無縁じゃあないでしょう。のみならず、江戸・東京に対する偏愛も、そんな家系ではぐくまれたのではないでしょうか。もともと、関東、東京びいきであった。そこへ明治以後の関東史観がおいかぶさる。そうしたところに、露伴の頼朝論や将門論は生みだされたのだと思います。日本史へ、最初に中世史という区分をもちこんだのは、原勝郎です。『日本中世史』という本で、原はそのこころみを世に問いました。・・・・南部藩士の家に、原はそだっています。そのせいでしょう。原もまた、東国のすこやかさに共感をいだき、京都をきらっていました。・・・・
気の毒なことに、原は明治42年から、京都大学につとめだします。歴史の先生として。原先生の息子は、だんだん京都弁をおぼえだしたと言います。それが、原先生には不快であった。息子が京都弁をしゃべるたびになぐっていたという原勝郎伝説が、京都にはのこっています。そう、京都弁をしゃべる息子なんかはなぐってしまう男が、今の時代区分をもたらしたのです。泣菫によれば、露伴も、家族が京都弁にそまるのをきらっていたようですね。私は、このエピソード、けっこう図星をついていると思います。」

あとは山本夏彦著「最後のひと」に、辞任についての解釈があるのですが、これよりも、井上章一氏の方の説が面白いなあ。

辞任してまでも、話し言葉を、露伴は、幸田文・青木玉へと伝えておりました。それを紐解く楽しみが、なにやら残されているように感じる私であります。
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あの自由が。

2009-05-09 | 幸田文
幸田文を読もうと思っている。
まあ、思っているだけなわけなんです。
すると、こんなアプローチもありかなあ。
という、箇所をみつけたりします。
まるで、幸田文登山に、さまざまな登山路を見つけていくような。
それで、ここにも登山矢印がある。
という、一例。

長谷川三千子・水村美苗というお二人。
どなたからいきましょうか。
「幸田文の世界」(翰林書房)の最初のエッセイは
水村美苗氏からはじまっておりました。
まずその1ページ目に、こうあります。
「幸田文は偉大な作家である。・・・
なにしろ私の心のなかで幸田文の名は、一葉のみならず、漱石、谷崎などと並んでいるのである。このさき幸田文はどう評価されてゆくのだろうか。」
なかほどに、こんな箇所もあります。
「幸田文の使う言葉は徹頭徹尾文学に育まれた言葉である。そうでなくては、あのような力強い文章を書けるものではない。幸田文の文学はまことに文学的な文学なのである。それでいて、幸田文の文学は文学から限りなく自由な文学――文学のさまざまな規範から限りなく自由な文学なのである。雑文とも随筆とも小説とも何なりと勝手に呼んでくれ、私にはこれが精一杯である。と自分の書いたものを読者の前にどさりと投げ出す。あの自由は、文学の王道を行く露伴の抑圧を逆手にとり、露伴が象徴するものすべての対極に身を置くことによってえた自由にほかならない。あの自由があるからこそ、幸田文の書くものは、文学とは何か、という問いのおおもとへまっすぐに切り込む。どんなに文学らしい文学よりも、どんなに言葉をつくして文学について語った文章よりも、文学とは何か、という問いのおおもとへとまっすぐに切り込むのである。・・・・幸田文を読んだあとは、ふつうに小説などを書くのが馬鹿らしいという気になる。いや、書くという行為自体が馬鹿らしいという気にさえなる。それでいて、自分もあのようなものを書かねばという欲望にやみくもにとらわれる。文学というものの非力と文学というものの大いなる力を同時に啓示されるのである。論理的展開もないまま、言葉の力だけによって、人をここまで導くことのできる作家というものを私はほかに知らない。・・・」

うん。あとは、幸田文を読むだけなんですけれどもねえ。

ところで、長谷川三千子氏には
雑誌に短期連載された「幸田分の彷徨」というのがあります。
こちらは、枚数が水村美苗氏よりがぜん多い割には、意味がいまいち。(「正論」2004年12月・2005年1月・2月の三回に渡っての短期連載でした)ここまでなら、どうともないのでしょうが、「諸君!」2009年5月号に長谷川三千子氏は「水村美苗『日本語衰亡論』への疑問」という文を掲載しておりました。水村氏の「日本語が亡びるとき」をテーマにして論を展開しております。
おいおい。こちらは、長谷川三千子氏のほうが面白そうです。
(ちなみに私は「日本語が亡びるとき」は未読)
それよりも、長谷川三千子著「バベルの謎」(中公文庫)の
まえがきのはじまりが気になります。
「もともとこの本は、『ことば』と題する本の第一章、あるいは単なる『プロローグ』となるはずのものであった。ことばの問題を探究してゆこうとすると、かならずどこかで、ヨーロッパの言語思想の伝統を支配している或る強迫観念(オブセッション)ともいうべきものにつきあたる。すなわちそれは、『ただ一つの言語』という強迫観念である。或る意味では、この『ただ一つの言語』という強迫観念こそがヨーロッパの近代言語学発展の原動力となってきたとも言えるし、また、それ故にこそ、二十世紀の後半に至ってそれが足踏みすることになったのだとも言える。いずれにしても、この『ただ一つの言語』という強迫観念の及ぼしてきた力は、ことばの問題を探究しようとする者にとって――それを日本語から探究してゆこうとしている者にとってすら――見過しにできないものである。」

こと、幸田文の讃歌としては、水村美苗氏に軍配をあげたい。
でも、『ことば』というのでは、長谷川三千子氏が面白そう。
ちなみに、「幸田露伴の世界」(思文閣出版)が今年のはじめに出ておりまして、その編は、井波律子氏。


何やら、映画の予告編みたいな感じです。
でもね、予告だけで、肝心な中身を見ないというのもあります。
それに、予告編ばかりがよくって
実際映画は、つまらなかったということもあったりします。

水村美苗氏の予告篇
「このさき幸田文はどう評価されてゆくのだろうか」
というのは、どうなるのでしょう。
私たちは、その評価の先鞭をつける箇所に立っているわけです。
立っている場合か。
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め・眼・目。

2009-05-09 | 幸田文
匿名コラム「紳士と淑女」が、徳岡孝夫氏の文だとわかってみると、
そういえば、私は徳岡氏の文を読んでいない。
私が知っている徳岡氏というのは、ドナルド・キーン氏の訳者としてでした。
まあ、そういうわけで、何冊か古本屋へと徳岡孝夫氏の本を注文しております。
とりあえず、「妻の肖像」という本が手元に届いております。
そこに掲載されている「喪妻記」の雑誌掲載年は2001年4月とあります。
そこからの引用。

「十五年前の脳下垂体腫瘍のため右眼失明、左眼は視野きわめて狭く、矯正視力0・2しかない薄明である。前方にファインダーミラーを認め、よく見ると車だったという危険なこともたびたびある。外出時には杖をひくが、大きい横断歩道を渡るときには先に『これが人生の見納めの景色かなあ』と思ってから渡るようにしている。」と徳岡氏ご自身のことに触れておられました。

そういえば、話題がそれてゆきますが、2001年(平成13年)9月17日の一枚の写真がありました。小泉総理に招かれた、山本夏彦・徳岡孝夫・石井英夫・川上信定の諸氏。それを石井英夫氏が撮った写真があります。

「諸君!」2009年6月最終号。
そこに石井英夫氏が、その写真について言及しております。
山本夏彦ファンには、先刻ご承知の写真一枚であります。

「その翌平成十四年二月、八十七歳の山本さんはガンで胃の全摘出手術を受け、そのガンの転移で十月二十三日、世を去った。直前まで原稿を書き続け、利き腕の右手には最後まで点滴の針を打たせなかった。絶筆は写真コラム『遠きみやこにかへらばや』である。」と、その一枚の写真のあとを石井英夫氏は書いております。

その写真、そういえば、山本夏彦氏の顔がすぐれない。
もうひとつ、徳岡孝夫氏の顔も写っております。

写真といえば、幸田文の一枚の写真があります。
昭和28年頃の木村伊兵衛撮影の一枚。その幸田文の目が、どうもピントがあっていないような感じを受けておりました。よくテレビで拝見するようなテリー伊藤氏の目みたいな感じに、私には思えるのでした。

青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」(小沢書店)に、こんな箇所があります。

「机の上に二つの地図を置いて、ホログラフィみたいなもので覗くと立体的に見えるんです。母は片目が悪くて、まあ見えるという程度なので、なかなかうまく立体的に見えないと騒いでいました。」(p34)という箇所があります。


次にいきましょう。
幸田露伴の眼は、どうなっていたか。
青木玉著「小石川の家」(講談社・単行本)に、こんな箇所。


「目はもともと小さい時に失明しそうになって、一生を暗闇に過すかと悲しんだことがあったから、何かと気をつけて大切にしていたが、何分仕事がら、細かい字を見たり終日筆を持つ無理を重ね、白内障が進行して、お月様は何時も欠けて見えるし、小さい虫が目の前を飛んで邪魔だと言っていた。こういう、大事にはならないが日々の生活に不自由なことは、年寄りじみて、当人にとっては不機嫌の種になった。
大曲に下る安藤坂の途中に、萱沼さんという眼科の先生があった。何かの折に母が相談に行って、当時にしては眼科の往診は滅多に無いことであったが、先生と奥様が時々みえて見舞って下さった。大そう穏やかな方で、人肌に温めたお薬で目を洗って頂くと、気持ちがよくて、祖父は菅沼先生の往診を心待ちにしていた。殊に奥様が色白でふっくりした愛嬌のあるお顔立ちで、口元にえくぼを見せてにこにこ介添えして下さると、吉祥天女か薬師如来のようだと、祖父は柄にもなく、よい子になっていた。」(p123)

これは、戦争が拡大する前のころの回想として出てきます。

目ということで、最近読んだ
徳岡孝夫・幸田文・幸田露伴の3人に登場していただきました。
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流れる。

2009-05-08 | 幸田文
幸田文に「流れる」と題する作品があります。
山本夏彦著「最後のひと」というのは、
「諸君!」に連載された時の原題が「流れる」だったそうです。

ということで、「流れる」ということの連想。

橋本敏男著「幸田家のしつけ」(平凡社新書)に

「生母が亡くなった後のまだ幼いころ、隅田川が氾濫したため、向島の家を離れて小石川の叔母の家に一時預けられたときのこと、おばあさんに銭湯へ連れられて行った。初めての経験ではしゃいだ気持ちでつっ立っていると、おばあさんに『女の子がお臍もまる出しにしてぺろんとつっ立っているとは何というざまだ』といわれた。そして足の裏を洗うさまが醜いともたしなめられた。これは文にとって忘れられないことらしく、後年女学校時代に友だちにそれとなく尋ねてみると、体を洗う【しつけ】に特別な記憶など持っている者はいなかった。だから文はこういうのである。

   からだを洗うなどという一些事は、
   毎日の流れのうちにおのずからにして
   親から子へ受け渡されるはずの、
   ことさらならぬものであるらしい。
       (「みそっかす」所収「でみず」)

早く生母を亡くしたため、女親の暮らしの様子を目にする機会を逃した文らしい【発見】であり、自覚であった。」(p111~112)


ここには、「毎日の流れのうちに」とありました。
こんな変な連想なら、ほかにもあります。

清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)に「時間の流れ」という箇所がある。

「生意気な言い方で恐縮ですが、過去のいろいろな事柄の意味がただ心に浮ぶだけでは駄目なのです。心に浮ぶぐらいのことは、誰でも、毎日のようにあることです。・・・昔の哲学者は『意識の流れ』ということを申しました。それが実在というものかも知れません。しかし、悲しいかな、凡俗の私たちは、この流れに浮ぶ数々のものを受身の態度で眺めているだけでは、それは私たち自身の身につかず、どこかへ消えて行ってしまうのです。その時は生命を賭けた事柄でありながら、月日の経つにつれて、いつか磨滅してしまうものです。それを繋ぎとめて、われとわが心に、二度と消えないように刻みつけるには、どうしても、これを文章として書かねばなりません。・・・」(p186)


そういえば、「心の浮かぶ」といえば、山本夏彦著「最後のひと」(文芸春秋・単行本)に、こんな気になる箇所があります。


「露伴は希代の物識りだが教え方は下手である。知っていることなら教えられると思うのは誤りである。文はそのことをだんだん知るようになった。算術でも読方でも父の知らないことは一つもない。上級になって地理に朝鮮を教えられ明太(みんたい)という魚が採れると聞き、そのアルコール漬を見て珍しく帰って話すと父は見たように形も色も知っていた。その上朝鮮の色々な魚の話なんぞうんとこさと話してくれて実に嬉しかった。父の話はそれからそれへとひろがって、聞いているうちはよく分かったような気がするけれど、おしまいになったときは何が何だか要点がつかめない。はなはだ迷惑な教授ぶりだった。女学生になって図々しくなってからは、途中で口をはさむと怒るから終りまで聞いて、結局どういうことなのと問う。そのときは父のほうも何の話だか分からなくなっていて『おれは知らないよ』と言いだす始末である。」(p183)

このあと、山本夏彦氏は、こう指摘しておりました。

「明治41年というからまだ幾美が健在のころ露伴は請われて京都大学で教えたことがあるが、一年で東京へ帰っている。なぜ帰ったか分るような気がする。露伴の講義は言葉が言葉を刺激してどこへ行くのか生徒に分らないのはともかく、自分でも分らないと気がついたのではないか。」(p184)

ということで、山本夏彦著「最後のひと」の内容は、あちらこちらへとうつりながら、流れて書きすすめれられゆくのでした。

何とも「流れる」というのは、やっかいそうです。

そういえば、方丈記は、どう始まっていましたっけ。

「ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず。澱みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、ひさしく留まりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。」


うん。幸田文と「水」というのも、興味深いテーマであります。
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清水幾太郎と。

2009-05-07 | 地震
思い出して、山本伊吾著「夏彦の影法師」(新潮社・単行本)をひっくりかえしておりました。そこに清水幾太郎氏が出て来る箇所があります。

p103
「 昭和49年3月30日 <清水幾太郎研究室、談話2時間余>
 父は、「室内」の新人には必ず清水さんの『私の文章作法』という本を読ませたそうだ。『実にきれいな東京弁』だと、東京生れ、東京育ちの父は、再三コラムに書いている。」

p112~113
「昭和53年
2月4日<2―5時赤坂ざくろ。清水幾太郎氏と対談。大成功>
父が新入社員に清水さんの著書『私の文章作法』を読ませるという話はすでに書いたが、この時の対談のテーマは、当時、清水さんが新聞、雑誌に何度も書いていた地震の話。題して『誰も聞いてくれない地震の話』。同席した『室内』の女性編集者によれば、『いつもの山本さんではなく、とっても緊張してらっしゃいました。清水さんが士族の家に生れたことや、子供の頃に寄席が好きだったこと、関東大震災の話などに及んでから、すごく盛り上がって、最後のほうは、お二人とも楽しそうでした』 」


なぜ、こうして、もう古本でしか探せない本の内容を紹介しているかといいますと、ここに紹介されている対談が、なんとも有難いことに、新刊として読めるようになったのです。それが、山本夏彦対談集「浮き世のことは笑うよりほかなし」(講談社)2009年3月26日第一刷とあります。う~ん。この対談が読めるとは思わずニヤリ。

そうそう。清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)の解説は<狐>でした。
その解説も、地震のことに触れており、一読忘れ難い。
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馬鹿なアホな。

2009-05-05 | 幸田文
桑原武夫と幸田文とは、ともに1904年生まれなのですね。
ということで、お二人を結びつけて見たくなりました。
ここでは、上方弁と東京っ子言葉という視点で。

まずは、桑原武夫・司馬遼太郎対談から
「『人工日本語』の功罪について」と題された対談で、
司馬遼太郎は、こう語っておりました。

「・・いまの発言は、わたしが多年桑原先生を観察していての結論なのです(笑)。
大変に即物的で恐れいりますが、先生は問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。が、問題が非常に微妙なところに来たり、ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・・。」

これに対して、私は、村松友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)の
第九章「語り口と文体」のおわりの方にある言葉を、重ねてみたいのです。


「幸田文が文机の前に坐り、原稿用紙の上を走らせている鉛筆を止め、ふと宙をにらんでいる貌・・・それは、ひとつの文章の流れの中に書き表すべき、次の言葉を宙から引っぱり出そうとしている貌だ。あれこれ思い浮かぶ言葉は、いずれも的の芯を射ていないような気がする。幸田文はその的の芯を射る言葉を、じっと待って、時の経過を忘れる人ではなさそうだ。そんなとき、幸田文はえい! と気合をかけて、もうひとつの抽出(ひきだし)を開けその中にうごめく江戸語の余韻をもつ東京っ子言葉のひとつをつまみ出す。そして空白にそれをポンと置いてみる。そうやってから、前後の文章を整え直す。そのようにして、幸田文流の文章と喋り言葉の結合というスタイルが紡ぎ出されていったのではなかろうか。・・・・」(p193~194)


さてっと、最後は桑原武夫氏に登場ねがいましょう。
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)には、各対談のはじめに、桑原氏による簡単なコメントが付けてあるのでした。先に引用した司馬さんとの対談には、どういうコメントがはいっていたか。それを引用しておきます。

「自然言語から文明言語に移るときに失われてしまうもののあることは否定できないが、この移行は歴史的に不可避なものである。そのさい混乱を少なくし能率をあげるために、人工的規制を加えることが多くの滑稽さを生むことは事実である。文学者ないし文筆にたずさわる者の任務は、機能化されたことばの組合せの中に、人間自然の美しさをどのようにして生かすかを工夫するところにある。」

う~ん。これだけじゃ、あまりにそっけないかなあ。
もうすこし、司馬さんの対談中の言葉を引用してみます。


「・・まあ、標準語で話すと感情のディテールが表現できない。ですから標準語で話をする人が、そらぞらしく見えてしょうない(笑)。あの人はああいうことをいってるが、嘘じゃないか(笑)。東京にも下町言葉というちゃんとした感情表現力のあることばがありますが、新標準語一点張りで生活をしている場合、問題が起きますね。
話し言葉は自分の感情のニュアンスを表わすべきものなのに、標準語では論理性だけが厳しい。ですから、生きるとか死ぬとかの問題に直面すると死ぬほうを選ばざるを得ない。生きるということは、非常に猥雑な現実との妥協ですし、そして猥雑な現実のほうが、人生にとって大事だし厳然たるリアリティをふくんでいて、大切だろうと思うのですが、しかし純理論的に生きるか死ぬかをつきつめた場合、妙なことに死ぬほうが正しいということになる。【そんなアホなこと】とはおもわない。生か死かを土語、例えば東北弁で考えていれば、論理的にはアイマイですが、感情的には『女房子がいるべしや』とかなんかで済んでしまう。なにが済むのかわからないけど(笑)。」

【そんなアホなこと】といえば、
最近出た平凡社の「幸田文しつけ帖」「幸田文台所帖」を読んでいると
(これは、小説よりも随筆を中心に編まれたアンソロジーとなっております)、
露伴と文との親子のやりとりが随筆中に再現されているのでした。さすがに
「そんなアホな」いうのは出てきませんが、「馬鹿」というのは、もう潤滑油のようにして出て来る言葉なのでした。

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震災と房総。

2009-05-05 | 地震
関東大震災について、房総和田町の状況はどうだったのか?安田耕一氏が自費出版された本に、その様子がでておりました。ちなみに、安田氏は明治35年12月に和田町和田で生れております。お医者さんで、昭和3年慈恵会医科大学を卒業されております。その後、従軍し、戦後は目黒区にて医院を開業。

さて、自費出版された本の題名は「舎久と道久保」(昭和51年)。貴重な、関東大震災の房総での様子に触れられているので、参考になることも多々あろうかと思います。書きぶりも、大正時代の書き言葉と違い、さばけた文の運びで、震災の状況を知ることができます。
では、以下引用していきましょう。

「入学して次の夏休みに房州に帰って震災にあった。東京へ帰る人達とお別れのお昼を食べようといって、鶏なぞつぶしてコンロに鍋をかけはじめた時に、上下動の凄まじいのが来た。・・楽しさも平穏に進んでいた時、突然大地の変動に見舞われたからみんな驚いて顔色がなかった。余震の大きいのがくる度に、みんな世の中の終末かと思って蒼ざめていた。ただ一途に桑原々々を唱える人もあれば、腰を抜かして全然動けない人もあった。腰が抜けるとは全く面白いもので、驚愕の極、腰がへたへたと床に落ちて、足の運動が無力となって、一過性の麻痺状態となる。こんな二人の女につかまって私は往生した。余震の大揺れが来るたびに天井を見ればうねっていて、何時落ちてくるかと生きた心地がしなかった。

余震が段々弱くなって来たが、何時また大きいのが来るかと家の中には入って寝ることが出来ないから、みんな野外に蚊帳を吊って野宿した。三日間は余震が劇しくて飯もろくに食えなかった。こんな生活が十日間も続いて、漸く余震も薄れて家の中にいられるようになったが、今まで自分の周囲ばかりを気にしていたところへ、全然思いも及ばなかった東京のニュースが入って来た。東京、横浜、鎌倉が惨憺たるものだとの話が伝わって来た。

東京への汽車や電信電話は、全く不通で役に立たなかった。東京へ行くには海路館山湾から東京湾汽船で行くのが唯一のルートであった。当時ラジオもなく新聞も出ていないから情報は入手出来なかったが、震災七日目に息子の安否を気づかって埼玉の熊谷から友人の親父がやって来た。息子の息災を確めて帰っていったが、この父は東京のことなぞあんまり知らなかった。

余震も全然とはいえないが、静かになってから十四日くらいして姉の家のことが心配になったので、友人五人と朝早く、歩いて館山へ一日分の握り飯と白米少量を持って出発した。私の町は地盤がいいので、一、二軒の倒壊家屋があっただけだったが、両隣の村はひどかった。北条町の方へ近づくに従って建っている家が少なくなって来た。北条、館山両町にいたっては全家屋が崩壊して、残っている家は二軒だけだった。道路上には大きい亀裂があって、歩くのに大変だった。和田町から館山湾の桟橋まで約十八粁(キロメートル)あったが、四時間ぐらいで着いて東京行きの切符を買った。・・・・」

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1930年生まれ。

2009-05-04 | Weblog
1930年生まれ。
徳岡孝夫氏が1930年生まれだったんですね。
ということで、昭和5年(1930年)生まれの列挙。

渡部昇一
岡崎久彦
日下公人
日高敏隆
上田篤
加藤秀俊
渡辺京二
松永伍一
佐々淳行
飯島耕一
平岡敏夫
竹村健一
半藤一利
小山内美江子
粕谷一希
田代慶一郎
米谷ふみ子
武満徹
大庭みな子
開高健
向井敏
上坂冬子
岸田今日子



はは~ん。名前を列挙するだけで満腹。
ほかに昭和5年前後の年代の人を加えると
これがまた、すごくなるのでしょうが、
こんな方々の本を読める。
しかも、現在の同時代人として。
こういう幸せがある、ということに感謝。
感謝のわりに、さっぱり読んでいない。反省。


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そうだ、その通り。

2009-05-03 | Weblog
「諸君!」2009年6月号が最終号。
そのなかの特集「『諸君!』と私」が気になるのでした。
長谷川三千子氏と阿川尚之氏の二人を、ここに引用しておきます。

まずは長谷川三千子氏。
「四十年前、はじめて『諸君』を読んだときの衝撃は忘れられない。それまで、雑誌などといふものは、ただ何となく時間をつぶすためにあるもので、雑誌を読んで膝をうつて『そうだ!その通り!』と叫びたくなることなどありえないと思つてゐた。ところが、実際、さういふことがおこつたのである。」
と、はじまっておりました。そして、自分が「諸君!」に書くようになったことに触れながら、こう書いております。
「ひよつとするとどこかに、かつての私自身のやうに、これを読んで喜んでくれる若い人がゐるかも知れない。それに値する、よい文章、力のある文章を書かなくてはいけない――そういふ思ひがあつたことは間違ひない。」
そして最後は
「すぐに手軽に共感を得られるやうなネット上の『オピニオン』言論が盛んになればなるほど、他方で、本当によく練り上げた、力のある文章を世に問ふ場の必要性といふものは、かへつて増すのではあるまいか。少くとも私は、これからも変らず、さういふ文章を目指しつづけたいと思つてゐる。」


つぎは、阿川尚之氏の文から

「私にとって『保守』とは、ものごとがうまくいかなくても、こんなもんだと笑っている。はっきりした意見は持つけれど、他人に押しつけない。まずは自分にできることを、泰然として、多少のユーモアをもって、完遂する。群れない。声高に話さない。孤独を恐れない。そうした態度だと思っている。」
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諸君!最終号。

2009-05-02 | Weblog
2009年6月号「諸君!」は、最終号特別企画。となっております。
表紙の上には「日本を元気にするオピニオン雑誌」とある。
もうそろそろ、自分で元気になれよ。まわりを元気にさせろよ。
そんな感じでの最終号。

私に興味深かったのは、「『諸君!』と私」と「輝ける論壇の巨星たち」と
二つの特集でした。さて、今回それをどう拾い上げればよいか。

石井英夫氏は「山本夏彦」のテーマで3ページほど書いておりました。
そこに「 『諸君!』の読者は、巻頭の『紳士と淑女』で溜飲を下げ、巻末の『笑わぬでもなし』でうっぷんを晴らすのを常としていた。いうならば『諸君!』は【尾カシラつき】を売り物にする雑誌だった。 」(p265)とあります。
渡邉恒雄氏は、こうはじめておりました。
「毎号『諸君』を手にして、とびつくように読んでいたのは、巻頭の匿名時評『紳士と淑女』だ。巧みなユーモアと、批評の切れ味の良さは、時には抱腹し、時には感嘆し、読後満足感にひたらせる。誰が執筆者か知らぬが、休刊によって『紳士と淑女』の読後の快感を味わうことが出来なくなるのは本当に残念だ。」(p158~159)

その最終号の「紳士と淑女」は、最後に「読者へ」とあり、近況を語りながらこうあるのでした。

「なお、三十年にわたって、ご愛読いただいた『紳士と淑女』の執筆は、徳岡孝夫というものであった。」

最終号というので、私に思い浮かぶのは、
山本伊吾著「夏彦の影法師」(新潮社)にある言葉でした。
単行本のp126に、平成13年7月2日(フォーカス廃刊)
「二十年続いた『フォーカス』が休刊になってしまった。私は、最後の編集長として、残務整理をするかたわら、『フォーカス』の二十年をまとめた単行本を創る作業にかかっていた。その本のPRのためにテレビに出演したのだが、それを見た父は、
『編集長ってのはね、雑誌の創刊と廃刊に立ち合うのが一番勉強になる。その時に出会ったらよく見とくことだよ』
もちろん、私にいったのではない。私と父の関係は、相変わらずロクに口も利かぬまんまであった。」(p126)

さて、諸君!の最終号で、私が印象深く読んだのは特集「『諸君!』と私」でした。
そこには各界32人が語っているのですが、そこでの、編集人への言及をつなぎ合わせるという読み方をすると、独特の味わいがあります。

たとえば曽野綾子さんは、
「大江健三郎氏が『沖縄ノート』の中でこの守備隊長を『あまりにも巨きい罪の巨塊』とかいていることだった。私は『罪の巨塊』と、神からではなく、人間から断じられるような人を現世でまだ見たことがなかったから、そういう人には会っておきたいと好奇心から思ったのである。それから始めた調査の結果を、私は『ある神話の背景』という題で、『諸君』の1971年10月号から1年間連載させてもらった。『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの反論でも試みる者は徹底して叩くというのが沖縄のマスコミの姿勢だったが、その私を終始庇ってくれたのが、田中健五編集長と、私の担当だった村田耕二氏だった。或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、『多分ご迷惑をおかけしているんですね』と言ったことがある。すると村田氏は『社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ』と言う意味のことを言った。反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかったほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。・・・」(p166)

屋山太郎(ややまたろう)氏は、
「注文はペラ(二百字)60枚だったが、書き終ったらなんと120枚になっていた。村田さんは一読して『これ全部行きましょう』という。この人の見出しの付け方は名人芸でこれには心服した。その年の年賀状に『屋山さんは怒ってさえいればいいのです』とあったのには笑ったが、これは尊い私の人生の指針となった。その年の正月、家にいたら村田さんから電話があり『いま社長の池島信平さんが諸君!の編集部に降りてきて、屋山さんの原稿を指して【このライターを大切にしろよ】といいましたよ』という。」
屋山氏は文の最後をこうしめておりました。
「今は編集者とライターは顔も見ずに付き合っているが、それでは互いに触発されるものがないではないか。」(p168~169)

ちょっと、これを丁寧に拾ってゆくと全篇読んでもらいたくなるので、
もうちょっと引用して、きりあげましょう。
福田和也氏
「二十代最後の歳、当時の編集長白川浩司氏が、はじめて私に原稿を依頼してくださった。一挙掲載百枚・・・・若い書き手に場所を与えるとともに、厳しくしごく道場だったと思う。白川さんには、何度怒鳴られたか分からないが、それはかけがえのない『親切』だったと思う。親でもない人から、こんな恩恵を受けることが出来た場所が『諸君!』だった。」(p193)

最後にもう一人だけ
櫻田淳氏
「言論家と編集者の緊張関係と協働から生み出される言論は、その『質』において、明らかにネット言論に凌駕されることはない。編集者が世の要請の何たるかを示し、言論家が世の要請に応えた原稿を用意する手順には、言論の『質』を保つ意味が確かにある。・・・」(p194)

うん。このくらいにしておきます。
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釣竿。

2009-05-01 | 幸田文
幸田文著「月の塵」(講談社)に
「遺品のあるなし」という4ページほどの短文がありました。

最後の方に、「年譜は、人が見るのと家族がよむのとではずいぶん違う・・」
とあります。露伴について、幸田文・青木玉の関連の文を読んだり、その対談集を読んでいたりすると、いつのまにか、知らず知らずのうちに、家族の側からの、目線になっていたりします。随筆を読んでいると、しばしば、そんな感じになります。

ところで、昭和13年。
幸田文が玉をつれて、実家へ戻り、5月に離婚をしております。
幸田露伴の「幻談」が掲載されたのが、その昭和13年9月となっておりました。

ここは、岩波文庫の川村二郎氏の解説から、「幻談」のあらすじを引用してみましょう。

「話としては実際、単純きわまりないともすこぶるたわいないともいえる体のものである。釣好きの侍が海釣に出かけると、水の中から竿のようなものが出たり引込んだりする。舟を近づけてみると、溺死者が釣竿を握っているのだと分かる。その竿がいかにも見事なので、死者の手からもぎ放して家へ持って帰る。次の日この竿を持ってまた出かけると、昨日と同じように、海の中から竿が出たり引込んだりする。そこで念仏を唱えながら持ってきた竿を海へ返してしまう。」

この語りについて、川村二郎氏は、丁寧に指摘してゆきます。

「この作の比類なさは、ほかならぬ無内容を、完璧な創作の原理たらしめているところにある。元来この作は口述筆記にもとづいており、終始くつろいだ談話口調で一貫している。・・・時にくつろぎすぎ、くだけすぎの印象を与えることもなくはない。『幻談』の口調は実に自然でなだらかで、いささかも『すぎ』の、過度の印象を与えない。斎藤茂吉はこの文体について、『談は世故にたけた老翁の談であって、これくらい洗練された日本語というものはない』と評している。いかにも高度の洗練。・・・あらゆることに造詣の深かった露伴の趣味の中でも、釣は特別の場所を占めていたと思われる。」

さて、なぜ「幻談」をもってきたかといいますと、
幸田文の「遺品のあるなし」に、「幻談」とはかかわりないのですが、釣竿のことが登場していたのでした。その文のはじまりは、「この春読売新聞から、紅葉子規漱石露伴の四人の展覧会をすると話のあったとき『今年は、ちょうど誕生百年になるので』といわれてまごついた。」とあります。展示の遺品を出してもらいたいという督促のようです。
それが見あたらないことを述べながら、釣竿のことに話題がおよぶのでした。

では、最後にそこを引用しておきます。


「それはたしかに戦争もあったし、焼けもした。だが、それらの品を保存しようとする気さえあれば、まるまる無理だったわけではない。私は買いだしの米かつぎには、よく出掛けていった。が、疎開から東京へ来て、おき放しの家財道具の中から、僅かばかりの父の好きな品を運ぶことはしなかった。それは空襲のおそれや、疲労だったら許せるのだが、そうではなかった。戦争に煽られてふわふわしていた、という以外ない。
その証拠に、疎開先で東京宅の焼失をきいたとき、病床にいた父は私をふり返って、釣竿はもってきていたね、ときいた。私はむかっとして、この際なにもそんな遊び道具のことなどを、と思った。すると父は察したらしくて、おこりもしない代り、話すのもやめて、視力の殆ど弱くなっている目を障子のほうにむけて、みつめていた。このとき、さすがに私は辛くなった。気の毒と申訳なさで困った。・・・」

誕生百年の展覧会の会場には、そういうわけで露伴愛用の釣竿はなかった。
ところで『幻談』の最後は、こうなっておりました。

「竿はもとよりそこにあったが、客は竿を取出して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言って海へかえしてしまった。」

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