和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

老史学者が。

2012-11-12 | 短文紹介
磯田道史著「歴史の愉しみ方」(中公新書)に
古島敏雄先生に触れた箇所があり印象に残ります。

「歴史学者というのは、災害に弱い。作家もそうだと思うが、膨大な蔵書を家に抱えてしまう。・・・大学院生時代に、それを思い知った。老史学者が、夫人もろとも、たて続けに焼け死ぬ、いたましい事故がおきたのだ。
古島敏雄(ふるしまとしお)先生という農業経済史の碩学がおられ、お会いしたことはなかったが、このうえなく尊敬していた。この先生は、誠実な人で、空襲にあって家を焼け出されたとき、たしか東畑精一さんのところへ、であったと思うが、すすだらけの顔でやってきて、一冊の本をさしだし、こういわれた。『先生、わたしの家は丸焼けで、本は全部やられましたが、先生にお借りしたこの本だけは、とりだせました。お返しいたします』。その古島先生が16年ほど前、ご自宅の火事で、夫人とともに焼死された。空襲で焼け出されてから、こつこつと蔵書をためてこられたにちがいない。その本に、引火して、あっというまに燃えひろがり、ご夫婦の命を奪ったのだ。それだけではない。その翌年、鎌倉時代の武士団の研究で知られる安田元久先生が、これまた夫人とともに焼け死んでしまわれた。皇太子殿下の指導教授にして元学習院大学学長である。
このとき、学者が蔵書をもつのも、命がけだ、と思った。」(p116~117)

古島敏雄氏といえば、
一冊もっております。
古島敏雄著「田舎町の生活誌 子供たちの大正時代」(平凡社)。
その本のはじまりは「深夜の大火」という文からはじまっておりました。
ここでは、その「あとがき」を紹介してみます。

「私は1912年4月14日に生まれた。この年7月30日から年号は大正となる。従って4月は明治45年である。・・・本書中でも述べたように私は大正11年5月に生まれ育った家を焼いている。そこで自分の幼時に使った家具、その他の道具、読んだ本、さらに幼時の写真の全部を焼いている。さらに昭和22年に又故郷の家は大火災に会って、私の青少年期の読書の対象だった書籍、多少の日記その他の記録、その後の写真も焼いている。それに先だって昭和20年4月には東京の住居も戦災で失い、青年期の書籍、作業中の原稿・ノート、写真の類もすべて失っている。物にふれて昔を思い出し、僅かな記録によってその時日を確かめる術は、私自身については全くない。すべては心に残るものだけになっている。」

検索すると、「1995年8月29日焼死」とあります。
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積書25センチ。

2012-11-11 | 短文紹介
磯田道史著「歴史の愉しみ方」(中公新書)。
まえがきに、
「第4章『震災の歴史に学ぶ』であり、ここは、とくに読んでいただきたい一章である。」とあります。ハイ、わかりました。と、第4章を読むことにしました。

そこに東日本大震災のことが書かれております。

「震災以来、水戸でも余震が激しく、一日四十回以上揺れた日はまるで舟の中にいるようだった。私のいる茨城大学の図書館も被災した。書庫の床は積雪ならぬ積書25センチになり立ち入り禁止となった。本にお辞儀をして、靴を脱ぎ、生まれてはじめて本の上を歩き、必死で『三代実録』と『駿府記』を探した。今回にそっくりな大地震と津波は1100年前と400年前に最低二回起きている。この二冊にそれが記されているから立ち入り禁止でも危険でも書庫に押し入って探すことにした。」(p129)

「・・床に25センチの厚さで積もった本の上を裸足で歩き、『大日本地震資料』と『新収日本地震資料』を探し回った。過去に起きた巨大地震の経過をさぐり、この先のことを考えようと思った。地震記録をみて感じた。今後も、この島国ではしばらく地震が続くかもしれない。私も何かしなくてはいけない。理系の研究者と歴史学者が地震津波を研究する『歴史地震研究会』に入会することにした。」(p132)


「・・次は強いほうの東海大地震、人口集中地に15メートルの巨大地震がきても不思議ではない時期にさしかかっているといっていい。わたしは歴史学者として、この安政・宝永・明応津波に関心をもった。それでわたしは『武士の家計簿』を探しだしたり、『忍者の履歴書』をみつけだしたり、古文書をみつけるのがはやいので、歴史時代の地震津波の古文書をさがすのは、自分が適任であると考え、津波常襲地の浜松市にある静岡文化芸術大学に職を得て、2012年4月から移住して、研究をはじめた。」(p151)

その研究の内容を、この第4章で知ることができる、というわけです。
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貼り付ける。

2012-11-10 | 短文紹介
産経新聞11月10日の一面に
「『水くむ少年』戻った笑顔」という見出し。

「東日本大震災直後、宮城県気仙沼市の被災地で『水をくむ少年』が・・掲載され、そのけなげな姿は多くの人の感動を誘った。その少年は松本魁翔(かいと)くん(12)=同市立鹿折(ししおり)小6年。10月28日に開催された全東北・北海道防具付空手道大会の個人、団体線で、ともに優勝を果たした。」

「『悲しくて、怖くて、何も言えないような気持ちだった。それでも、何か自分にできることをしようと思って始めたのが水くみ。外に出て歩けたから、今思えばストレス発散にもなっていたのかな』その姿が通信社のカメラマンに撮影され、国内外に配信された。俳優の高倉健さん(81)が新聞から切り抜き、映画の台本に張り付けたという逸話も生んだ。」


平成23年3月15日の産経新聞が、ちょうどあったので、さっそく今日のうちに、
両手に焼酎のペットボトルの大をもち、水を汲んでもって帰るところの、その写真をコピーしてファイル表紙に張り付けてみました。



今日は文芸春秋12月号の発売日。
都知事を辞め、国政に復帰する石原慎太郎の言葉を読みたく、
この雑誌を買いました。
テレビでの都知事引退の会見も、途中から見たのですが、
あれって、どうして最後まで会見を通して写さないのでしょうね。
NHKでも、適当なところで、記者が要約をしはじめる。
テレビは本人を見ながら、声を聴きながら、
じかに味わえる絶好のチャンスなのに、
どうして、途中でやめてしまうのでしょうね。
最後まで、聞けない歯がゆさが残ります。
要約なんてしなくていいのに。

まあ、そういうことがありましたので、
雑誌を購入して読めてホッとしております。

そういえば、この12月号には
第60回菊池寛賞の発表も掲載されておりました。
曽野綾子さん
高倉健さん
・・・
と受賞者があげられております。
横尾忠則氏が、高倉健さんについて書かれておりました。
曽野綾子さんは、徳岡孝夫氏が書いています。
ここでは、徳岡孝夫氏の文を引用。
その最初はこうはじまります。

「日本人の好きな七五調。昭和時代に活躍した某詩人に『妻を娶らば曽野綾子』という断片がある。亭主満悦の一句らしいが、残る五音がまだ発掘されていない。」

短い文の最後は、こうでした。

「また『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷の集団自決』はジャーナリズムの傑作。もっと早く、何十年も前に顕彰されているべき作家である。」
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刊行のことば。

2012-11-09 | 短文紹介
磯田道史氏の新刊2冊を注文する。

「無私の日本人」(文藝春秋)
「歴史の愉しみ方」(中公新書)

最初の本は、雑誌「文藝春秋」に何回かにわけて連載されていたもの。
私は、この雑誌を購読していないので、今回がはじめて。

二冊目。おお、中公新書じゃないですか。
そういえば、新聞に加藤秀俊氏の顔写真が載っていたなあ。
2012年11月6日の読売新聞。
「中公新書は『百科事典』」とあり、
「『刊行のことば』執筆 加藤秀俊さん」とあります。
うん。その最新刊が
磯田道史著「歴史の愉しみ方」なんだ。

ここでは、「中公新書刊行のことば」をすこし引用してみたい。
そこには、日付が記載されておりました。1962年11月とあります。
今年の11月は、創刊50周年なんだ。

ちょっと、その前に記事を引用。

「中央公論新社の中公新書が、1962年11月の創刊から50周年を迎えた。その記念に刊行された『中公新書総解説目録』で、『刊行のことば』を創刊時に執筆したことを明かにしたのが社会学者の加藤秀俊さん(82)。・・・・」と、はじまっております。
最後の方には、こうもありました。
「自宅には創刊時から送られてきた新書のほぼ全てがそろう。『中公新書は百科事典の一項目になるようなものが多い。百科事典とすれば、グーグルよりもはるかに充実している』と加藤さんは話した。・・・(文化部川村律文)」

それではと、
「刊行のことば」の後半の箇所を引用。
うん。笑わないでください。
この機会がなければ、私は、読まずじまいだったと思います。

「・・・私たちは、知識として錯覚しているものによってしばしば動かされ、裏切られる。私たちは、作為によってあたえられた知識のうえに生きることがあまりに多く、ゆるぎない事実を通して思索することがあまりにすくない。中公新書が、その一貫した特色として自らに課するものは、この事実のみの持つ無条件の説得力を発揮させることである。現代にあらたな意味を投げかけるべく待機している過去の歴史的事実もまた、中公新書によって数多く発掘されるであろう。中公新書は、現代を自らの眼で見つめようとする、逞しい知的な読者の活力となることを欲している。」
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スズカケの大木。

2012-11-08 | 地域
読売新聞10月31日に
磯田道史氏の連載「古今をちこち」がありました。
普段は読まないのですが、その題名が
「司馬遼太郎 原点の小学校」とあるので、
興味深く読みました。

「昭和20年、司馬さんは22歳の戦車隊の陸軍少尉。本土決戦に備え中戦車80輛と栃木県佐野にいた。・・・・」

と司馬さんのことを引用して、そのつぎでした

「今月、私は司馬さんの大阪府東大阪市の旧宅(司馬遼太郎記念館)をはじめて訪れた。たどりつくや司馬さんの義弟上村洋行館長に聞いてみた。『司馬さんは栃木の佐野で終戦を迎えられましたが佐野のどこで寝起きされていましたか』。『植野小学校です。あそこに将校用のベッドがありました』。・・・『植野小学校』と聞き、私は椅子から転げ落ちるほど驚いた。」


中根東里(なかねとうり)が住んだ庵であり寺子屋が、のちに植野小学校となるのですが、その説明を磯田氏はていねいにしてゆきます。ここでは、最後の箇所。

「若い司馬さんは佐野で地元の人に気さくに語りかけ、あれこれ話を聞き取っていたらしい。中根東里は地元ではみなが語り草にする聖人で、私は司馬さんがその話を聞かなかったはずはないと思っている。中根の生涯を聞けば人生が変わるのは私自身が体験した。中根の生き様を知ってしまったがゆえに、私は茨城大学を辞めて歴史地震の古文書をあつめに浜松に移住してしまったように思う。中根は死後もそれほどに人を変えてしまう不思議な人物である。司馬さんが中根のことを書いたものは見ていない。・・・・・植野小には校庭にスズカケの大木があり、終戦時、司馬さんは、これを見上げていた。司馬記念館の庭にはそのスズカケが挿し木と実生で移植され、いまもその美しい葉を風になびかせている。」

うん。中根東里とは、何者?
ということで、新刊の磯田道史著「無私の日本人」(文藝春秋)を注文するかどうか。
私は、本を読むよりも、こうして買おうかどうかと思っているときが楽しい(笑)。


ちなみに、
磯田道史著「武士の家計簿」(新潮新書)に

「原文は江戸時代の古文書である。ミミズが這ったあとのような文字を解読しなければ何を意味しているのか、さっぱり分からない。・・・」(p70)

とあり、そういえば
中野三敏著「和本のすすめ」(岩波新書)に

「和本の出版にはどのくらいの経費がかかたのかとは、よく質問される事柄で・・・
費用という場合、まずは江戸時代と近代の物価換算の基準値が問題となるが、経済音痴を自認する筆者などにとっては全くのお手上げなので、前出の磯田道史氏の『武士の家計簿』に示されたものを範としてみることにする。」(p48)

案外、新書つながりというのもあり?
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二つ目の情報。

2012-11-08 | 短文紹介
産経新聞11月7日。
水曜日の連載、曽野綾子の「透明な歳月の光」は
こうはじまっておりました。

「11月3日の産経新聞は、私たちが目撃できないある情景を伝えてくれた。沖縄県尖閣諸島の魚釣島周辺に現れた台湾の巡視船が、日本の海上保安庁の巡視船に向かって放水を続けたのに、海保の巡視船は、それまでに台湾の漁船を退去させるのに使っていた放水を、台湾の巡視船に対しては使うことをしなかった。それは次ような理由からだという。『国際法では領海内に侵入した無害通航でない外国船の排除は可能だが、日本の国内法にはそうした規定がない。日本政府は「放水などの実力行使は漁船には認められても、公船には認められない』として、退去要請以外には公船への対処策はないという立場を取っている』からだという。・・・」

うん。さいわい、古新聞はほとんどそのままになので、11月3日の産経一面を読んでみる。
読まずにいた記事を読む。

それからしばらくして、思い浮かんだのは、
片田敏孝著「子どもたちに『生き抜く力』を  釜石の事例に学ぶ津波防災教育」(フレーベル館)の、この箇所でした。

「たとえば、授業中に非常ベルが鳴ったときに、逃げ出す人がどれほどいるでしょうか。【火事】を知らせる非常ベルだということはみんな知っています。でも誰も逃げようとはしません。『本当なの?』と疑心暗鬼になって、周りをキョロキョロと見るだけです。その情報をすぐに受け入れようとはしません。人は、『まさか自分が火災に巻き込まれるなんて』と思うのです。・・・災害心理学では『正常化の偏見』と呼びます。『逃げなきゃいけないのだろうな』と思いながら、『今が【その時】なのか』と逃げるタイミング、きっかけをうかがっていて、【逃げる】という決断ができずにいるのです。
人間は、自分に危険を知らせる情報について、最初の情報は無視する習性があります。これを打破するためには、同じ意味を示す二つ目の情報が必要です。逃げてはいないものの、非常ベルによって不安の中にある人は、二つ目の情報が大きな意味を持ちます。」(p60~61)


曽野綾子さんの、反芻する「二つ目の情報」を読めた。
ただ、情報を無原則に吸収するだけじゃいけませんと、
叱咤されているようです。
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くにのあとさき。

2012-11-06 | 短文紹介
本も読む気がしないので、
古新聞の整理をしはじめる。

2010年9月11日産経新聞一面左上に
湯浅博氏が「くにのあとさき」という連載。
その文の最後の方に、こうありました。

「南シナ海でみる中国の島嶼(とうしょ)ぶんどりにも一定のパターンがあった。1992年の領海法で勝手に線を引くと、まず海洋調査を開始し、次に漁船を装った海上民兵が登場する。その後に控えているのが、国家海洋局の武装艦船であり、やがて海軍の艦船が登場する。」

えっ。南シナ海のよそ事として、読み過ごしていた文が、2012年の現在は、そのパターンの切実感がふかまります。

ちなみに、この湯浅氏の文のはじまりは民主党について語りはじめられておりました。
その途中は

「・・・国会議員の最大関心事は、いかに失職しないで済むかであり、『1に雇用、2に雇用』の選挙スローガンでさえ、彼ら自身の問題かと疑う。国難に際して、どう指導力を発揮するかは二の次になる。〈新世界〉の政治家たちは官僚を悪役に仕立て、能力も怪しいのに『政治主導』を豪語する。その危うさは、尖閣諸島の周辺で領海侵犯した中国漁船の処理への決断不足にも表れていた。・・・」

雑誌「正論」12月号を昨日買ってきました。
最初の論文は中西輝政氏です。
そのはじまりを引用。

「沖縄・尖閣諸島をめぐり、日本と中国は、いよいよ厳しい緊張関係に陥った。これはおそらく、今後、何十年にもわたって続くであろう『日中冷戦の時代』の始まりである。今、その門口に立つ我々は、つねに何十年、時には何世代もの将来を見据えて国家的戦略を立てる中国を相手に、日本も長期にわたって対峙する覚悟と戦略をもたなければならないと胸に刻むべき時である。・・・」
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畏敬の念が。

2012-11-05 | 前書・後書。
谷沢永一・渡部昇一対談「誰が国賊か」(文春文庫)が出てきました(笑)。
その「あとがきにかえて」というのも対談になっており読ませます。
というか、私はとりあえず、そこだけ読み。

谷沢】 ・・つまり本を集めるということの基本には、先人に対する畏敬の念がなくては駄目なんです。世の中には、ちょっと斜に構えて、何事でも茶化してしまう人がいるでしょう。そういう人間は、絶対に本好きではありません。
渡部】 しかも本を愛すれば、素朴な愛国者になるんです。素朴に自分の生れた国を愛するようになるのですね。(p369~370)

こんな言葉もあります。

谷沢】 ・・私は何べんも書いているけれども、小説では司馬遼太郎、論説では渡部昇一・・・この二人が日本再発見の先頭旗手です。(p377)

うん。もし渡部昇一氏がお先に亡くなっていたなら、
谷沢永一氏は、司馬さんの時のように、一冊の追悼本を書きあげるのだろうなあ。

うん。ここでは、
渡部昇一・谷沢永一対談「読書談義」(徳間文庫)の
文庫版あとがき。そのはじまりを紹介。

「渡部昇一さんとの初対面は昭和54年である。ふたりとも既に五十歳をこえていた。通常、この年齢からの出会いが、心の友にまで発展することはむつかしいとされている。しかしわれわれの場合には奇跡がおこった。大修館書店の藤田恍一郎氏に紹介されて、いざ対談をはじめたそもそもの口切りから、私は志と嗜好を同じうする人に、今やめぐりあえたという喜びがこみあげてきた。それから早くも足かけ20年、渡部さんは常に私にとって心のよりどころであり、その思いはますます深まる一方である。・・・」
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山形への連想。

2012-11-05 | 地域
毎日新聞の11月4日「今週の本棚」に
堀江敏幸氏が書評を載せておりました。
鬼海弘雄著「眼と風の記憶 写真をめぐるエセー」(岩波書店)。
そこにこうあります。

「著者の郷里は、山形県寒河江市。かつては醍醐村と呼ばれた土地の米農家・・」

「初出は『山形新聞』。自伝風の話題が多いのはそのせいでもあるのだが、この一徹の人に感傷の色は少しもない。」

ふ~ん。私は知らなかったのですが、
鬼海弘雄氏は写真家なのだそうです。

そういえば、日曜日の朝のテレビで
山形県の芋煮会のようすが紹介されておりました。
NHK第一の朝6時15分から。
毎日新聞のテレビ欄には、こうあります
「うまいッ!美味!幻の里芋。山形。ヌメリに秘密が?」

ということで、
今週の本棚に(門)さんの書評で
佐野衛著「書店の棚本の気配」(亜紀書房)を見ても
関係もないのに、山形県へと連想がひろがります。
まずは、佐野衛氏について
「新刊書店の老舗、東京堂書店(東京・神田)で長く店長をつとめた著者の、読書エッセイを収めたもの。」とあります。
東京堂書店といえば、茨木のり子さんのエッセイに、この本屋へよく行くようなことが書かれていたなあと、思い出しさがすのですが、ちょっと見つからない。しかたない、詩の始まりでも引用しましょう。

  詩集と刺繍   茨木のり子

 詩集のコーナーはどこですか
 勇を鼓して尋ねたらば
 東京堂の店員はさっさと案内してくれたのである
 刺繍の本のぎっしりつまった一角へ

さて、茨木のり子著「言の葉さやげ」(花神社)の
最初に「東北弁」というエッセイがあるのでした。
こうはじまります。

「母は東北人であった。
さらに限定すれば、山形県の庄内地方の産である。鶴岡市から二里ばかり離れた在であった。長野県人であった父に嫁ぎ、大阪、京都、愛知と転々としたが、東北弁はずっとついてまわった。私が物ごころついた頃は、庄内弁をたっぷり浴びていたわけである。母は家のなかではいきいきしたお国言葉を駆使し、世間に対しては標準語を使っていたが、標準語のほうは得意ではなかったらしく、そちらのほうでは寡黙になりがちだった。
家のなかで奔放に庄内弁をしゃべりまくる母は天馬空を行くがごとしであったし、なるべくボロを出さないように、しおらしく標準語を操っているときの母とは、なにか別人のようにみえた。私が言葉というものになにほどか意識的になり、後年詩などを書いて踏み迷う仕儀に至るのも、遠因は母が二刀流のように使う二つの言葉のおもしろさに端を発していたのかもしれない。・・・」

さてっと、茨木のり子さんのご主人については、
花神ブックス1「茨木のり子」のなかで、
岩崎勝海氏が「三浦安信・のり子夫婦」と題する文の載せておりました。
そこに
「三浦安信さん。1918年8月28日生れ、山形県鶴岡市出身。旧制山形高等学校理科乙類に進まれ、医学を志望されて1945年、大阪帝国大学医学部を卒業。46年には新潟医大の助手になられた方である。月並ないい方になるが、眉目秀麗。端正な庄内藩士とでも形容すればぴったり。・・・私は、もし死んであの世というものがあるのなら、まずまっさきに三浦安信さんに会いたいと思っている。きっとまた安信さんは、いつまでも青臭い私の話を、あの庄内なまりの相槌とともにきいてくださるだろう。」


ちなみに、岩崎氏の文の最初の方に万国屋が登場しておりました。

「私の友人に、早稲田大学の政治学科の大学院までいって、後継ぎ息子ゆえに山形県温海温泉のホテル万国屋の社長をしている本間新哉君がいる。その彼の従兄に三浦安信さんという方がおられた。」


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二十数点の対談本。

2012-11-03 | 前書・後書。
渡部昇一著「賢者は人生を教えてくれる セネカの人生論」(到知出版社)。その「まえがき」は、こうはじまっておりました。


「昨年亡くなった谷沢永一さんと私は、『論語』をはじめとするさまざまな古典的な名著についての対談を三十年近く続け、二十数点の対談本をつくりました。」

この「二十数点の対談本」というのが気になります。
とりあえずは、古典的な名著にかぎらずに
お二人の対談本を列挙。


「人生は論語に窮まる」(PHP)
「人生に活かす孟子の論法」(PHP)
「平成徒然談義」(PHP)
「人間は一生学ぶことができる 佐藤一斎『言志四録』にみる生き方の智恵」(PHP)
「老子の読み方」(PHP)
「名将言行録 乱世を生き抜く智恵」(PHP)
「孫子 勝つために何をすべきか」(PHP)
「人生後半に読むべき本」(PHP)
「人生を楽しむコツ」(PHP)
「現代流行本解体新書」(PHP)
「『宗教とオカルト』の時代を生きる智恵」(PHP)
「人生行路は人間学」(PHP)
「人生の難局を突破し、自分を高める生き方」(PHP)
「上に立つ者の心得 『貞観政要』に学ぶ」(到知出版社)
「修養こそ人生をひらく 『四書五経』に学ぶ人間学」(到知出版社)
「組織を生かす幹部の器量 宋名臣言行録に学ぶ」(到知出版社)
「『聖書』で人生修養」(到知出版社)
「三国志 人間通になるための極意書に学ぶ」(到知出版社)
「いま大人に読ませたい本」(到知出版社)
「『菜根譚』の裏を読む」(ビジネス社)
「詠う平家殺す源氏」(ビジネス社)
「現代用語の基礎理解」(ビジネス社)
「封印の近現代史」(ビジネス社)
「禁忌(タブー)破りの近現代史」(ビジネス社)
「広辞苑の嘘」(光文社)
「拝啓韓国、中国、ロシア、アメリカ合衆国殿」(光文社)
「こんな『歴史』に誰がした」(クレスト社)
「歴史が教える人間通の急所」(潮出版社)

「読書談義 読書連弾・読書有朋」(大修館書店)


どうぞ、他にもあるようでしたなら、
お知らせください。
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影をひそめた。

2012-11-02 | 本棚並べ
渡部昇一・谷沢永一両氏の対談は
けっこう出ているようです。それなのに、
私は数冊しか読んでいないので、選びやすい。
ということで、私のベスト3。


まずは、「読書談義」(大修館書店)
これには、読書連弾と読書有朋とが一緒になっております。
忘れがたいのは、最初の方にでてくるこの箇所。

谷沢】 さきほどの、『伊勢物語』ならこれだという、そういう言い方でカチッと一つの大切なものを評価するというのが、前世代の学者の共通点でして、釈迢空の論説なんかいつもその点でくるわけですね。それが現在はどうも影をひそめたような感じがします。
渡部】 公平に並べてみて・・・
谷沢】 ええ、公平、公平。(笑い)
渡部】 受験生的な態度ですね。受験だと無難な答案書かなきゃ点を引かれるという恐れがあるから、一つの説にコミットできないわけですね。
谷沢】 ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。(p28)


うん。これだという本を
私は、いまだ読んでいないのでした。
まあいいか、つぎいきましょう(笑)

「広辞苑の嘘」(光文社)。
最初のページの写真が載っているのでした。
お二人して歯をみせて笑っている。
うん。読み終わってから、この写真を見るといいんですよね。


最後は、「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)が
思い出されます。 
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セネカの時代。

2012-11-01 | 地域
渡部昇一著「賢人は人生を教えてくれる」(到知出版社)に
こんな箇所がありました。

「私は機会を求めて山形のあつみ温泉にある萬国屋(ばんこくや)に親類を集めて宴会を開き・・・」(p69)

そうだ。丸谷才一氏も渡部昇一氏も山形県出身。
それにしても、あつみ温泉って、どこいらなんだろうなあ。
なんて、ついつい気になったりします。

それはそうと、
この本から引用。

「・・ところが、読書は違うと谷沢先生はいいます。
『読書に限っては自動的に事を運んで済ますわけにはいかない。それぞれ自分に適する速度にしたがって、活字を確かめながら順に追ってゆくのであるから、よほど精神力の緊張を要する』
これは確かに、大いにあり得ることです。一時間、本を読むというのはかなり大変です。テレビを見て過ごす一時間とは訳が違います。したがって、テレビと読書を比べてどちらが無意識に時間を浪費しやすいかといえば、読書よりはテレビをはじめとする現代のアミューズメントのほうだといえるでしょう。これはセネカの時代でも同じだったはずです。」(p59)

10月31日は、朝の6時ごろも、満月がくっきりと見えておりました。
うん。用事で、めずらしくそのころ起きだしておりました。
秋の読書が、実りあるものになりますように。
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