和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

この詩人の眼に見える秘密。

2018-05-13 | 古典
谷川俊太郎と道元とを
むすびつけたい気持がある。

うん。だからといって、
谷川俊太郎の本を読む気にもならない(笑)。

こういうときは、
横着をすることにして、
まずは、まわり道。

田村隆一の詩に

「ニューヨークのイースト・ヴィレッジにある
安アパートをぼくは訪ねて行った」

と、詩人の部屋に出かけた詩があります。

「ぼくには詩人の英語が聞きとれなかったから
部屋の壁をながめていたのだ
E・M・フォースターの肖像画と
オーストリアの山荘の水彩画
この詩人の眼に見える秘密なら
これだけで充分だ
ヴィクトリア朝文化の遺児を自認する『個人』と
オーストリアの森と
ニューヨークの裏街と」

(詩集「新年の手紙」のなかの「水銀が沈んだ日」から)

ここに
「この詩人の眼に見える秘密なら
これだけで充分だ」とあるのでした。

ここから、
谷川俊太郎の「眼に見える秘密」を
おもむろに持ち出すわけです(笑)。

参考にするのが1973年「ユリイカ」臨時増刊
「谷川俊太郎による谷川俊太郎の世界」。
その最後の「あとがき」の前に
ギャラリイと称して、
いろいろな写真があります。
彫刻とかの、絵画とか、室内とか、空の写真とか、
でして、そのなかに
良寛の書がありました。
道元の正法眼蔵にある「愛語」を
良寛の書で書き写したものです。

わたしは、それがいままで印象の片隅に
残っておりました。うん。もう40年過ぎています。

良寛には、「永平録を読む」という詩篇がありまして、
一部を、渡辺秀英氏の現代語訳で以下引用してみます。

はじまりは

「春はほぐらく 夜は更けて
 雨と雪とが 竹に降る。
 寂しさやらん すべもなく
 正法眼蔵 取りいだす。」

ところどころ省略して引用

「思えば昔 玉島の
 円通寺にて 国仙は
 正法眼蔵 示された。
 当時、うやまい 慕いつつ
 読ませてもらって 行った。
 無駄骨折りし 前非悔い
 師のもと離れ 行脚した。

 正法眼蔵 縁ふかく
 いたる所に めぐりあう。

 その折ごとに 参学し
 時折ひどく 責められた。

 知識に学び 経を読み
 はじめて眼蔵 ほぼさとる。
 
 ああ、今、諸説 入り乱れ
 玉石わかつ すべもなし。

 五百年来 捨てられて
 正邪をわかつ すべもなし。

 ああ、この潮流に 何をなす。
 乱れを痛むと 言うなかれ。
 
 よすがら涙 とどめなく
 正法眼蔵 濡れとおる。

 ・・・・・・」



はい。ここに

「正法眼蔵 縁ふかく
 いたる所に めぐりあう。」

とありました。
谷川俊太郎は、このくらいにして、
つぎには、大岡信と正法眼蔵の縁。


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夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった。

2018-05-11 | 詩歌
谷川俊太郎といえば、
ぼくは、まず詩集の題名が思い浮かびます。
その題名が「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」。

はい。この題名だと、
なんでも、綴れるように思えてくる
不思議な呪文のような言葉です。
ということで、詩よりも、どちらかというと、
わたしは詩集の題名が印象に残っておりました。


さてっと、
河合隼雄対談集「あなたが子どもだったころ」(楡出版)。
そこに谷川俊太郎との対談もありました。
そのはじまりに、こうあります。

谷川】 ・・・前にね、ぼくは子どものころに
母が死ぬのが怖くて・・・夜、一人で寝ていて、
茶の間に母がいるかどうかすごく心配になることがあった。

河合】 それは初めて聞きます。うんうん、
これで話のいとぐちが出てきた(笑)。

谷川】 ぼくは離れた座敷に一人で寝てんですけど、
なかなか寝つかれないんです。
うちの中はしーんとしている。
一つ部屋を隔てたところに茶の間があって、
母はいつも夜おそくまで起きて
繕い物かなんかしてるんだけども、
そのとき、ふいにそこに母がいるかいないか
ってすごく心配になってくるんです。

河合】 それでどうしました?

谷川】 寝床を抜け出して、
明かりがついている茶の間の障子を
そうっと開けてのぞくんです。
それで、母親がいると安心して
また寝るんですが、それを
今でもすごく鮮明に覚えていますね。


はい。この対談は、ここからが
肝心なのですが、ここまでにします(笑)。
肝心なことは、とかく抜け落ちて、
それは暗やみに吸い込まれる。
そこから、「二十億光年」へ思いを馳せる。

「夜中。茶の間にぼくは母がいるのを確かめたかった」
という鮮明な記憶が、時がたち、
いつのまにか詩人の中で、
「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」
と昇華されたとしても
なんら不思議はないなあと、
「僕は思わずくしやみをした」。




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バリアフリー仏教。

2018-05-10 | 本棚並べ
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」をひらく。
古本で単行本が安かったので、再購入(笑)。

ところどころカラーペンでラインがある。
でも、おかげで気楽にページがめくれます。
うん。楽しい再読を兼ねた一冊。

さてっと、
仏教に興味が出てきた私です。
司馬さんの仏教をひもとくには、
この一冊で展望がひらけます。

週刊朝日MOOK「司馬遼太郎と宗教」も
最近でておりますが、どちらかといえば、
私は、「以下、無用のことながら」です。

では、「以下、無用のことながら」から、
まず、最初はここを引用。

「やがて、学業途中で、兵営に入らざるをえませんでした。
にわかに死についての覚悟をつくらねばならないため、
岩波文庫のなかの『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、
音読しました。・・・・
『歎異抄』の行間のひびきに、信とは何かということを、
黙示されたような思いがしました。
むろん、信には至りませんでしたが、
いざとなって狼狽することがないような自分を
つくろうとする作業に、多少の役に立ったような気がしています。」
(p39~40・「学生時代の私の読書」)

うん。次に引用したいのはここ。

「1992年3月5日、コロンビア大学のドナルド・キーン
日本文化研究センターでの講演」
題名は「日本仏教小論ーー伝来から親鸞まで」。
そのはじまりの方にこうあります。

「日本仏教を語るについての私の資格は、
むろん僧侶ではなく、信者であるということだけです。
不熱心な信者で、死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を
拒否しようとおもっている信者です。
プロテスタンティズムにおける無教会派の信徒と
おもって頂いていいとおもっています。

ただ私の家系は、いわゆる『播州門徒』でした。
いまの兵庫県です。17世紀以来、数百年、
熱心な浄土真宗の信者で、蚊も殺すな、
ハエも殺すな、ただし蚊やりはかまわない。
蚊が自分の意志で自殺しにくるのだから。
ともかくも、播州門徒の末裔であるということも、
私がここに立っている資格の一つかもしれません。」
(p261)


「虹滅(こうめつ)の文学―――足立巻一氏を悼む」
という追悼文もこの本にはあります。
そのはじめの方からも引用。

「・・・手まわしよく自分の戒名まで用意していた。
『釈亭川』というわずか三文字の名である。
清雅なものであった。
戒名における院号や院殿号は江戸時代の大名に擬した
売買用の戒名で、日本の仏教界の俗風を象徴している。
むかしはふつう戒名はこのようで、二字に
釈迦の弟子という意味から、釈という一字がつく。
とくに浄土真宗はそうであった。足立家は、その門徒である。
しかしながら葬儀は、故人がすきだった須磨寺でおこなわれた。
須磨寺は真言密教で、霊前に、空海が秘経としていた理趣経が
唱誦された。・・・」(p493)

おかしいのは
「井伏さんのこと」という短文でした。
東京の青山斎場でのこと。最初の方を引用。

「・・かぞえると、三度になる。
三度とも、井伏さんがおられた。
三度目には、井伏さんのほうがたまりかね、
微妙に体をよじらせて、
『あなたとは、いつもここで会いますね』
といわれた。斎場の控え室でだけ会う男などというと、
私も井伏文学の登場人物になったような気がしないでもない。」
(p485)

「以下、無用なことながら」は、
宗教の観点から再読してみると、
無用ではない仏教の話が聞ける、
貴重な一冊となっていて有難い。


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一番大事なことがもう一つある。

2018-05-09 | 本棚並べ
今回、丸谷才一著「思考のレッスン」を再読して、
この箇所が、あらたに浮かび上がってきました。
レッスン3「思考の準備」にありました。

「しかし一番大事なことがもう一つある。
それは、まとまった時間があったら本を読むな
ということです。
本は原則として忙しいときに読むべきものです。
まとまった時間があったらものを考えよう。
・・・とにかく手ぶらで、ものを考えよう。
きょうは暇だから本を読もうというのは、
あれは間違いです。
きょう暇だったら、のんびりと考えなくちゃあ。
考えれば何かの方向が出てくる。
何かの方向が出てきたら、
それにしたがってまた読めばいい。
そして、考えたあげく、
これは読まなければならない本だとわかれば、
・・その必要のせいでおもしろく読めるんですよ。」
(p141)


さらに、レッスン4「本を読むコツ」の最後でした。
こう語られております。

「・・・僕の縄張り、僕の流儀で考えれば、
物語と年表とはどう違うかということが
頭に浮かんだかもしれない。たぶん浮かんだろう。
浮かんだに決まっている。そうでもないか(笑)。

とにかく、自分で考えることもしないで、
『何か本はないか』ーーこれがよくなかった。
何かに逢着したとき、大事なのは、まず頭を動かすこと。
ある程度の時間をかけて自分一人でじーっと考える。
考えるに当って必要な本は、
それまでにかなり読んでいるはずです。
頭の中にあるいままでの資産を使って考える。
それを僕は怠った。・・・・・
まず、じーっと考えて、ある程度見通しをつけた上で、
そこで本を読めばいい。
年表と最も対立するものは何か?
歴史という物語である。
そう思いついてから、その方向の本を読めばいい。
ですから、大事なのは本を読むことではなく、
考えること。まず考えれば、
何を読めばいいかだってわかるんです。」
(p182~183)


この箇所を、現在の私なりに、なぞってみると。
これはいつものことですが、
まず、私は、遅々として読むのは進まない。
それに反比例して読むよりも買う方が手軽で簡単。
手軽な古本注文に、あれよあれよと染まってます。
ネットに打ち込めば、早くて明日に届くたのしみ。
この誘惑。これはイケナイとブレーキをかける。
まあそれはそれ、購入した未読本にチャレンジ。

先頃、谷川俊太郎と父・谷川徹三とのつながりに
私は興味をもちました。けれども、
案外に、谷川俊太郎論というのは、
古本でも高そうです。そう値段を出してまで、
読みたいとも思わないテーマでもあります(笑)。
そこで、寝ながら考えた。
そういえば、
谷川徹三の本を古本で少し買ったばかり。
あとは、河合隼雄氏との対談に
谷川俊太郎氏はよく登場しておりました。うん。
河合隼雄氏の対談集なら、本棚に揃っております。
さらに、大岡信氏の本は、選集が買ってあり未読。
櫂同人で、大岡信と谷川俊太郎とは同人でした。

この3点から、谷川俊太郎のホーム・グラウンド
を浮かび上がらせてゆけるのじゃないかと
目星をつけて、本棚にむかう。
適宜とりだしてきた本を並べて、
あとは読むだけ。
すぐ飽きる私に、
ちょうど飽きるまでの数冊が
手元にあったわけでした(笑)。

思い返せば、さいしょに、
私が現代詩に触れたのは、
谷川俊太郎と田村隆一です。
最初に触れた出合の感覚は、
いったいなんだったのかと、
振り返り蘇らせる好機到来。
そういえば、大岡信氏は、
昨年亡くなられておりました。
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何年か間隔をおいて読む。

2018-05-08 | 古典
丸谷才一著「思考のレッスン」を再読すると、
レッスン3(思考の準備)こんな箇所。

「自分が読んだ本で、
『これは大事だ』という本がありますね。
あるいは、一冊の本の中で、
『ここは大事だ』という章がある。
そういうものは、何度も読むことが大切ですね。
繰り返して読んだり、
あるいは何年か間隔をおいて読む。」(p135)


うん。「何年か間隔をおいて読む。」
というのが曲者で(笑)、
そのほとんどが、読み返さずに、
本の在処も忘れてしまう。

今回何年かぶりに読み返して、
ああ、そういうことかと合点したことがありました。

本のはじまりの方に、鶴岡出身の丸谷さんが
こう指摘しているのでした。

「たとえば、鶴岡は、江戸から明治にかけて、
全国に誇ることのできる二冊の名著を生んでいます。

一つは、元禄時代に書かれた『徂徠先生答問録』。
これは、鶴岡の侍である水野弥兵衛と疋田族の二人が、
荻生徂徠に質問状を出して、それに徂徠が答えたものを
まとめた本です。漢文じゃないから読みやすいし、
徂徠のものの考え方がとてもよくわかる素晴らしい本です。
ずいぶんいろんな質問をしてるんだけど、
それが実にいいんだなあ。・・・・
薄い本ですが、徂徠のエッセンスがつまっている。
読んでいて、荻生徂徠その人と
直接会って話を聞くような、気持のいい本です。」(p30)


はい。この「思考のレッスン」は
インタビューに答えてゆくかたちで進みます。
丸谷才一氏は、この本を現代版の
「徂徠先生答問録」とする心構えで臨んでいることが
今回読み返していて、思い浮かんできました。

レッスン3(思考の準備)に

「忘れてはならないものが、もう一つあります。
学者の書いた回想録、自伝、伝記、インタビュー、
これはその人のものの考え方がはっきりと出ることがあって、
とても参考になります。・・・」(p125)

「インタビューは、概してわかりやすいし、
ちょっとした言葉の中に深い意味が込められていて、
とても刺激的なんですね。
レヴィ=ストロースの『遠近の回想』という自叙伝も、
たしかインタビュー形式でした。
レヴィ=ストロースのお父さんは、売れない絵描きだったのね。
お父さんがキュビズムの絵を初めて見て帰ってきて、
家族にその話をしたんだって。
幼いレヴィ=ストロースはそれを聞いて興奮して、
これがキュビズムというものだろうという絵を
自分で想像してパステルで描いたというんです。

これを読んだとき・・・感心した。
そう言えば、彼の発想にはどこか絵画的なところがあるでしょう。
『生のものと火にかけたもの』とかいう例の分類など、
イメージがくっきりしていて油絵みたいな感じがする。
・・・・」(~p126)


うん。
以前に読んだときは、
もっと、他にも大事なことが
話されていると思えて、そちらへと私の興味が
いっていたのでした(笑)。




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仏壇も神棚もない家。

2018-05-04 | 道しるべ
谷川俊太郎の家には、
仏壇があるのだろうか?

という疑問に答えを暗示するような文が
ありましたので紹介。

そのまえに、年齢を拝見。
谷川俊太郎は1931年生まれ。
この年の生まれには
高倉健・山田洋二・山折哲雄・曽野綾子
八千草薫・・・(笑)。


さてっと、
谷川徹三の本を数冊、古本で注文し
それが届く。そのなかの一冊に

『愛ある眼』(淡交社)という興味深い本。
「谷川徹三著・谷川俊太郎詩・編」とあります。

帯には
「父、徹三は哲学の勉強をした人間だが、
息子の目から見るとどうも『真・善』よりも
『美』のほうが好きだったように思える。」

とある一冊。
わたしに興味深かったのは、谷川徹三の
『仏教のつながり』という4ページほどの文。

はじまりは

「私の生まれた家には仏間という一室があり、
そこには仏壇というものが置いてあった。」

次のページには

「今の私の東京の家のように、
仏壇も神棚もない家の空気とはちがっていた。
私の家にはいまいくつかの仏像がある。
いまこの文章を書いている書斎の床の間にも
六朝の小金銅仏が飾ってある。
しかしこれは信仰の対象としてではない。
鑑賞の対象としてである。」(p195)

徹三氏と宗教のかかわりは

「私の家の宗旨は浄土宗で、
父は晩年には、毎晩そのお仏壇に燈明をあげて
法然上人の一枚起請文をあげてよんでいた。」

もう一人登場します。

「そのころ私の町に別宅をもっていて、
暑い季節などにしばらく滞在していた母の伯母、
『安田の伯母様』というのが、これまたたいへんな
真宗の信者で、ほとんど口に念仏をたやさない
いう人であった。・・・・
この伯母はよく説教僧を家へ招いていた。
時には長いこと滞在させて、近隣の人たちに
その説教を聴聞させてもいた。
ところがそういう説教の最中によく居眠りをするので、
合理家の私の父がそれをひやかすと、
説教の功徳は毛穴からでもしみてはいると抗議をした。
これはあるいは昔の物の本にでも出てくる話で、
それも説教で教えられたことかもしれない。
私は今ではこの話をたいへん美しい話として
なつかしく思い出す。が、そのころは
『安田の伯母様』の笑い話の一つであった。」


ここからが、徹三と宗教が意識的に触れる箇所
なので引用します。

「そんな風で、中学を終わるまで私は信仰には無縁であった。
私はよく学びよく遊ぶ平凡で善良な生徒であった。
それが東京の高等学校へはいってから変わった。
私は自分というものについて、
ひいては人生というものについて、
考え、悩むようになった。
それにはそれでいろいろな理由があったのであるが、
何年かの模索や漂泊のあとで、
私は『歎異抄』によって、やっと
暗やみからはい出ることができた。
それには近角常観(ちかずみじょうかん)先生という
よい導師があったからで、先生を知ったことは
私には大きなしあわせであった。
先生の書物を読み、先生の『求道学舎』へ入れていただき、
朝夕先生に接しても、私の信仰は一向に進まなかった。
そして私はやがて勝手に自分の道を歩み出した。
しかし『歎異抄』を知らず、近角先生を知ることがなかったら、
当時の私はどうなっていたであろうかと
今もおりにふれて考えることがある。
・・・・」(p196)


やがて、順番で
谷川俊太郎氏も亡くなる。そうすると、
いろんな追悼文が出るのだろうなあ。
そんな中に、父・谷川徹三氏への言及がなければ、
わたしには、ちっとも興味が湧かないだろうなあ。
ホーム・グラウンドにたどりつけない谷川俊太郎論?

谷川徹三と谷川俊太郎と二代にわたる
『神棚も仏壇もない家』の系譜。
なんて題の文章を読みたい。
そんな興味が、私にはある。
どなたか書かれていないかなあ。
こういう、着眼点からして、私が
六十歳を過ぎたからかも(笑)。





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こんな対談を、僕は読んでみたかったんだ。

2018-05-03 | 道しるべ
飛鳥新社の新刊
「渡部昇一の世界史最終講義」は、
読んで損なしの一冊。
パラパラ読みから背筋伸ばして
再読を無理なくうながされる本。

髙山正之氏の、解説・対談で、
一人語りのまどろっこさなし。
明瞭に、焦点が絞られてゆく。
髙山氏の序章も素敵なら、
髙山氏の終章も文句なし。

こんな対談を読みたかった。
そんな高望みに応える一冊。

ということで、
渡部昇一の最終講義は、
最終講義で最高の入門書。
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朝日新聞『声』欄の、知らない世界。

2018-05-01 | 朝日新聞
朝日新聞の天声人語については、
坪内祐三氏のきめセリフがありました。

「『天声人語』イコール深代惇郎レベルの文章という
印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。
それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。」
(「考える人」p125)

つぎは、声は声でも
大声でも、天声でもなく、
『声』欄の投書について。
はい。『天声人語』の
次は、『声欄人語』。

新聞購読者の知らない
朝日新聞『声』欄の世界。

ということで、
新刊の「渡部昇一の世界史最終講義」(飛鳥新社)。
これは、髙山正之氏による解説・対談。
帯には、

「『知の巨人』の一周忌に、
名物コラムニストとの未発表対談を追悼出版
朝日新聞が教えない歴史の真実」

この最終章は髙山氏の文でした。
その最終章の全部は、読んでいただくとして(笑)。

私は、短く、ここだけを引用。
それは、過去の『声』欄への指摘の箇所。

「渡部先生がなぜ狙われたか・・・
似たようなケースは、それ以前にもあった。
例えば『ビルマの竪琴』で知られる竹山道雄は1968年、
米空母エンタープライズの佐世保寄港について、
朝日社会面で5名の識者の意見を紹介した中、
ただ一人だけ賛成した。
これに対して、朝日の煽(あお)りに乗せられた
感情的非難の投書が殺到し、『声』欄に続々と掲載された。
東京本社だけで250通を越す批判の投書が寄せられる中、
朝日は竹山の再反論をボツにして、
対話を断った形で論争を終結させた。
朝日の『声』欄の編集長は当時の『諸君!』に、
担当者の判断で投書の採用を選択するのは
どこでも行われていることと強弁した。
 ・・・・
朝日に逆らう者は許さないという思考が
朝日新聞にはある。
・・そのまま現在まで続いている。」
(p221)

この終章は21頁です。
その21ページでもって、
朝日新聞購読者の知らない朝日新聞の世界を紹介しており、
これだけでも、知っておいて損はありません。
感冒性情報操作対抗ワクチンとしての効果バツグン。
ワクチンといえば、
最後に「子宮頸がんワクチン」をめぐる朝日新聞の報道と
国際関係とを紹介して終わっております。
そして、髙山氏の文の最後には、こうありました。

  「渡部昇一先生の一周忌によせて」。
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