和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

お墓参りと「祖国とは国語」。

2018-08-16 | 古典
本棚から、山田俊雄・柳瀬尚紀対談
「ことば談議 寝てもさめても」(岩波書店・2003年)を
とりだしてくる。古本で買ったもの。
線をひいてある箇所をパラパラ読み。

そこに、こんな箇所もある。

山田】日本語の場合もそうなんだね。

柳瀬】そうです。

山田】だって、高等学校で漢文もやらない。古典もやらない。

柳瀬】そうなんです。

山田】どこに戻ってゆくべき古里をもつのかというと、
何もないわけですね。

柳瀬】ぼくらが、漢文がなくなった世代ですから、
もうほんとに徹底的に駄目ですね。

山田】無駄かもしれないけれど、やる必要があるんだね。
何が有用かということになってくるけれども。

柳瀬】それと、昔はわけが分からなくても、童謡とか、
いわゆる唱歌がありました。これが今、ほとんど
教えられないんじゃないでしょうか。

山田】あることはあるけど、古いものは外されたでしょうね。

柳瀬】わけは分からなくても、音として聞いて残ってるという、
そういう経験もぼくらの時代からほとんどなくなっています。
戦後のいわゆる民主主義といいますか。

山田】どんどん沈没していくわけだね。
分からないことを教えては意味がないという理屈が、
なぜ成り立つかというところも問題なんです。
分からないことは教えない方がいいと、
歌の文句を変えるでしょ。
ぼくらのときだって分って覚えたものじゃない、
勘違いして覚えても、途中で直ったものだ。

柳瀬】そうですね。
分らないことを教える方がいいんですよね。

山田】分りやすさの方が大事になると、
内容がなくなってくるんです。
内容がない方が子供は分ると思うんだろうけど、
それは駄目なんですよ。


藤原正彦のエッセイの題に「祖国とは国語」
というのがありました。

お墓参りをするように、国語参りに行く番です。
という気持ちをもって、お盆の後を過ごします。
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石井桃子講演録。

2018-08-15 | 本棚並べ
新刊で買ってあって、読まずに本棚に置いてあった本。
石井桃子著「子どもが本をひらくとき」(ブックグローブ社)を
とりだしてくる。題名の下には「石井桃子講演録」とあります。
単行本というより、冊子と呼びたい全63頁。

はい。一日講演を聞きに出かけたような気分になりました。
1984年(昭和59)77歳の時の講演です。

「私、目は片っぽほとんど見えませんし、
耳も片っぽはきこえません。ほんとにポンコツ人間で・・」

と講演の最初の方にあります。

「ノンちゃん雲に乗る」の
1949年大地書房の表紙絵が、カラーで載っていました(p15)
そこを引用。

「戦争中に『ノンちゃん雲に乗る』を書きましたが、
それもまったくの偶然でして、日本がもう旗色が悪くなって、
どういうふうにしてこの先、生きていくかというようなときに、
友達のために書いた本が、あの本だったのです。
私は書いた時には、子どもの本だとは思っていませんでした。
大人に読んでもらったのですから・・・、
男の友達が大勢いましたから、その人たちは戦争に行く、
いずれは死ななくてはならないかもしれない。
そういう人たちがよく私の家に、遊びにまいりました。
そこで、私なにかあなた方に本書いてあげますねって一章ずつ書いて、
そういう人たちが回し読みしていたのがノンちゃんだったわけです。
ノンちゃんを書きまして、将校だったり兵隊だったりした人たちが、
それを兵舎に持ち帰り、夜中、就寝時間中に、その本を、
その原稿ですね、クチャクチャのわら半紙みたいな原稿用紙に
書いたと思いますけれども、こっそり読んでっくれたのです。
兵隊というのはほんとうに非人間的な生活をしていたのですけれども、
『ノンちゃんを読んでいるときだけ、自分はその何時間だか人間になる』
と言ってくれた人があったものですから、
私はもうとても励まされて、とうとう次から次へと書いてしまいました。
戦争になりつつあること、そんな話なんかを書いていても、
どこの本屋さんも出してくれませんから、その原稿を持って、
あっちこっちお百姓をして歩いたりして戦争の終るまで、
それは原稿のまま私の手もとで眠っていました。」(p15~17)

うん。私は大人になってから「ノンちゃん雲に乗る」を
読んだのですが、その時感じたのは、これは誰が読むのだろうと
いう違和感みたいなものがありました。
この箇所を読んでようやく分かった気がします。

子どもの図書館についての言及に

「このごろの文庫に来る子どもたちは、長い話をきけない。
長い本は読めない。そして刺激の多い話でないとダメなのです。
そういうことは、その子どもたちがハタチになり、
三十歳になったときに、どういうことで現われてくるか・・」
(p38)

はい。私は
「長い話をきけない。長い本は読めない。」子どもでした。

40ページほどの講演です。読めてよかった。
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文芸時評から、偏向新聞時評への分岐点。

2018-08-14 | 詩歌
その昔。新聞には文芸時評なるものが掲載されていたそうです。
月刊同人誌等からピックアップされた秀作文芸の講評欄。
それがいつのまにか、新刊本の動向も含めるようになり、
そうして、今では文芸時評は絶滅危惧種なみのようです。

今ならその流儀発想が逆となり、メディア記事にたいしての
丁寧正確な新聞時評をオピニオン雑誌が掲載するようになる。

「正論」9月号のSEIRON時評は
評論家江崎道朗氏が書いております。

そのはじまりの方を端折って引用。
はじまりは

「日本のメディアはアメリカ大統領選挙での
ヒラリー候補の当選を『断言』し、見事に外した。
・・・・・・
要は偏向という話ではなく、そもそも取材体制が
お粗末なのである。個々に優秀なジャーナリストは
いるものの、肝心の米メディア自体が、
トランプ大統領から『Fake News(嘘の報道)』と
非難されるほど、政治的に偏向していて、
そのアメリカの偏った報道を邦訳するだけで精一杯
なのが、日本のマスコミなのだ。
多角的に報道しようと思うのなら、
トランプを支持するシンクタンクや学者たちの
議論も紹介すべきだが、それだけの見識と余力
(スタッフの増員など)がマスコミ側にあるとは思えない。

そこで出番なのが、・・オピニオン雑誌だ。・・
マスコミができない・・分析の価値を理解する有権者をいかに増やすか。
マスコミ批判から、価値あるオピニオン誌を支援する方向へ、
頭の切り替えが求められる。」
(p298~299)


ということで(笑)。
長田弘著「一日の終わりの詩集」(みすず書房)から
詩「新聞を読む人」の最後の7行を引用してみます。


     新聞を読む人  長田弘

  ・・・・・・
  ・・・・・・
 
  ・・・
  新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
  ことばを探しているのだ。目が語っていた。
  ことばを探しているのだ。手が語っていた。
  ことばを、誰もが探しているのだ。
  ことばが、読みたいのだ。
  ことばというのは、本当は、勇気のことだ。
  人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。


ちなみに、この詩「新聞を読む人」は
朝日新聞96年10月15日に掲載されました。

今なら、「すっと、目を上げた」その先に
オピニオン雑誌があるといえるのですが、その時に
「目が語っていた」、「手が語っていた」けれども、
詩は、オピニオン雑誌の存在を語ってはいなかった。




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横滑り情報からの着地。

2018-08-13 | 詩歌
雑誌Voice9月号の「著者に聞く」。
今回は大澤聡氏。著書の
筑摩選書「教養主義のリハビリテーション」
をとりあげておりました。

気になる言葉がありましたので引用。

「誰もが膨大な情報にアクセスできるようになった。が、
そこで得られるのはフラットに横滑りしていく情報の群れ
にすぎません。つまり、情報をどれだけ搔き集めてみても、
正しい縦のラインにはならない。」

「書籍の利点はメモ書きのような特殊な本でもない限りは、
一冊のなかである程度は体系化が意識されていることです。
ひと連なりの冊子体である以上、書き手にも読み手にも
軸が意識され、因果関係などがしっかりしている。

テレビや映画と違って、体験として受動的ではありえない
こともかえって強みですね。
読み進める速度を読者自身が自由にコントロールできるし、
飛ばし読みや読み返しが簡単にできる。
つまり、自分の必要と水準に応じてそれぞれのやり方で
接することになります。そのことも含めて、
コンテンツと自分との距離をつねに再帰的に考える。
それが主体を形成します。

だから、入口としてネットやテレビは有効ですが、
ある段階から先は書籍に移行しないと、
教養として着地しないんじゃないでしょうか。」
(p239~240)

う~ん。
「『現代との距離』を測定する回路がない」とか
「フラットに横滑りしていく情報の群れにすぎません」とか
「コンテンツと自分との距離をつねに再帰的に考える」とか
「教養として着地しないんじゃないでしょうか」とか

それぞれの言葉に、発信力があるなあ。
著者は1978年生まれだそうです。

「着地」という言葉からは、体操競技を思い浮かべます。
せっかくですから、最後は詩を引用。

   鉄棒(二) 村野四郎

 僕は地平線に飛びつく
 僅に指さきが引っかかった
 僕は世界にぶら下った
 筋肉だけが僕の頼みだ
 僕は赤くなる 僕は収縮する
 足が上ってゆく
 おお 僕は何処へ行く
 大きく世界が一回転して
 僕が上になる
 高くからの俯瞰
 ああ 両肩に柔軟な雲


そういえば、この体操詩集には
着地という言葉がなかった(笑)。
そのかわり
「彼には落下があるばかりだ」
という詩は、棒高跳び。

    棒高飛  村野四郎

  彼は地蜂のように
  長い棒をさげて駆けてくる
  そして当然のごとく空に浮び
  上昇する地平線を追いあげる
  ついに一つの限界を飛びこえると
  彼は支えるものを突きすてた
  彼には落下があるばかりだ
  おお 力なくおちる
  いまや醜く地上に顚倒する彼の上へ
  突如 ふたたび
  地平線がおりてきて
  はげしく彼の肩を打つ


注釈】マスコミの横滑り情報という地平線。
その「地平線がおりてきて、はげしく彼の肩を打つ」
というイメージが湧いてくるのでした(笑)。
言うは易く、着地は難しく。

リハビリテーションならば、
ひっくりかえりそうになって
地上に顚倒。受け身。着地。
う~ん。着地までには、
高度な身体訓練がいりそうです(笑)。


ということで、マスコミからの着地の技術。
というような題の本も読んでみたい。



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仏さまより、庭が好き?

2018-08-12 | 三題噺
庭の話ということで、
三冊の本を紹介することに。

 上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)
 篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社)
 「露伴全集」第三巻(岩波書店)


「庭と日本人」の「はじめに」は
こうはじまっておりました。

「ある年の暮の寒い日のこと、
一人のアメリカ人の友人を京都の寺に案内した。
大徳寺や龍安寺などのいくつかの寺をみたあとの
帰りの道すがら、かれはオーバーの襟をかきたてつつ、
わたしに質問してきた。
 『日本人は、仏さまより庭が好き?』
 『なぜ?』
と、問うわたしに、
『だって、たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ
仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって庭ばかり見ている・・・』
 ・・・・・
いわれてみるとそのとおりだ。
奈良の寺へいくと人は仏像を見るが、
京都の寺ではたしかにみな庭ばかり見ている。
かんがえてみると、奈良の寺にはあまり庭がない
から仏像を見るのはわかる。しかし京都の寺には
仏像があるのに人は庭ばかり見ている。」

これから、新書は始まっているのでした。

つぎは、幸田露伴が明治33年7月に書いた
『太郎坊』という短編小説のはじまりを引用。

「見るさへまばゆかった雲の峰は風に吹き崩されて
夕方の空が青みわたると、真夏とはいひながら
お日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる。
やがて五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光って見える、
その下を蝙蝠が得たり顔にひらひらと彼方此方へ飛んでいる。

主人は甲斐甲斐しくはだし尻端折で庭に下り立つて、
蝉も雀も濡れよとばかりに打水をしている。
 ・・・・・・

主人は打水を了へてのち満足げに庭を見わたしたが、
やがて足を洗って下駄をはくかとおもふと
すぐに下女を呼んで、手拭、石鹸、湯銭等を取り来らしめて
湯へいってしまった。・・・
やがて主人はまくり手をしながら茹蛸のようになって
帰って来た。縁に花ござが敷いてある。・・・
ほどよい位置に吊るされた岐阜提灯は涼しげな光を放っている。

庭は一隅の梧桐の繁みから次第に暮れて来て、
ひょろ松桧葉などに滴る水玉は夕立の後かと見紛うばかりで、
その濡色に夕月の光の薄く映ずるのは何ともいえぬ
すがすがしさを添へている。
主人は庭を渡る微風(そよかぜ)に袂を吹かせながら、
おのれの労働がつくり出した快い結果を
極めて満足しながら味わっている。」(p253~254)



ここから、小説ははじまってゆくのですが、
私が紹介したかったのは、ここまで(笑)。
つづいて、篠田一士著「現代詩人帖」。
そこで、篠田氏は谷川俊太郎の前に、
高橋新吉をとりあげておりました。
そのなかから、高橋新吉の詩と
その篠田氏の解説とを紹介して終ります。

では詩から、

「   霧雨   高橋新吉

 霧雨の しづかにふる朝
 幻しの犬が匍ひ歩いてゐる

 茶を沸かし ひとり飲めば
 姿なき猫が 膝にかけ上る

 ひとときの 夢の露地に
 竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く

 雲走り 夕となれば
 うつつの窓を閉ぢ ねやにふす  」


この詩を、篠田一士氏は、こう解説しています。

「『幻しの犬』、『姿なき猫』、『夢の露地』の
三つの成句に着目し、これを幻想詩といってみてもはじまらない。
つまり、『うつつ』の場にはありえぬ幻想風景の謂である。
さればといって、霧雨の降りつづく一日、詩人そのひとでも、
だれでもいいが、任意の人物を想定し、そのひとの心中を
横切った幻想の断片を唱ったものと考えるのは、
いかにもみみっちくて、この傑作詩篇には、もとより無縁だろう。

言葉をそのまま率直に読み、また、読みかえしてゆくうちに、
言葉がまことに融通無碍、夢と現(うつつ)の間を往き来し、
その間に、なんの障りもないことに、読むものは、思わず、
おどろきの固唾をのむ。

いわゆる詩的言語がつくりあげる言語空間なるものは、
日常的な場に対して垂直に屹立することを旨とし、
また、それを、なによりの身上とするけれども、
『霧雨』における詩的言語は、決して、垂直には運動しない。
それならば、水平の運動かといえば、かならずしも、
そうだとも言い切れない。
一見、水平のごとくみえるが、
その空間が、四方八方、無限に拡がっているのを知れば、
垂直に対する水平の場のもつ、せせこましい日常風景の有限性など、
ここでは論外だということは、いうまでもない。

しかも、この詩篇を形づくる詩的言語は、
ある一点を指し、そこで、ゆるやかな運動をつづけるかと想わせながら、
瞬時のうちに、無限の彼方から、また、別の無限の彼方へと疾走し、
あるいは、また、その逆をくりかえしているのである。」
(p173~175)

次は、縁側に座ってお寺の庭を眺めながら、
この三題噺を、考えてみたくなるのでした。
坐禅もせず。庭掃除もせずの横着な発想(笑)。
しかたない、これが私です。





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永久保存版。

2018-08-11 | 本棚並べ
本棚から雑誌を取り出す。
2007年「諸君!」10月号。

表紙の左上に、こうあります。
「永久保存版『私の血となり、肉となった、この三冊』」
脇には、「読み巧者108人の『オールタイム・ベスト3』」
とあります。

はい。雑誌を取り出すまで、すっかり忘れてました。
ちなみに、読売新聞の切り抜きがはさんであります。
切り抜きによりますと、
2009年5月発売の6月号で月刊雑誌「諸君!」休刊
することに決まった。とあります。
記事からすこし引用。

「『諸君!』は1969年5月創刊。
当時の池島信平社長の
『日本人として恥かしくないこと、
そして世界のどの国にも正しく通用すること
をどしどし盛り込んでいきたい』≪創刊の辞≫
という信念から生まれた。・・・」


もどって、永久保存版からの引用。
呉智英氏は、そのベスト3の一冊目に
足立巻一「やちまた」をもってきて、
こう書いておりました。

「足立巻一『やちまた』は、1974年の刊行から
ほどなくして読んだ。28歳の無学な若造としては、
どう表現していいかわからなかったが、強烈な印象を受けた。
たぶんそれが今の〈まちがった人生〉への第一歩だったのだろう。
もう堅気には戻れないと覚悟を決めた。後に、若い連中に
『先生、何か夏休み中に読むような本はありませんか』
と問われると、必ず『やちまた』を挙げるようになった。
薦められた彼らの十人に九人は、挫折しました、
と恥ずかしそうに答える。挫折してよかったよ、
あんなものを面白いと思えてしまったら、
取り返しのつかない人生を送ることになるんだから、
と、彼らの前途を祝福することにしている。
本居春庭だの、鈴木アキラだの、富士谷成章だの、
谷川士清だの、江戸時代の国学者ばかり出てくる本が、
面白いはずがないではないか。でも、
私は寝食を忘れ、没頭して読了した。・・・」(p232)

はい。私は挫折組です(笑)。

今回読み返して気になった人は、
長谷川三千子さんでした。
以下に全文引用してみます。

「アンケートを受けるたびに、
アンケートそのものにケチをつけ、皮肉りたくなる、
といふのは私の悪癖の一つである。
山羊ぢやあるまいし、『私の血となり肉となつた三冊』
だなんて、どこの馬鹿が考へ出した台詞だ?
―――そう呟きながら、すぐに頭に浮かんだのは、
道元の『正法眼蔵』である。
道元と言へば、日本の曹洞宗の開祖として有名な人
であるが、彼が自らの思想をつづつた主著『正法眼蔵』は、
言ふならば、書物は人の血肉とはなり得ない、
といふことをはつきりと語つてゐる書物である。
師資相伝の仏法の教へは、生身の人間から人間への
皮肉骨髄の受け渡しであつて、文字による伝達などではない、
といふのが彼の一貫した考へである。したがつて、
彼が『参学すべし』と言ふときも、それは本を読んで
あれこれ知識を手に入れろといふことではなくて、
ただ自らの心身を挙げて修業せよといふことなのである。
それを彼は『只管打坐』(ただもつぱらに坐禅せよ)と
いふ言ひ方でも語つてゐる。

ところが、その『正法眼蔵』を、
この四十年間、私はただもつぱらに読んできた。
頑として一度も『坐る』ことなしに、
ただひたすら読んできたのである。
何故、と問はれたらば、
結局のところただの天邪鬼としか答へやうがない。

世の中によくある、出家をするつもりもなしに
ただ『教養』として坐禅を組んでは、なにか
もつともらしいことを語る人々を、
いやらしいと思ふ気持のあることは事実であるが、
それだけでは答へになるまい。

少し格好をつけて言へば、
道元自身が、書くことによつて
書かれた言葉の限界を超え出ようとしてゐる
―――その不可能への挑戦を、
不可能への挑戦として受けとめるために、
ただもつぱら『読む』といふ仕方で
この本にあひ対してきたのだ、とも言へる。

実際、さういふ不可能への挑戦でないやうな書物など、
紙とインクと時間の浪費以外のなんであらうか!」
(p256)


はい。『永久保存版』をすこし開いた後に、
また、雑誌を本棚に戻し保存しておきます。



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足立巻一の流儀。

2018-08-10 | 本棚並べ
涸沢純平著「遅れ時計の詩人」(編集工房ノア・2017年)。
副題は「編集工房ノア著者追悼記」。
古本で購入。
パラパラめくっていると、
足立巻一氏の追悼文がある。

「エッセイ集は、『人の世やちまた』と名付けられ
足立さんの四十九日忌、9月29日に間に合わせた。」(p129)

そういえば、本棚の未読本に
足立巻一著「人の世やちまた」(編集工房ノア)があった。
はい。この機会に最初から読むことができました。
ということで、「人の世やちまた」から引用。
そのまえに、編集工房ノアさんは題名で損しているような
気がします。「遅れ時計の詩人」にしても「人の世やちまた」
にしても、私はこの題名なら読む気がしませんでした。
たまたま、追悼記とあり、あとは名前が足立巻一だから
いつか、読もうとなったのでした(笑)。

では、「人の世やちまた」から、
この箇所を引用。

「わたしの後半生は、敗戦直後の大阪梅田界隈から始まったと思っている。
昭和21年末、天職とも信じていた中等教員の職を捨て、夕刊新大阪という
新興新聞社の新米記者となった。すでに32歳で、家には母と妻とふたりの
子があり、生活は苦しく、しかも新聞に格別の抱負や自信があるわけでは
なかった。・・・・
編集局の空気はわたしはいつまでたってもなじめなかった。
仕事も一向に慣れず、ヘマばかりやり、いつもおどおどして時を過ごした。
・・・・そうした新聞社勤めで救われたのは、編集局の幹部がみんな
下っ端のわたしをも差別せずに、むしろ庇い労わってくれたことである。
・・・・
ことにこの時期、井上靖に親しくしてもらったことは、
痛撃のような影響と恩恵とを受けて終生忘れ得ない。」


ここからでした。

「井上靖を知って自分など到底小説なんか書けないと断念した。
そこからのちに、わたしは考証と記録に向かうようになる。
二十二年の暮れ、毎日新聞社の近くに急造二階建ての
尾崎書店という小さな本屋ができた。・・・
井上はその相談を受け、神戸の詩人竹中郁とともに
子どもの詩雑誌『きりん』を発行するようになり、
わたしも編集を手伝わされた。新聞社の帰りには、
井上もわたしも必ず尾崎書店に立ち寄った。
そこにはきまって竹中郁や朝日新聞論説委員坂本遼がいた。
わたしたちは風呂に入れてもらい、
闇市で仕入れた牛肉のスキヤキをご馳走になり、
夜遅くまで放談した。井上の戦後詩篇や小説『猟銃』は
その席でナマ原稿のまま読ませてもらった。そして
わたしは井上の才能にますます感服し、
同時に自分の才能に絶望した。
この『きりん』によって井上に一層親密に兄事し、
というより始終つきまとった。
ずいぶんうるさかったことであろう。
二十三年末、井上が東京へ移っても、
わたしは出張で上京するごとにその下宿や
大森の家に泊めてもらった。
迷惑千万だったにちがいない。・・・」
(p137~141)

もどって「遅れ時計の詩人」にある
足立巻一氏追悼文には、こんな箇所があります。

「足立さんの没後、奥さんと話をする機会があった。
取材で頻繁に家を空ける足立さんに、奥さんがいくらか皮肉を込めて、
『そんなことまで、出かけないといけないのですか。
ふつうノリとハサミがあったらできる、というのとちがいますの』
と言われたという。
足立さんはその時、そんなふうに物を書いている人も
いるかもしれないが、わしにはできない、
取材をして書くのがわしの流儀だ、と言われたという。
あくまで現場取材主義で、足で物を書くことを徹底した。・・
足立さんの著作を読むと、そのことがよくわかる。
奥さんではないけれど、こんな些細なことまで、
あるいは傍流まで取材されているのかと驚く。
『お金は、残りませんでした』
と奥さんは笑われた。」(p126~127)

このあとに涸沢さんは、こう記しております。

「校正作業をしていて、足立さんの文章の一字一句を
なぞっていくと、足立さんの呼吸が伝わってきて、
私の中に、いくつか想うことが生まれ、
足立さんが私の中に入ってくるような気がした。

私が校正をしていてまず思ったことは、
何も書くということを難しく考える必要はない、
自分が書きたいと思うこと、書けることを書けばいいのだ、
その中から自分を発見していけばよいのだ、ということだった。
 ・・・・・
また、あらためて思ったのは、
足立さんの文章のわかりやすいことであった。
難解なところは少しもない。
思わせぶりや、奇をてらったところ、歪曲もない。
文章は呼吸のままの自然体であり、読み進むと、
こちら側の呼吸が足立さんの文章の呼吸に知らないうちに
重なっている。無駄はなく、あくまで的確でありながら、
深い味わいがある。
それになんともいえぬ文章から伝わってくる温かさは、
足立さんの人柄であろう。芸術性を目指した文体ではないが、
これは文章としてのひとつの到達だろう。
・・・・
下手でもかまわない。何も上手に書く必要はない。
自分の思うことを、人にわかるように書けばいいのだ、
と思うと、救われた気持ちになった。」
(p128~129)

はい。この追悼文を読んでからだと、ひきつづいて、
単行本「人の世やちまた」がスラスラと読めました。
ありがたい。足立巻一が読めるようになった(笑)。

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ソッケない振りをする癖。小林秀雄。

2018-08-09 | 絵・言葉
小林秀雄について書いた、
安岡章太郎の文を思い浮かべたので引用。
それは、佐々木基一と小林秀雄と安岡章太郎の
三人でロシアへ出かけた際の印象を綴っている文でした。

「・・・もっとも小林さんは、興味のあるものに出会っても、
はじめはソッケない振りをする癖があるらしく、
ロシアの絵画にしても最初はまるで軽蔑し切ったように
言っておられたのが、だんだん変り、最後には佐々木さんに、
『きみ、ロシアっていうのは美術評論のアナだよ。
きみの年なら、いまからでも狙っておいて損はないね』
などと囁かれるようになったりした。」

具体的には、エルミタージュ美術館へ行く場面を
安岡章太郎氏は、再現されております。
では、その個所を引用。

「実際、小林さんはロシア人の絵画の鑑賞力にも
大いに疑惑的で、レニングラードの美術館
エルミタージュへ出掛けるときも、
『どうせ田舎の大尽がヨーロッパへ行って、
つかまされて来たものだろうから、むやみに
数ばかりたくさんあっても、見られるやつは
いくらもありゃしないだろうョ』
とうそぶくように言っておられた。
私自身は外国でそのまた外国の絵を見ることに
馬鹿々々しさを感じていたので、美術館へは
招待客としての義務感からアルバイトのつもりでついて行った。
エルミタージュというのは、
部屋から部屋へ渡り歩く距離だけで数十キロ・メートル、
駆け足で走っても数時間を要するという巨大なシロモノだから、
これは実感だった。私は出来るだけサボるつもりで、
中庭の屋上庭園のベンチでタバコばかり吹かしていた。
しかるに小林さんは美術館の中に入ると、
まるで人柄が変ってしまった。
皮膚も唇も干からびたように、へとへとになって
ベンチへやって来たかと思うと、
タバコもろくに吸わないうちに、また飛び出して行く。
そして案内者が、そろそろ引き上げましょうと言ってからも、
『もう一と部屋、近代フランス絵画の部屋をあけてくれるそうだ』
などと、その場を動こうともしないのである。
それは山へ這入った猟犬の本能とでも言うような執念深さであり、
・・小林秀雄の『我』がなまぐさい程に漂っていた。・・・」

(「小林秀雄全集別巻Ⅱ批評への道」新潮社・昭和54年)



言葉から絵画までの道のり。あるいは、絵画から言葉までの道のり。
屋上庭園で安岡さんは、そんなことを思っていたのかなあ(笑)。
ちなみに、小林秀雄年譜によりますと、
昭和38年(1963)6月にソ連作家同盟の招きにより
ソビエト旅行に出発とあります。
「皮膚も唇も干からびたように、へとへとになって」
いた小林秀雄氏の年齢は当時61歳。

安岡章太郎氏は、文の最後に、
「美術館を引き上げていく小林さんの顔を見ながら」
敗戦の翌年にリュックをかついで帰って来た
安岡氏の父親の顔をだぶらせておりました。
ということで、安岡氏の文章の最後を引用。

「疲労しきった小林さんの足取りや体つきの全体が、
襟章のない軍服姿の父が玄関のまえで突っ立ったまま
私たちを見ていたときの様子にそっくりだったのである。」


う~ん。安岡章太郎は大正9年(1920)生まれ。
一方の、小林秀雄は明治35年(1902)生まれ。
安岡氏にとっては、ご自身の父親世代と一緒なのですね。

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言葉では、表現し得ないものが、絵画では。

2018-08-08 | 絵・言葉
せっかく、高橋新吉が登場したので、
高橋新吉著「すずめ 美術論集」全10巻をひらく
(4巻目が欠だったので、さっそくネット注文)。

昭和36年から昭和45年までの
高橋新吉氏の美術巡り。美術館とか画廊とか
それに、院展とか日展とかの各展覧会評。
目次のあとに、図版が5~60頁あり、
ほぼ白黒写真なのですが、それをパラパラとめくる楽しみ。
ほぼ一年に一冊。高橋新吉氏が覗いた絵画からの
選択を並べて見せてもらっている嬉しさ。

すこし言葉を引用。
一巻目のはじまりは「正倉院展をみて」。
そのはじまりの言葉は、

「千二百年といっても、人間を縦に二十人ほど、
ならべただけの時間に過ぎないのだから何も、
古いとか、変わっているとか言っても、
悠久な時間の流れに比ぶれば、些末な、微小な
問題になってしまうが、天平勝宝年間に正倉院が造られてから、
早くも十年目に、恵美押勝が、武器類を持ち出したという。
それからも、売り飛ばしたり、盗まれたりしたものもあるが、
ともかく、治承四年に、東大寺が焼けたときにも、焼けず、
この間の空襲にもあわずに、一万点にも及ぶ宝物が、
そのまま原型を保っていることは、どのように考えても、
これを、見ない方がよいとは言えぬのである。・・・」

第二巻のはじまりは「絵を見るよろこび」。
そのはじまりの言葉は

「この数年、毎日のように、絵を見て歩いてきたが、
最近、絵を見ることに対して、以前ほど、興味も感動も、
覚えなくなった。私が老人になって、視力が衰えたせいもあるが、
他人の描いた絵を、忠実に見て廻っても、足がだるくなるだけで、
あまり得るところはないという結論に達しているのである。
それと、最近私が考えている事は、目で見るということは、
人間の動作の中の、一つの事柄に過ぎないので、
盲目でも生きておれるということは、たしかな事実だからである。
眼の筋を、無暗に緊張させて、物を見たところで、
それが何だというのであろう。
だから、画家にとって、大切な事は、物を見ることではなく、
どのような考へで、生きているかという、画家の心の問題だと思う。
・・・・」

はい。この文は、興味深いので、もう少し引用。

「私は、物を見ることに興味を失っているが
わたしとおなじような人が、画家の中にも、
ありはしないかと思って、他人の絵を見るのである。
同感し、納得する絵を見ることは、よろこばしい事である。
それが、過去の人でも、同時代の人でも、その作品によって、
判断することが、できるからである。
言葉では、表現し得ないものが、絵画では、微妙に、
表現されている場合があるのである。
人間の考えは、その人の肉体的動作に、集約されて、
出てくるからである。色の選択、画面の構成に、
その人の全思想が表われる。
それに対して、反撥するか、肯定するかは、
見る側の自由である。・・・」


ちなみに、「すずめ 美術論集」を創刊した
昭和36年(1961)は高橋新吉60歳。
昭和45年「すずめ 美術論集」10巻目で終刊。

これを古本で買ったときは、
何か、つまらないなあと思ったのですが、
いまなら、私の読み頃をむかえた気がします。

無駄口ははぶき、駄作は黙殺して、こまめに絵画見て歩き、
一年一年を過ごしている高橋新吉の目を楽しめるのでした。
これもきっと、私が60歳を過ぎたからなのだろうなあ(笑)。

「還暦過ぎの気難しがり屋の美術巡礼の書」と、
この本を、今の私は言ってみたい。

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「白い雲の下に」

2018-08-07 | 詩歌
今放送されているNHK連続テレビ小説「半分、青い。」。
その主人公は鈴愛(すずめ)という名前。
はい。雀からの連想。

曹洞宗檀信徒勤行経典は
正法眼蔵の簡潔な要約としてあります。

さて、その「修証義」の文中に
雀の文字がありました。

愛語のあと、利行を説明して

「窮亀を見 病雀を見しとき、
彼が報謝を求めず、唯単えに利行に催おさるるなり」

もう一箇所、修証義に雀があります

「病雀尚お恩を忘れず・・・報謝あり
 窮亀尚お恩を忘れず・・・報謝あり」


昨日は、高橋新吉の詩を引用しました。
高橋新吉には「雀」という詩集があります。
その表紙絵は、奥村土牛のカトレア。
うん。チンプンカンプンの詩集です。
はい。修証義の方が、わかりやすい。

さてっと、それはそうと、
わかるかなあ~。わかんねえだろうなあ~。
という、そんな高橋新吉の詩を引用。

  
  白い雲の下に   高橋新吉

 白い雲の下に
 雀が飛んでいる

 オレは百億年を
 ひとりで飛んでいる

 深い雪の中に
 鳩が死んでいる
 
 オレは一日に
 二千回は死んでいる

 遠い空の奥に
 烏が遊んでいる

 オレは一瞬に
 どの星にも遊んでいる



この詩「白い雲の下に」は
1980年9月1日朝日新聞夕刊に掲載されました。
掲載時、詩には絵がついておりました。
その絵は、有元利夫。その絵が、圧倒的で、
詩が分る分からない、そんなことはどうでもよくって、
もう有無を言わせない図柄で迫ってくる絵なのでした。

   
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「潮の女」

2018-08-06 | 本棚並べ
とりあえず、目にした高橋新吉を本棚から取り出す。
あったのに見つからない本もあり(笑)。


そういえば、古本で購入し、チラ読みした
高橋新吉著「潮の女」(竹葉屋書店・昭和36年)がありました。
表紙は橋本明治。口絵は奥村土牛・長谷川利行。
題名の「潮の女」は、こうはじまります。

「未一(みいち)は游いでいる魚を手で摑んだことがある。」

おわりの方を引用。

「未一は鯖になって游いでいた。
彼の腹の下を、鰭でクスグルものがあった。
鮪になった女が游いでいるのであった。・・・・
 ・・・・・
子供たちは、鰯になったり、鯨になったものもあって、
海洋を自由に游いでいた。・・・」

 「潮の女」の最後の一行はこうでした。

「彼女は黒潮の流れに、黒髪を浸して流れているのであった。」


青土社の「高橋新吉全集Ⅱ」の改題をひらくと
「潮の女」についての書かれておりました。

「1956年(昭和31)・・『新潮』の八月号に発表された。
 ・・反響は多々あった。少しく紹介すれば次の通りである。
まず読売新聞に物故まえの金子光晴が書いた。
『詩人で小説を書いている中に高橋新吉や草野心平がいるが、
小説家になってゆけるのは高橋ではないかと思う』
毎日新聞の文芸時評で平野謙が次のように批評した。
『独特の美意識という点では、高橋新吉の『潮の女』は
今月でもっとも印象に残った作である。年上の初恋の
女にまつわる半生の思い出みたいなものが題材だが、
その題材を処理する作者の手つきは、ある点でスキマだらけ
ともいえよう。だが一般の小説作法上スキマだらけという点を、
この作者は一向に気にしていない。
ウナギを食いかけて精神分裂する状態の描写や、
最後の結びで魚になった主人公たちの幻想的な描写
などにうかがえるこの作者の美意識はやはり読者の心を、
その深部においてとらえる力をもっている。』
『群像』の『創作合評』では山本健吉、山室静、小島信夫が
くわしく『潮の女』をとりあげていた。
神西清は、『それがふつうの散文家とは本質的に異った
緊密な粒子の波動をなして、潮流の緩急に拍節される
ひろがりある幽暗な一世界をみごとに形成してゐるのである。
主人公がしばしば自分や女を魚族として錯覚するのも、
かうして形成された世界のなかでは、むしろ一層
人間的な形成として受けとられるのだ』と書いた。
・・・・・」(p742~743)


はい。何かこの短編小説を読んでいるよりも、
その反響を読んでいる方が、よくわかるのでした(笑)。


「主人公がしばしば自分や女を魚族として錯覚する」
という表現はいいですね。
そういえば高橋新吉には詩集「鯛」(1962年・思潮社)が
あるのでした。せっかくですから、その詩集からも引用

    鯛    高橋新吉

 大きい鯛が
 花屋の店先に泳いでいた

 鯛は海でも陸でも同じであるのであろう

 硝子の飾窓の中で
 ダリアと菊の間を

 鯛は悠々と泳いでいた

 お前は誰も相手にすな
 お前ひとりしかいないのだから
 いつもお前自身に話すがよい

 大きな鯛の胴体が
 あじさいの葉のかげを揺れて行つた

 歴史はタタミ鰯の中に
 幾枚も折りたたまれている

 鯛の鱗がアネモネの葉に一枚ついた
 尾鰭がチュウリップの茎に生えている

 サボテンの刺はクリスマスの夜の仮面の帽子にさすべし

 お前は死んだ後のことを知りもしないのになぜ脅えるのか

 白い鉄砲百合や薔薇の花の匂う店先で
 鯛は大きい眼玉を開いて
 口をパクパクして泳いでいる



はい。夏は魚族のお話。
う~ん。それにしても、普通には
鮪みたいな女というのは
誉め言葉でしょうか
けなし言葉でしょうか。



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どのように扇を使えば。

2018-08-04 | 古典
昨年から道元の「正法眼蔵」を読もうとして、
そのままになっている私です(笑)。
とりあえず、
「現状公案」の最後にでてくる扇について。

まずは、「現状公案」とは?
というところから、いきます。

「・・・西有ボク山は、
『現状公案』巻こそ道元の教えの精髄であり、
『開山(道元のこと)御一代の宗乗は、
この巻を根本として説かれてある。
御一代の仏法はこの一巻で尽きる。
九十五巻(「正法眼蔵」全巻を意味する)は
この巻の分身だ。』とまで言い、
『現状公案』巻が道元思想を理解する上で
不可欠のものであるとした。」
(頼住光子著「道元の思想」NHK出版・p56)

はい。その現状公案の最後に
「仏家の風」という言葉がでてくるのでした。


その現状公案の最後の箇所の原文は

「麻谷山宝徹禅師、
あふぎ(扇)をつかふ
ちなみに、僧きたりてとふ、」


扇をつかう禅師というのですから、
夏なのでしょうね。
僧は、坐禅の修行をしていたのでしょうか?
師のところに来ると、師は「あふぎ」を使っている。

若い僧は、禅師に問いかける。

「『・・風性は常住にして処としてあまねからざるはなし
(風性常住、無処不周)。なにをもてかさらに和尚あうぎをつかふ』。
ある修行僧が、風の本性というのはどこにも常住していて、
周延していないところはないのに、なぜ扇を使うのですかと問うた。
風性常住なら扇を使う必要はない。
これはあまりにも単純素朴な観念論である。」
(p351・有福孝岳著「道元の世界」大阪書籍)


僧と禅師とのやりとりはカットして
最後の箇所の原文を引用。

『常住なればあふぎをつかふべからず。
つかはぬをりも風をきくべきといふは、
常住をもしらず、風性をもしらぬなり。
風性は常住なるがゆへに、
仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、
長河の酥酪(牛乳を加工して作った飲物)を参熟せり』。

この箇所を、有福孝岳氏は、こう読みます。

「仏風さかんなれば、大地は黄金となり、
長河は酥酪(そらく)となるという、
まことに詩的な名文であるが、しかし、
この大地を変じて黄金を現成せしめ、
長河を変じて酥酪となさしめるには、
各自銘々の、ささやかではあっても
真摯な修行が必要である。
その修行によって同時に天地を隔てるほどの
証果が現われるということで、
われわれは各自、どのように扇を使えば自らの風を生ぜしめるか
を一瞬たりともおこたらずに参学工夫しなければならないのである。
そこに修証一如としての行持道環の真面目がある。」
(「道元の世界」p352)


増谷文雄氏は講談社学術文庫「正法眼蔵(一)」の注解で

「最後に、麻谷宝徹禅師と一人の僧との問答をあげて、
悟りの実現のことは、結局するところ理論のことではなくて、
実践の問題であることを語って結びとするのである。」
(p57)



はい。名古屋場所の観客の団扇のパタパタからはじまって、
禅師の扇へと、夏のブログは、風をたどって思い浮かびました。








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何もかも吹き飛ばす「天上大風」。

2018-08-03 | 絵・言葉
風といえば、
良寛の天上大風という文字が思い浮かぶ。
ということで、
新潮社とんぼの本の「良寛さん」を
古本で購入。

表装された「天上大風」の写真から、
とんぼの本「良寛さん」は、はじまっておりました。

白洲正子さんも書いておりますので、
そのはじまりを引用。

「若い頃良寛の書がほしくて、ずい分探したことがある。
私の場合はなりふり構わず駆けずりまわって、
良寛良寛と呼ばわるのであるが、ある時
『天上大風』の書に出会って、釘づけになってしまった。
以来、良寛を探すことはふっつりあきらめたが、
大騒ぎをするかわりにあきらめるのも早いものである。
・・・・
『天上大風』が目の前に現れて、
何もかも吹き飛ばしてしまうのであった。
それほどはじめて見た時のショックは大きく、
いまだにそれはつづいている。」


短い白州さんの文の最後も引用。

「この書に接する時、
私たちは心身ともに軽くなって、
虚空に遊ぶような心地になる。
いつしか良寛の書は消えてなくなり、
ただ良寛の魂にふれる想いがするのである。」


はい。白洲正子の次は、
小林秀雄の「良寛の書」を引用。

真贋と題した小林秀雄の文はこうはじまります。

「先年、良寛の『地震後作』と題した詩軸を得て、
得意になって掛けてゐた。
何も良寛の書を理解し合点してゐるわけではない。
ただ買ったといふので何となく得意なのである。
さういふ何の根拠もないうかうかした喜びは
一般書画好き通有の喜びであって、
専門家の知らぬ貴重な心持ちである。
ある晩、吉野秀雄君がやって来た。
彼は良寛の研究家である。
どうだと言ふと黙って見てゐる。
・・・・
『いや、越後に地震があってね、
それからの良寛は、こんな字は書かない』
純粋な喜びは果敢無いものである。
糞ッいまいましい、又、引つ掛かつたか・・・」

とはじまる12頁の文。
うん。この文章だいぶ、元手がかかっており、
何とも、うらみつらみを晴らすような経過文(笑)。


うん。良寛の書を、
どう押さえたらよいのか?

思い浮かぶのは吉本隆明著「良寛」(春秋社)の序。
そこから引用。

「・・その墨書は、習字が学習から美の領域にまで
いりこんでいた近世後期では、知るひとには比類のない
評価をうけていたとおもえる。・・・・
儒家のある者は書家として江戸で知られていた。
書家ということは、南画家が画家とともに儒学者だったように、
詩文の造型家であり同時に儒学者でもあった。
良寛は資質的な傾向から儒学者でなくて、
自由な僧侶というべき在り方をたどった。
書家と僧侶とを兼ねた者は、おおむね制度のなかの禅の師家だった。
良寛はここでも制度の外にはみだした孤独な師家だったといってよい。
同派の僧堂は、故郷に隠棲した良寛を師家として認めなかったに違いない。
良寛も僧の形をしていても制度のなかの師家とは違う生き方をえらんでいた。

わたしたち現代のものからみても、
良寛は微妙なところで書家と僧侶の常道から外れている箇所がある。」

そして序の最後でこう指摘されております。

「わたしの推測では良寛の均衡した姿勢は、一見すると放縦なようで
実は厳密だった僧侶としての規範からきているとおもえる。・・・」



え~と何だったっけ。
そうそう。夏に風ということで、
昨日に続けてのブログでした。


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風を彫る。

2018-08-02 | 詩歌
暑いので、風が恋しくなります(笑)。

諫川正臣氏の詩を紹介。
長谷川昴氏の彫刻「風の子」をテーマにした詩のようです。

    風を彫る   諫川正臣
   
        長谷川昴先生に

 いたたまれなくなったとき
 少年はいつも裏山に登りました
 独りになりたかったのです

 裏山にはいつも風がありました
 麓に風のない日でも少しはありました
 風に吹かれていると心も静まります
 そのうち涙も乾きます

 目には見えない風ですが
 目をつぶれば肌に感じます
 そよぐ草木や雲の流れに風を見ます
 萎んでいた胸のうちがふくらんでいくようで
 山の峰を越えて行く雲は憧れでした

 いつからか
 目には見えない 風のようなものを
 かたちにしたいと思うようになりました
 ひたむきに 打ち込み 励み 腕を磨き
 やがて大樹となって夢をひろげます

 気といわれるものでしょうか
 人のなかにもたえず風が吹いています
 生きている証(あかし)のような
 さまざまな思いの風も

 木のなかに秘められた気を呼び起こそうと
 刻んで 問いかけ 刻んで 問いかけ
 木はふたたび生命をとりもどすのです
 鉈彫りの楠の木肌から大地の風が吹いてきます

 双手を突き出し
 風に向かって元気いっぱいの童子の像
 「風の子」
 かつての少年がそこにいました。


う~ん。
長谷川昴の彫刻「風の子」。
せめて、カタログでも見てみたいと
古本でデパートの展覧会のカタログを購入。
カタログの会期は1980年3月とあり、
日本橋三越本店画廊にてとあります。
まず、三越本店美術部の「ごあいさつ」から引用。

「鉈彫りの名手、現代木彫作家・・・
常に樟(くす)の木と相対座し・・・」

「ごあいさつ」の次には
谷川徹三の「長谷川さんの木彫」と題する文。
せっかくなので、その最初だけ引用しておきます。

「関東から東北にかけて数ある、鉈彫りと通称されている
仏像彫刻は、かつては何らかの理由で未完成のままに
終ってたものとされていた。それが今日では、
未完成なものでなく、その地方の文化の伝統を受けた、
特有の造形意志によるものとする見方が有力になって来ている。
・・・・長谷川さんはその鉈彫りの手法を現代に生かしている
数少ない彫刻家の一人である。・・・」


まあ、鉈彫り彫刻は、彫刻として、
ここでは諫川正臣氏の詩を引用したかったのでした(笑)。

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夏の詩の折り紙。

2018-08-01 | 詩歌
高田敏子著「月曜日の詩集」を古本で購入。
以前、高田敏子全詩集を、パラパラめくったことがあります。

古本の「月曜日の詩集」は、写真がありました。
そうか、最初は写真入りだったのだ。
おわりの方に、酒井章一氏が「あなたの詩を」と
題した文を載せております。そのはじまりは

「あなたの詩を、はじめて見せていただいたとき、
私たちは、この詩に写真をそえて、月曜日ごとの
『週間奥さまメモ』欄に組み入れていこうと、
少しのためらいもなくきめました。それは、
分かる詩でしたし、新聞にのせるのにふさわしい
詩だという自信のようなものを、
私たちに感じさせて下さったからです。・・・」

さてっと、詩を一篇引用したいと思うのですが、
まずは、そこにある写真の説明から、
庭か、道路わきか、家族で花火をしている写真です。
右に母親らしき人がしゃがんでいます。
その左に男の子が花火に火をつけて掲げています。
男の子の左には女の子が三人。
一番左は長女でしょうか、立って花火をみています。
長女の脇に三女らしき、小さい子がしゃがんでいます。
次女が真ん中で立ってみています。
背景は真っ暗で、花火の火と煙とがあり、
その花火がみんなを照らしています。

では、詩を引用。

    花火  高田敏子

 夏休みがきても
 もう どこへゆくあてもない

 娘や息子は
 友だちと海や山へゆくのを
 たのしむ年ごろになった

 湯上りの散歩もひとり・・・・

 いけがきの道をゆくと
 おもざしのよく似た兄妹が
 花火をかこんでいる
 かたわらに 母親らしきひとが
 マッチをもってほほえんでいる
 かつての私と子どもたちのように・・・


この詩を読むと、
夏に浮かぶ陽炎のように、時間の垣根をこえて
よその家族が、昔の自分と一瞬結びついておりました。
そんななかで、まるで時間を折りたたみ、
花火の図柄を、折りたたんだ色紙の右左で合わせたような
そんな端正さを感じさせます。

さてっと、この詩集の序を村野四郎氏が書いており、
村野氏が引用されている詩も、この機会に孫引きしておきます。


   布良(めら)海岸    高田敏子

 この夏の一日
 房総半島の突端 布良の海で泳いだ
 それは人影のない岩鼻
 沐浴のようなひとり泳ぎであったが
 よせる波は 
 私の体を滑めらかに洗い ほてらせていった
 岩かげで 水着をぬぎ 体をふくと
 私の夏は終っていた
 切り通しの道を帰りながら
 ふとふりむいた岩鼻のあたりには
 海女が四五人 波しぶきをあびて立ち
 私がひそかにぬけてきた夏の日が
 その上にだけかがやいていた


暑い夏の日に、端正なゆかたを着て
背筋を伸ばすような詩に出会えるようで、
こちらへも涼しい風が吹いてくるようです(笑)。



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