とりあえず、目にした高橋新吉を本棚から取り出す。
あったのに見つからない本もあり(笑)。
そういえば、古本で購入し、チラ読みした
高橋新吉著「潮の女」(竹葉屋書店・昭和36年)がありました。
表紙は橋本明治。口絵は奥村土牛・長谷川利行。
題名の「潮の女」は、こうはじまります。
「未一(みいち)は游いでいる魚を手で摑んだことがある。」
おわりの方を引用。
「未一は鯖になって游いでいた。
彼の腹の下を、鰭でクスグルものがあった。
鮪になった女が游いでいるのであった。・・・・
・・・・・
子供たちは、鰯になったり、鯨になったものもあって、
海洋を自由に游いでいた。・・・」
「潮の女」の最後の一行はこうでした。
「彼女は黒潮の流れに、黒髪を浸して流れているのであった。」
青土社の「高橋新吉全集Ⅱ」の改題をひらくと
「潮の女」についての書かれておりました。
「1956年(昭和31)・・『新潮』の八月号に発表された。
・・反響は多々あった。少しく紹介すれば次の通りである。
まず読売新聞に物故まえの金子光晴が書いた。
『詩人で小説を書いている中に高橋新吉や草野心平がいるが、
小説家になってゆけるのは高橋ではないかと思う』
毎日新聞の文芸時評で平野謙が次のように批評した。
『独特の美意識という点では、高橋新吉の『潮の女』は
今月でもっとも印象に残った作である。年上の初恋の
女にまつわる半生の思い出みたいなものが題材だが、
その題材を処理する作者の手つきは、ある点でスキマだらけ
ともいえよう。だが一般の小説作法上スキマだらけという点を、
この作者は一向に気にしていない。
ウナギを食いかけて精神分裂する状態の描写や、
最後の結びで魚になった主人公たちの幻想的な描写
などにうかがえるこの作者の美意識はやはり読者の心を、
その深部においてとらえる力をもっている。』
『群像』の『創作合評』では山本健吉、山室静、小島信夫が
くわしく『潮の女』をとりあげていた。
神西清は、『それがふつうの散文家とは本質的に異った
緊密な粒子の波動をなして、潮流の緩急に拍節される
ひろがりある幽暗な一世界をみごとに形成してゐるのである。
主人公がしばしば自分や女を魚族として錯覚するのも、
かうして形成された世界のなかでは、むしろ一層
人間的な形成として受けとられるのだ』と書いた。
・・・・・」(p742~743)
はい。何かこの短編小説を読んでいるよりも、
その反響を読んでいる方が、よくわかるのでした(笑)。
「主人公がしばしば自分や女を魚族として錯覚する」
という表現はいいですね。
そういえば高橋新吉には詩集「鯛」(1962年・思潮社)が
あるのでした。せっかくですから、その詩集からも引用
鯛 高橋新吉
大きい鯛が
花屋の店先に泳いでいた
鯛は海でも陸でも同じであるのであろう
硝子の飾窓の中で
ダリアと菊の間を
鯛は悠々と泳いでいた
お前は誰も相手にすな
お前ひとりしかいないのだから
いつもお前自身に話すがよい
大きな鯛の胴体が
あじさいの葉のかげを揺れて行つた
歴史はタタミ鰯の中に
幾枚も折りたたまれている
鯛の鱗がアネモネの葉に一枚ついた
尾鰭がチュウリップの茎に生えている
サボテンの刺はクリスマスの夜の仮面の帽子にさすべし
お前は死んだ後のことを知りもしないのになぜ脅えるのか
白い鉄砲百合や薔薇の花の匂う店先で
鯛は大きい眼玉を開いて
口をパクパクして泳いでいる
はい。夏は魚族のお話。
う~ん。それにしても、普通には
鮪みたいな女というのは
誉め言葉でしょうか
けなし言葉でしょうか。
あったのに見つからない本もあり(笑)。
そういえば、古本で購入し、チラ読みした
高橋新吉著「潮の女」(竹葉屋書店・昭和36年)がありました。
表紙は橋本明治。口絵は奥村土牛・長谷川利行。
題名の「潮の女」は、こうはじまります。
「未一(みいち)は游いでいる魚を手で摑んだことがある。」
おわりの方を引用。
「未一は鯖になって游いでいた。
彼の腹の下を、鰭でクスグルものがあった。
鮪になった女が游いでいるのであった。・・・・
・・・・・
子供たちは、鰯になったり、鯨になったものもあって、
海洋を自由に游いでいた。・・・」
「潮の女」の最後の一行はこうでした。
「彼女は黒潮の流れに、黒髪を浸して流れているのであった。」
青土社の「高橋新吉全集Ⅱ」の改題をひらくと
「潮の女」についての書かれておりました。
「1956年(昭和31)・・『新潮』の八月号に発表された。
・・反響は多々あった。少しく紹介すれば次の通りである。
まず読売新聞に物故まえの金子光晴が書いた。
『詩人で小説を書いている中に高橋新吉や草野心平がいるが、
小説家になってゆけるのは高橋ではないかと思う』
毎日新聞の文芸時評で平野謙が次のように批評した。
『独特の美意識という点では、高橋新吉の『潮の女』は
今月でもっとも印象に残った作である。年上の初恋の
女にまつわる半生の思い出みたいなものが題材だが、
その題材を処理する作者の手つきは、ある点でスキマだらけ
ともいえよう。だが一般の小説作法上スキマだらけという点を、
この作者は一向に気にしていない。
ウナギを食いかけて精神分裂する状態の描写や、
最後の結びで魚になった主人公たちの幻想的な描写
などにうかがえるこの作者の美意識はやはり読者の心を、
その深部においてとらえる力をもっている。』
『群像』の『創作合評』では山本健吉、山室静、小島信夫が
くわしく『潮の女』をとりあげていた。
神西清は、『それがふつうの散文家とは本質的に異った
緊密な粒子の波動をなして、潮流の緩急に拍節される
ひろがりある幽暗な一世界をみごとに形成してゐるのである。
主人公がしばしば自分や女を魚族として錯覚するのも、
かうして形成された世界のなかでは、むしろ一層
人間的な形成として受けとられるのだ』と書いた。
・・・・・」(p742~743)
はい。何かこの短編小説を読んでいるよりも、
その反響を読んでいる方が、よくわかるのでした(笑)。
「主人公がしばしば自分や女を魚族として錯覚する」
という表現はいいですね。
そういえば高橋新吉には詩集「鯛」(1962年・思潮社)が
あるのでした。せっかくですから、その詩集からも引用
鯛 高橋新吉
大きい鯛が
花屋の店先に泳いでいた
鯛は海でも陸でも同じであるのであろう
硝子の飾窓の中で
ダリアと菊の間を
鯛は悠々と泳いでいた
お前は誰も相手にすな
お前ひとりしかいないのだから
いつもお前自身に話すがよい
大きな鯛の胴体が
あじさいの葉のかげを揺れて行つた
歴史はタタミ鰯の中に
幾枚も折りたたまれている
鯛の鱗がアネモネの葉に一枚ついた
尾鰭がチュウリップの茎に生えている
サボテンの刺はクリスマスの夜の仮面の帽子にさすべし
お前は死んだ後のことを知りもしないのになぜ脅えるのか
白い鉄砲百合や薔薇の花の匂う店先で
鯛は大きい眼玉を開いて
口をパクパクして泳いでいる
はい。夏は魚族のお話。
う~ん。それにしても、普通には
鮪みたいな女というのは
誉め言葉でしょうか
けなし言葉でしょうか。