8月22日の産経新聞一面。
縦見出し「金足農 郷愁呼んだ昭和野球」。
横見出し「大阪桐蔭、2度目春夏連覇史上初」。
あれっと嬉しかったのは、
「金足」に「かなあし」と振り仮名がある。
それはそうと、その日の文化欄に
松岡正剛さん「千夜千冊エディション」と
松岡氏の写真入りである。
なにかとおもえば、
「読書通の間では有名な書籍案内ウェブサイト
『千夜千冊』を運営する編集者の松岡正剛さん(74)が、
同サイトを書籍として再構成した『千夜千冊エディション』
シリーズを角川ソフィア文庫から刊行した。・・」
(麿井真吾)
そこに
「読書行為そのものをテーマにした
第1巻『本から本へ』の冒頭には、
道元『正法眼蔵』・・・」
はい。さっそく注文しました。
なぜ、『本から本へ』のはじまりに
正法眼蔵を持ってきたのか?
ということに興味がある(笑)。
最近のことで思い浮かぶのは、長谷川三千子さん。
長谷川さんの本は未読積読本ばかりなのですが、
たとえば、
「神やぶれたまはず 昭和20年8月15日正午」
「正義の喪失」「民主主義とは何なのか」
「日本語の哲学へ」・・・
以上私は読まない癖して、とりあえず
最後の参考文献一覧を見ると、
そこに「正法眼蔵」という本はでてこない。
ところが、雑誌の特集(「諸君!」2007年10月号)
永久保存版「私の血となり、肉となった、この三冊」で
長谷川三千子さんは
「・・すぐに頭に浮かんだのは、道元の『正法眼蔵』である」
として一冊だけを丁寧に紹介しておられたのでした。
そのなかに「『正法眼蔵』を、この四十年間、
私はただもっぱらに読んできた。」とあったのでした。
ふ~ん。著書の参考文献には載らないのに、
「この四十年間、私はただもっぱらに読んできた」
という本とは、いったい、どう考えればよいのか。
文字通り「私の血となり、肉となった」一冊と
思えばよいのだろうか?
まあ、そんな興味から
松岡正剛著「本から本へ」(角川文庫)を注文。
その第1章「世界読書の快楽」のはじまりが
「正法眼蔵」からなのでした。
まず1ページ目に
「しかし困ることがある。道元を読みはじめたら
類書や欧米の思想書を読む気がしなくなることだ。
それほどに、いつも汲めども尽きぬ含蓄と直観が
押し寄せてくる。湧いてくる。飛んでくる。
深いというよりも、言葉が多層多岐に重畳していて、
ちょっとした見方で撥ねかたが異なってくる。・・・」
ここにも、「四十年」という言葉がでてきました。
「ある版元から『道元を書きませんか』とも言われている。
正直いって、とうてい書けそうもない。
なにしろ四十年にわたる密会の恋人なのだ。
思い返すと、最初に道元を読んだのは学生時代のこと
・・・・・
道元を読むと、そこに浸りたくなる。
その峡谷から外に出たくなくなっていく。・・」
何いってるのだか(笑)。
ともかくも、長谷川三千子も松岡正剛も『四十年』
ということは分りました(笑)。
キャッチコピーは松岡正剛氏の
『四十年にわたる密会の恋人』。
『密会の恋人・正法眼蔵』という読書がある。
はは~ん。密会の恋人を、わざわざ
自著の参考文献に出すことはありませんよね(笑)。
縦見出し「金足農 郷愁呼んだ昭和野球」。
横見出し「大阪桐蔭、2度目春夏連覇史上初」。
あれっと嬉しかったのは、
「金足」に「かなあし」と振り仮名がある。
それはそうと、その日の文化欄に
松岡正剛さん「千夜千冊エディション」と
松岡氏の写真入りである。
なにかとおもえば、
「読書通の間では有名な書籍案内ウェブサイト
『千夜千冊』を運営する編集者の松岡正剛さん(74)が、
同サイトを書籍として再構成した『千夜千冊エディション』
シリーズを角川ソフィア文庫から刊行した。・・」
(麿井真吾)
そこに
「読書行為そのものをテーマにした
第1巻『本から本へ』の冒頭には、
道元『正法眼蔵』・・・」
はい。さっそく注文しました。
なぜ、『本から本へ』のはじまりに
正法眼蔵を持ってきたのか?
ということに興味がある(笑)。
最近のことで思い浮かぶのは、長谷川三千子さん。
長谷川さんの本は未読積読本ばかりなのですが、
たとえば、
「神やぶれたまはず 昭和20年8月15日正午」
「正義の喪失」「民主主義とは何なのか」
「日本語の哲学へ」・・・
以上私は読まない癖して、とりあえず
最後の参考文献一覧を見ると、
そこに「正法眼蔵」という本はでてこない。
ところが、雑誌の特集(「諸君!」2007年10月号)
永久保存版「私の血となり、肉となった、この三冊」で
長谷川三千子さんは
「・・すぐに頭に浮かんだのは、道元の『正法眼蔵』である」
として一冊だけを丁寧に紹介しておられたのでした。
そのなかに「『正法眼蔵』を、この四十年間、
私はただもっぱらに読んできた。」とあったのでした。
ふ~ん。著書の参考文献には載らないのに、
「この四十年間、私はただもっぱらに読んできた」
という本とは、いったい、どう考えればよいのか。
文字通り「私の血となり、肉となった」一冊と
思えばよいのだろうか?
まあ、そんな興味から
松岡正剛著「本から本へ」(角川文庫)を注文。
その第1章「世界読書の快楽」のはじまりが
「正法眼蔵」からなのでした。
まず1ページ目に
「しかし困ることがある。道元を読みはじめたら
類書や欧米の思想書を読む気がしなくなることだ。
それほどに、いつも汲めども尽きぬ含蓄と直観が
押し寄せてくる。湧いてくる。飛んでくる。
深いというよりも、言葉が多層多岐に重畳していて、
ちょっとした見方で撥ねかたが異なってくる。・・・」
ここにも、「四十年」という言葉がでてきました。
「ある版元から『道元を書きませんか』とも言われている。
正直いって、とうてい書けそうもない。
なにしろ四十年にわたる密会の恋人なのだ。
思い返すと、最初に道元を読んだのは学生時代のこと
・・・・・
道元を読むと、そこに浸りたくなる。
その峡谷から外に出たくなくなっていく。・・」
何いってるのだか(笑)。
ともかくも、長谷川三千子も松岡正剛も『四十年』
ということは分りました(笑)。
キャッチコピーは松岡正剛氏の
『四十年にわたる密会の恋人』。
『密会の恋人・正法眼蔵』という読書がある。
はは~ん。密会の恋人を、わざわざ
自著の参考文献に出すことはありませんよね(笑)。