徳岡孝夫氏は、ベトナム戦争最後の一日を取材しました。
それが、「新潮45」2018年9月号の巻頭随筆で、
あらためて、1頁に語られていたのでした。
その時の取材をふりかえって、
「語る言葉を選んで語り、読者にありのままを伝える。
ジャーナリズムが成すべき仕事を私は成した。」
と、この巻頭随筆に記しております。
うん。思い浮かんだのは、
「紳士と淑女 人物クロニクル1980~1994」(文芸春秋・1994年)。
そこには「読者にありのままを伝える」のとは
正反対の事例を示す箇所があるので引用しておきます。
それは1993年8月号(93年6月)の「紳士と淑女」に
掲載された箇所。本ではp744~745にありました。
まず
「いま朝日新聞編集委員という肩書で、毎晩テレビ朝日系
『ニュースステーション』で久米宏の隣にすわって、
したり顔の解説などしている和田俊という男。」
久米・和田の二人の顔写真も、丸枠で載っております。
和田俊は元プノンペン特派員だった。
と徳岡氏はおもむろに書き始めます。
「1975年4月、ポル・ポト派がプノンペンを占領し、
その直後からカンボジア国民の大殺戮を始めた。
殺された者は百万とも三百万ともいわれる。・・・・」
朝日新聞記事を並べて、私なりの再構成。
1975年4月17日の大見出し
「カンボジア解放勢力米軍侵攻に耐えて、
旧敵のシ殿下とも結束」。
75年4月18日社説の題は
「プノンペンの戦い終わる」
75年4月19日夕刊に和田俊氏の記事が載ります。
題は「粛清の危険は薄い?」
(以下に、徳岡氏が引用したままに)
「和田は、
そのポル・ポト派を解放勢力と呼び、
次のように書いた。
『カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、
武力解放のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。
入場する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って
抱擁。政府権力の委譲も、平穏のうちに行われたようだ。
しかも解放勢力の指導者がプノンペンの【裏切り者】たちに対し、
「身の安全のために、早く逃げろ」と繰り返し忠告した。
これを裏返せば「君たちが残っていると、われわれは逮捕、
ひいては処刑もしなければならない。それよりも
目の前から消えてくれた方がいい」という意味であり、
敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれている
ようにみえる。解放勢力指導者のこうした態度と
カンボジア人が天性持っている楽天性を考えると、
新生カンボジアは、いわば【明るい社会主義国】として、
人々の期待にこたえるかもしれない。』」
このあとに、徳岡孝夫氏は、こう書きます。
「プノンペンにいずにプノンペンを見るがごとく書いた
この大ウソ記事がでたころには、すでの解放(!)勢力に
よる虐殺と処刑が始まっていた。首都に残った勇敢な
外国人記者たちも、フランス大使館構内に逃げ込んで、
わずかに難を避けたのである。」
もどって、朝日新聞の記事、
75年5月17日には
「解放勢力による大量処刑の情報がもっぱら米国筋から流された。
・・・しかし、これらの米国情報は、いずれも日付、場所などの
具体性に欠けている」と書いた和田の記事。
さらに徳岡氏は
75年6月8日夕刊の朝日の「素粒子」をも引用します。
「苦く思い出す、日本はかつて
ポル・ポト派政権承認国だった事実を。
国民の関心は薄かった」
このあとに徳岡氏は
「何を言うか。
『粛清の危機は薄い?』と見出しのついた
和田俊記者の前記記事・・・・・・
国を誤ったのは政府ではなく、
ポル・ポト派という『解放勢力』に
恋した『朝日新聞』である。」
もうすこし、徳岡氏の「紳士と淑女」から
引用させてください。
「カンボジア全土を覆った以後の流血を見て、
インドシナの戦争を取材した各社の元特派員は、
折りに触れて和田のこの大ヨタ記事を話題にした。
『あんなことを書いてしまったヤツは、
もう世間に顔向けできないだろうなあ』と
・・・・
その男が、いまニュースステーションの解説者となり、
その解説を茶の間の日本人はうなずきながら聞いていいるのである。」
はい。そして、2018年「新潮45」9月号。
巻頭随筆で、ベトナム戦争最後の一日を記す徳岡孝夫。
その同じ雑誌の特集が、「『茶の間の正義』を疑え」。
長くなりますが、この機会に、もう少し詳しく。
1975年カンボジアについての「紳士と淑女」の文を紹介。
「諸君!」1992年1月号(1991年10月)に
「カンボジアに平和が戻り、シアヌーク殿下は13年間の
亡命生活を終えてプノンペンに帰還した。・・・・・・
・・・・・
顧みれば1975年4月17日、ポル・ポト率いるクメール・ルージュ
は首都に入城した。解放(!)を喜ぶ人々は歓呼して彼らを迎えた。
国外のたとえば日本の『朝日新聞』も大いに喜んだ。
岩波書店発行の『近代日本総合年表』は、今なお恥ずかしげもなく
『カンボジア解放勢力、プノンペン占領』と記している。
ところが
人類史上に例の少ないほどの悲惨は、
この『解放』とともに始まった。
マルクス主義を字義どおりに信じ、
都会を資本主義の悪の巣窟と信じて疑わない解放者は、
全市民に即時農村への下放を命じた。
入院中の患者は点滴をつけたまま、
女は臨月の妊婦に至るまで、
地獄絵のような行列となって町を離れ、次々に死んでいった。
同時に資本主義分子の一斉処刑が行われ、
銀行は廃止されて札束は路上に捨てられた。
そして、その鬼のようなクメール・ルージュに世界で唯一、
強力な支援を与え続けたのは中国政府だった。
現在のカンボジアは、総人口に対する手足のちぎれた
肢体不自由者の比率が世界で最も高い国だという。
これは片や中国の武器援助を受けるポル・ポトが、
片やベトナムの傀儡政権であるヘン・サムリンが、
水田の中といわずジャングルといわず無数にばら撒いた
地雷の犠牲者なのである。
中国製の地雷とソ連からベトナムを経由して入ってきた地雷は、
平和に暮らしていたクメール人を無差別に殺傷した。
全くエゲツないことをしたものである。・・・」
それが、「新潮45」2018年9月号の巻頭随筆で、
あらためて、1頁に語られていたのでした。
その時の取材をふりかえって、
「語る言葉を選んで語り、読者にありのままを伝える。
ジャーナリズムが成すべき仕事を私は成した。」
と、この巻頭随筆に記しております。
うん。思い浮かんだのは、
「紳士と淑女 人物クロニクル1980~1994」(文芸春秋・1994年)。
そこには「読者にありのままを伝える」のとは
正反対の事例を示す箇所があるので引用しておきます。
それは1993年8月号(93年6月)の「紳士と淑女」に
掲載された箇所。本ではp744~745にありました。
まず
「いま朝日新聞編集委員という肩書で、毎晩テレビ朝日系
『ニュースステーション』で久米宏の隣にすわって、
したり顔の解説などしている和田俊という男。」
久米・和田の二人の顔写真も、丸枠で載っております。
和田俊は元プノンペン特派員だった。
と徳岡氏はおもむろに書き始めます。
「1975年4月、ポル・ポト派がプノンペンを占領し、
その直後からカンボジア国民の大殺戮を始めた。
殺された者は百万とも三百万ともいわれる。・・・・」
朝日新聞記事を並べて、私なりの再構成。
1975年4月17日の大見出し
「カンボジア解放勢力米軍侵攻に耐えて、
旧敵のシ殿下とも結束」。
75年4月18日社説の題は
「プノンペンの戦い終わる」
75年4月19日夕刊に和田俊氏の記事が載ります。
題は「粛清の危険は薄い?」
(以下に、徳岡氏が引用したままに)
「和田は、
そのポル・ポト派を解放勢力と呼び、
次のように書いた。
『カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、
武力解放のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。
入場する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って
抱擁。政府権力の委譲も、平穏のうちに行われたようだ。
しかも解放勢力の指導者がプノンペンの【裏切り者】たちに対し、
「身の安全のために、早く逃げろ」と繰り返し忠告した。
これを裏返せば「君たちが残っていると、われわれは逮捕、
ひいては処刑もしなければならない。それよりも
目の前から消えてくれた方がいい」という意味であり、
敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれている
ようにみえる。解放勢力指導者のこうした態度と
カンボジア人が天性持っている楽天性を考えると、
新生カンボジアは、いわば【明るい社会主義国】として、
人々の期待にこたえるかもしれない。』」
このあとに、徳岡孝夫氏は、こう書きます。
「プノンペンにいずにプノンペンを見るがごとく書いた
この大ウソ記事がでたころには、すでの解放(!)勢力に
よる虐殺と処刑が始まっていた。首都に残った勇敢な
外国人記者たちも、フランス大使館構内に逃げ込んで、
わずかに難を避けたのである。」
もどって、朝日新聞の記事、
75年5月17日には
「解放勢力による大量処刑の情報がもっぱら米国筋から流された。
・・・しかし、これらの米国情報は、いずれも日付、場所などの
具体性に欠けている」と書いた和田の記事。
さらに徳岡氏は
75年6月8日夕刊の朝日の「素粒子」をも引用します。
「苦く思い出す、日本はかつて
ポル・ポト派政権承認国だった事実を。
国民の関心は薄かった」
このあとに徳岡氏は
「何を言うか。
『粛清の危機は薄い?』と見出しのついた
和田俊記者の前記記事・・・・・・
国を誤ったのは政府ではなく、
ポル・ポト派という『解放勢力』に
恋した『朝日新聞』である。」
もうすこし、徳岡氏の「紳士と淑女」から
引用させてください。
「カンボジア全土を覆った以後の流血を見て、
インドシナの戦争を取材した各社の元特派員は、
折りに触れて和田のこの大ヨタ記事を話題にした。
『あんなことを書いてしまったヤツは、
もう世間に顔向けできないだろうなあ』と
・・・・
その男が、いまニュースステーションの解説者となり、
その解説を茶の間の日本人はうなずきながら聞いていいるのである。」
はい。そして、2018年「新潮45」9月号。
巻頭随筆で、ベトナム戦争最後の一日を記す徳岡孝夫。
その同じ雑誌の特集が、「『茶の間の正義』を疑え」。
長くなりますが、この機会に、もう少し詳しく。
1975年カンボジアについての「紳士と淑女」の文を紹介。
「諸君!」1992年1月号(1991年10月)に
「カンボジアに平和が戻り、シアヌーク殿下は13年間の
亡命生活を終えてプノンペンに帰還した。・・・・・・
・・・・・
顧みれば1975年4月17日、ポル・ポト率いるクメール・ルージュ
は首都に入城した。解放(!)を喜ぶ人々は歓呼して彼らを迎えた。
国外のたとえば日本の『朝日新聞』も大いに喜んだ。
岩波書店発行の『近代日本総合年表』は、今なお恥ずかしげもなく
『カンボジア解放勢力、プノンペン占領』と記している。
ところが
人類史上に例の少ないほどの悲惨は、
この『解放』とともに始まった。
マルクス主義を字義どおりに信じ、
都会を資本主義の悪の巣窟と信じて疑わない解放者は、
全市民に即時農村への下放を命じた。
入院中の患者は点滴をつけたまま、
女は臨月の妊婦に至るまで、
地獄絵のような行列となって町を離れ、次々に死んでいった。
同時に資本主義分子の一斉処刑が行われ、
銀行は廃止されて札束は路上に捨てられた。
そして、その鬼のようなクメール・ルージュに世界で唯一、
強力な支援を与え続けたのは中国政府だった。
現在のカンボジアは、総人口に対する手足のちぎれた
肢体不自由者の比率が世界で最も高い国だという。
これは片や中国の武器援助を受けるポル・ポトが、
片やベトナムの傀儡政権であるヘン・サムリンが、
水田の中といわずジャングルといわず無数にばら撒いた
地雷の犠牲者なのである。
中国製の地雷とソ連からベトナムを経由して入ってきた地雷は、
平和に暮らしていたクメール人を無差別に殺傷した。
全くエゲツないことをしたものである。・・・」