庭の話ということで、
三冊の本を紹介することに。
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)
篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社)
「露伴全集」第三巻(岩波書店)
「庭と日本人」の「はじめに」は
こうはじまっておりました。
「ある年の暮の寒い日のこと、
一人のアメリカ人の友人を京都の寺に案内した。
大徳寺や龍安寺などのいくつかの寺をみたあとの
帰りの道すがら、かれはオーバーの襟をかきたてつつ、
わたしに質問してきた。
『日本人は、仏さまより庭が好き?』
『なぜ?』
と、問うわたしに、
『だって、たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ
仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって庭ばかり見ている・・・』
・・・・・
いわれてみるとそのとおりだ。
奈良の寺へいくと人は仏像を見るが、
京都の寺ではたしかにみな庭ばかり見ている。
かんがえてみると、奈良の寺にはあまり庭がない
から仏像を見るのはわかる。しかし京都の寺には
仏像があるのに人は庭ばかり見ている。」
これから、新書は始まっているのでした。
つぎは、幸田露伴が明治33年7月に書いた
『太郎坊』という短編小説のはじまりを引用。
「見るさへまばゆかった雲の峰は風に吹き崩されて
夕方の空が青みわたると、真夏とはいひながら
お日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる。
やがて五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光って見える、
その下を蝙蝠が得たり顔にひらひらと彼方此方へ飛んでいる。
主人は甲斐甲斐しくはだし尻端折で庭に下り立つて、
蝉も雀も濡れよとばかりに打水をしている。
・・・・・・
主人は打水を了へてのち満足げに庭を見わたしたが、
やがて足を洗って下駄をはくかとおもふと
すぐに下女を呼んで、手拭、石鹸、湯銭等を取り来らしめて
湯へいってしまった。・・・
やがて主人はまくり手をしながら茹蛸のようになって
帰って来た。縁に花ござが敷いてある。・・・
ほどよい位置に吊るされた岐阜提灯は涼しげな光を放っている。
庭は一隅の梧桐の繁みから次第に暮れて来て、
ひょろ松桧葉などに滴る水玉は夕立の後かと見紛うばかりで、
その濡色に夕月の光の薄く映ずるのは何ともいえぬ
すがすがしさを添へている。
主人は庭を渡る微風(そよかぜ)に袂を吹かせながら、
おのれの労働がつくり出した快い結果を
極めて満足しながら味わっている。」(p253~254)
ここから、小説ははじまってゆくのですが、
私が紹介したかったのは、ここまで(笑)。
つづいて、篠田一士著「現代詩人帖」。
そこで、篠田氏は谷川俊太郎の前に、
高橋新吉をとりあげておりました。
そのなかから、高橋新吉の詩と
その篠田氏の解説とを紹介して終ります。
では詩から、
「 霧雨 高橋新吉
霧雨の しづかにふる朝
幻しの犬が匍ひ歩いてゐる
茶を沸かし ひとり飲めば
姿なき猫が 膝にかけ上る
ひとときの 夢の露地に
竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く
雲走り 夕となれば
うつつの窓を閉ぢ ねやにふす 」
この詩を、篠田一士氏は、こう解説しています。
「『幻しの犬』、『姿なき猫』、『夢の露地』の
三つの成句に着目し、これを幻想詩といってみてもはじまらない。
つまり、『うつつ』の場にはありえぬ幻想風景の謂である。
さればといって、霧雨の降りつづく一日、詩人そのひとでも、
だれでもいいが、任意の人物を想定し、そのひとの心中を
横切った幻想の断片を唱ったものと考えるのは、
いかにもみみっちくて、この傑作詩篇には、もとより無縁だろう。
言葉をそのまま率直に読み、また、読みかえしてゆくうちに、
言葉がまことに融通無碍、夢と現(うつつ)の間を往き来し、
その間に、なんの障りもないことに、読むものは、思わず、
おどろきの固唾をのむ。
いわゆる詩的言語がつくりあげる言語空間なるものは、
日常的な場に対して垂直に屹立することを旨とし、
また、それを、なによりの身上とするけれども、
『霧雨』における詩的言語は、決して、垂直には運動しない。
それならば、水平の運動かといえば、かならずしも、
そうだとも言い切れない。
一見、水平のごとくみえるが、
その空間が、四方八方、無限に拡がっているのを知れば、
垂直に対する水平の場のもつ、せせこましい日常風景の有限性など、
ここでは論外だということは、いうまでもない。
しかも、この詩篇を形づくる詩的言語は、
ある一点を指し、そこで、ゆるやかな運動をつづけるかと想わせながら、
瞬時のうちに、無限の彼方から、また、別の無限の彼方へと疾走し、
あるいは、また、その逆をくりかえしているのである。」
(p173~175)
次は、縁側に座ってお寺の庭を眺めながら、
この三題噺を、考えてみたくなるのでした。
坐禅もせず。庭掃除もせずの横着な発想(笑)。
しかたない、これが私です。
三冊の本を紹介することに。
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)
篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社)
「露伴全集」第三巻(岩波書店)
「庭と日本人」の「はじめに」は
こうはじまっておりました。
「ある年の暮の寒い日のこと、
一人のアメリカ人の友人を京都の寺に案内した。
大徳寺や龍安寺などのいくつかの寺をみたあとの
帰りの道すがら、かれはオーバーの襟をかきたてつつ、
わたしに質問してきた。
『日本人は、仏さまより庭が好き?』
『なぜ?』
と、問うわたしに、
『だって、たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ
仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって庭ばかり見ている・・・』
・・・・・
いわれてみるとそのとおりだ。
奈良の寺へいくと人は仏像を見るが、
京都の寺ではたしかにみな庭ばかり見ている。
かんがえてみると、奈良の寺にはあまり庭がない
から仏像を見るのはわかる。しかし京都の寺には
仏像があるのに人は庭ばかり見ている。」
これから、新書は始まっているのでした。
つぎは、幸田露伴が明治33年7月に書いた
『太郎坊』という短編小説のはじまりを引用。
「見るさへまばゆかった雲の峰は風に吹き崩されて
夕方の空が青みわたると、真夏とはいひながら
お日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる。
やがて五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光って見える、
その下を蝙蝠が得たり顔にひらひらと彼方此方へ飛んでいる。
主人は甲斐甲斐しくはだし尻端折で庭に下り立つて、
蝉も雀も濡れよとばかりに打水をしている。
・・・・・・
主人は打水を了へてのち満足げに庭を見わたしたが、
やがて足を洗って下駄をはくかとおもふと
すぐに下女を呼んで、手拭、石鹸、湯銭等を取り来らしめて
湯へいってしまった。・・・
やがて主人はまくり手をしながら茹蛸のようになって
帰って来た。縁に花ござが敷いてある。・・・
ほどよい位置に吊るされた岐阜提灯は涼しげな光を放っている。
庭は一隅の梧桐の繁みから次第に暮れて来て、
ひょろ松桧葉などに滴る水玉は夕立の後かと見紛うばかりで、
その濡色に夕月の光の薄く映ずるのは何ともいえぬ
すがすがしさを添へている。
主人は庭を渡る微風(そよかぜ)に袂を吹かせながら、
おのれの労働がつくり出した快い結果を
極めて満足しながら味わっている。」(p253~254)
ここから、小説ははじまってゆくのですが、
私が紹介したかったのは、ここまで(笑)。
つづいて、篠田一士著「現代詩人帖」。
そこで、篠田氏は谷川俊太郎の前に、
高橋新吉をとりあげておりました。
そのなかから、高橋新吉の詩と
その篠田氏の解説とを紹介して終ります。
では詩から、
「 霧雨 高橋新吉
霧雨の しづかにふる朝
幻しの犬が匍ひ歩いてゐる
茶を沸かし ひとり飲めば
姿なき猫が 膝にかけ上る
ひとときの 夢の露地に
竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く
雲走り 夕となれば
うつつの窓を閉ぢ ねやにふす 」
この詩を、篠田一士氏は、こう解説しています。
「『幻しの犬』、『姿なき猫』、『夢の露地』の
三つの成句に着目し、これを幻想詩といってみてもはじまらない。
つまり、『うつつ』の場にはありえぬ幻想風景の謂である。
さればといって、霧雨の降りつづく一日、詩人そのひとでも、
だれでもいいが、任意の人物を想定し、そのひとの心中を
横切った幻想の断片を唱ったものと考えるのは、
いかにもみみっちくて、この傑作詩篇には、もとより無縁だろう。
言葉をそのまま率直に読み、また、読みかえしてゆくうちに、
言葉がまことに融通無碍、夢と現(うつつ)の間を往き来し、
その間に、なんの障りもないことに、読むものは、思わず、
おどろきの固唾をのむ。
いわゆる詩的言語がつくりあげる言語空間なるものは、
日常的な場に対して垂直に屹立することを旨とし、
また、それを、なによりの身上とするけれども、
『霧雨』における詩的言語は、決して、垂直には運動しない。
それならば、水平の運動かといえば、かならずしも、
そうだとも言い切れない。
一見、水平のごとくみえるが、
その空間が、四方八方、無限に拡がっているのを知れば、
垂直に対する水平の場のもつ、せせこましい日常風景の有限性など、
ここでは論外だということは、いうまでもない。
しかも、この詩篇を形づくる詩的言語は、
ある一点を指し、そこで、ゆるやかな運動をつづけるかと想わせながら、
瞬時のうちに、無限の彼方から、また、別の無限の彼方へと疾走し、
あるいは、また、その逆をくりかえしているのである。」
(p173~175)
次は、縁側に座ってお寺の庭を眺めながら、
この三題噺を、考えてみたくなるのでした。
坐禅もせず。庭掃除もせずの横着な発想(笑)。
しかたない、これが私です。