小林秀雄について書いた、
安岡章太郎の文を思い浮かべたので引用。
それは、佐々木基一と小林秀雄と安岡章太郎の
三人でロシアへ出かけた際の印象を綴っている文でした。
「・・・もっとも小林さんは、興味のあるものに出会っても、
はじめはソッケない振りをする癖があるらしく、
ロシアの絵画にしても最初はまるで軽蔑し切ったように
言っておられたのが、だんだん変り、最後には佐々木さんに、
『きみ、ロシアっていうのは美術評論のアナだよ。
きみの年なら、いまからでも狙っておいて損はないね』
などと囁かれるようになったりした。」
具体的には、エルミタージュ美術館へ行く場面を
安岡章太郎氏は、再現されております。
では、その個所を引用。
「実際、小林さんはロシア人の絵画の鑑賞力にも
大いに疑惑的で、レニングラードの美術館
エルミタージュへ出掛けるときも、
『どうせ田舎の大尽がヨーロッパへ行って、
つかまされて来たものだろうから、むやみに
数ばかりたくさんあっても、見られるやつは
いくらもありゃしないだろうョ』
とうそぶくように言っておられた。
私自身は外国でそのまた外国の絵を見ることに
馬鹿々々しさを感じていたので、美術館へは
招待客としての義務感からアルバイトのつもりでついて行った。
エルミタージュというのは、
部屋から部屋へ渡り歩く距離だけで数十キロ・メートル、
駆け足で走っても数時間を要するという巨大なシロモノだから、
これは実感だった。私は出来るだけサボるつもりで、
中庭の屋上庭園のベンチでタバコばかり吹かしていた。
しかるに小林さんは美術館の中に入ると、
まるで人柄が変ってしまった。
皮膚も唇も干からびたように、へとへとになって
ベンチへやって来たかと思うと、
タバコもろくに吸わないうちに、また飛び出して行く。
そして案内者が、そろそろ引き上げましょうと言ってからも、
『もう一と部屋、近代フランス絵画の部屋をあけてくれるそうだ』
などと、その場を動こうともしないのである。
それは山へ這入った猟犬の本能とでも言うような執念深さであり、
・・小林秀雄の『我』がなまぐさい程に漂っていた。・・・」
(「小林秀雄全集別巻Ⅱ批評への道」新潮社・昭和54年)
言葉から絵画までの道のり。あるいは、絵画から言葉までの道のり。
屋上庭園で安岡さんは、そんなことを思っていたのかなあ(笑)。
ちなみに、小林秀雄年譜によりますと、
昭和38年(1963)6月にソ連作家同盟の招きにより
ソビエト旅行に出発とあります。
「皮膚も唇も干からびたように、へとへとになって」
いた小林秀雄氏の年齢は当時61歳。
安岡章太郎氏は、文の最後に、
「美術館を引き上げていく小林さんの顔を見ながら」
敗戦の翌年にリュックをかついで帰って来た
安岡氏の父親の顔をだぶらせておりました。
ということで、安岡氏の文章の最後を引用。
「疲労しきった小林さんの足取りや体つきの全体が、
襟章のない軍服姿の父が玄関のまえで突っ立ったまま
私たちを見ていたときの様子にそっくりだったのである。」
う~ん。安岡章太郎は大正9年(1920)生まれ。
一方の、小林秀雄は明治35年(1902)生まれ。
安岡氏にとっては、ご自身の父親世代と一緒なのですね。
安岡章太郎の文を思い浮かべたので引用。
それは、佐々木基一と小林秀雄と安岡章太郎の
三人でロシアへ出かけた際の印象を綴っている文でした。
「・・・もっとも小林さんは、興味のあるものに出会っても、
はじめはソッケない振りをする癖があるらしく、
ロシアの絵画にしても最初はまるで軽蔑し切ったように
言っておられたのが、だんだん変り、最後には佐々木さんに、
『きみ、ロシアっていうのは美術評論のアナだよ。
きみの年なら、いまからでも狙っておいて損はないね』
などと囁かれるようになったりした。」
具体的には、エルミタージュ美術館へ行く場面を
安岡章太郎氏は、再現されております。
では、その個所を引用。
「実際、小林さんはロシア人の絵画の鑑賞力にも
大いに疑惑的で、レニングラードの美術館
エルミタージュへ出掛けるときも、
『どうせ田舎の大尽がヨーロッパへ行って、
つかまされて来たものだろうから、むやみに
数ばかりたくさんあっても、見られるやつは
いくらもありゃしないだろうョ』
とうそぶくように言っておられた。
私自身は外国でそのまた外国の絵を見ることに
馬鹿々々しさを感じていたので、美術館へは
招待客としての義務感からアルバイトのつもりでついて行った。
エルミタージュというのは、
部屋から部屋へ渡り歩く距離だけで数十キロ・メートル、
駆け足で走っても数時間を要するという巨大なシロモノだから、
これは実感だった。私は出来るだけサボるつもりで、
中庭の屋上庭園のベンチでタバコばかり吹かしていた。
しかるに小林さんは美術館の中に入ると、
まるで人柄が変ってしまった。
皮膚も唇も干からびたように、へとへとになって
ベンチへやって来たかと思うと、
タバコもろくに吸わないうちに、また飛び出して行く。
そして案内者が、そろそろ引き上げましょうと言ってからも、
『もう一と部屋、近代フランス絵画の部屋をあけてくれるそうだ』
などと、その場を動こうともしないのである。
それは山へ這入った猟犬の本能とでも言うような執念深さであり、
・・小林秀雄の『我』がなまぐさい程に漂っていた。・・・」
(「小林秀雄全集別巻Ⅱ批評への道」新潮社・昭和54年)
言葉から絵画までの道のり。あるいは、絵画から言葉までの道のり。
屋上庭園で安岡さんは、そんなことを思っていたのかなあ(笑)。
ちなみに、小林秀雄年譜によりますと、
昭和38年(1963)6月にソ連作家同盟の招きにより
ソビエト旅行に出発とあります。
「皮膚も唇も干からびたように、へとへとになって」
いた小林秀雄氏の年齢は当時61歳。
安岡章太郎氏は、文の最後に、
「美術館を引き上げていく小林さんの顔を見ながら」
敗戦の翌年にリュックをかついで帰って来た
安岡氏の父親の顔をだぶらせておりました。
ということで、安岡氏の文章の最後を引用。
「疲労しきった小林さんの足取りや体つきの全体が、
襟章のない軍服姿の父が玄関のまえで突っ立ったまま
私たちを見ていたときの様子にそっくりだったのである。」
う~ん。安岡章太郎は大正9年(1920)生まれ。
一方の、小林秀雄は明治35年(1902)生まれ。
安岡氏にとっては、ご自身の父親世代と一緒なのですね。