和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

文芸時評から、偏向新聞時評への分岐点。

2018-08-14 | 詩歌
その昔。新聞には文芸時評なるものが掲載されていたそうです。
月刊同人誌等からピックアップされた秀作文芸の講評欄。
それがいつのまにか、新刊本の動向も含めるようになり、
そうして、今では文芸時評は絶滅危惧種なみのようです。

今ならその流儀発想が逆となり、メディア記事にたいしての
丁寧正確な新聞時評をオピニオン雑誌が掲載するようになる。

「正論」9月号のSEIRON時評は
評論家江崎道朗氏が書いております。

そのはじまりの方を端折って引用。
はじまりは

「日本のメディアはアメリカ大統領選挙での
ヒラリー候補の当選を『断言』し、見事に外した。
・・・・・・
要は偏向という話ではなく、そもそも取材体制が
お粗末なのである。個々に優秀なジャーナリストは
いるものの、肝心の米メディア自体が、
トランプ大統領から『Fake News(嘘の報道)』と
非難されるほど、政治的に偏向していて、
そのアメリカの偏った報道を邦訳するだけで精一杯
なのが、日本のマスコミなのだ。
多角的に報道しようと思うのなら、
トランプを支持するシンクタンクや学者たちの
議論も紹介すべきだが、それだけの見識と余力
(スタッフの増員など)がマスコミ側にあるとは思えない。

そこで出番なのが、・・オピニオン雑誌だ。・・
マスコミができない・・分析の価値を理解する有権者をいかに増やすか。
マスコミ批判から、価値あるオピニオン誌を支援する方向へ、
頭の切り替えが求められる。」
(p298~299)


ということで(笑)。
長田弘著「一日の終わりの詩集」(みすず書房)から
詩「新聞を読む人」の最後の7行を引用してみます。


     新聞を読む人  長田弘

  ・・・・・・
  ・・・・・・
 
  ・・・
  新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
  ことばを探しているのだ。目が語っていた。
  ことばを探しているのだ。手が語っていた。
  ことばを、誰もが探しているのだ。
  ことばが、読みたいのだ。
  ことばというのは、本当は、勇気のことだ。
  人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。


ちなみに、この詩「新聞を読む人」は
朝日新聞96年10月15日に掲載されました。

今なら、「すっと、目を上げた」その先に
オピニオン雑誌があるといえるのですが、その時に
「目が語っていた」、「手が語っていた」けれども、
詩は、オピニオン雑誌の存在を語ってはいなかった。




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