その昔。新聞には文芸時評なるものが掲載されていたそうです。
月刊同人誌等からピックアップされた秀作文芸の講評欄。
それがいつのまにか、新刊本の動向も含めるようになり、
そうして、今では文芸時評は絶滅危惧種なみのようです。
今ならその流儀発想が逆となり、メディア記事にたいしての
丁寧正確な新聞時評をオピニオン雑誌が掲載するようになる。
「正論」9月号のSEIRON時評は
評論家江崎道朗氏が書いております。
そのはじまりの方を端折って引用。
はじまりは
「日本のメディアはアメリカ大統領選挙での
ヒラリー候補の当選を『断言』し、見事に外した。
・・・・・・
要は偏向という話ではなく、そもそも取材体制が
お粗末なのである。個々に優秀なジャーナリストは
いるものの、肝心の米メディア自体が、
トランプ大統領から『Fake News(嘘の報道)』と
非難されるほど、政治的に偏向していて、
そのアメリカの偏った報道を邦訳するだけで精一杯
なのが、日本のマスコミなのだ。
多角的に報道しようと思うのなら、
トランプを支持するシンクタンクや学者たちの
議論も紹介すべきだが、それだけの見識と余力
(スタッフの増員など)がマスコミ側にあるとは思えない。
そこで出番なのが、・・オピニオン雑誌だ。・・
マスコミができない・・分析の価値を理解する有権者をいかに増やすか。
マスコミ批判から、価値あるオピニオン誌を支援する方向へ、
頭の切り替えが求められる。」
(p298~299)
ということで(笑)。
長田弘著「一日の終わりの詩集」(みすず書房)から
詩「新聞を読む人」の最後の7行を引用してみます。
新聞を読む人 長田弘
・・・・・・
・・・・・・
・・・
新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
ことばを探しているのだ。目が語っていた。
ことばを探しているのだ。手が語っていた。
ことばを、誰もが探しているのだ。
ことばが、読みたいのだ。
ことばというのは、本当は、勇気のことだ。
人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。
ちなみに、この詩「新聞を読む人」は
朝日新聞96年10月15日に掲載されました。
今なら、「すっと、目を上げた」その先に
オピニオン雑誌があるといえるのですが、その時に
「目が語っていた」、「手が語っていた」けれども、
詩は、オピニオン雑誌の存在を語ってはいなかった。
月刊同人誌等からピックアップされた秀作文芸の講評欄。
それがいつのまにか、新刊本の動向も含めるようになり、
そうして、今では文芸時評は絶滅危惧種なみのようです。
今ならその流儀発想が逆となり、メディア記事にたいしての
丁寧正確な新聞時評をオピニオン雑誌が掲載するようになる。
「正論」9月号のSEIRON時評は
評論家江崎道朗氏が書いております。
そのはじまりの方を端折って引用。
はじまりは
「日本のメディアはアメリカ大統領選挙での
ヒラリー候補の当選を『断言』し、見事に外した。
・・・・・・
要は偏向という話ではなく、そもそも取材体制が
お粗末なのである。個々に優秀なジャーナリストは
いるものの、肝心の米メディア自体が、
トランプ大統領から『Fake News(嘘の報道)』と
非難されるほど、政治的に偏向していて、
そのアメリカの偏った報道を邦訳するだけで精一杯
なのが、日本のマスコミなのだ。
多角的に報道しようと思うのなら、
トランプを支持するシンクタンクや学者たちの
議論も紹介すべきだが、それだけの見識と余力
(スタッフの増員など)がマスコミ側にあるとは思えない。
そこで出番なのが、・・オピニオン雑誌だ。・・
マスコミができない・・分析の価値を理解する有権者をいかに増やすか。
マスコミ批判から、価値あるオピニオン誌を支援する方向へ、
頭の切り替えが求められる。」
(p298~299)
ということで(笑)。
長田弘著「一日の終わりの詩集」(みすず書房)から
詩「新聞を読む人」の最後の7行を引用してみます。
新聞を読む人 長田弘
・・・・・・
・・・・・・
・・・
新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
ことばを探しているのだ。目が語っていた。
ことばを探しているのだ。手が語っていた。
ことばを、誰もが探しているのだ。
ことばが、読みたいのだ。
ことばというのは、本当は、勇気のことだ。
人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。
ちなみに、この詩「新聞を読む人」は
朝日新聞96年10月15日に掲載されました。
今なら、「すっと、目を上げた」その先に
オピニオン雑誌があるといえるのですが、その時に
「目が語っていた」、「手が語っていた」けれども、
詩は、オピニオン雑誌の存在を語ってはいなかった。