和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

どのように扇を使えば。

2018-08-04 | 古典
昨年から道元の「正法眼蔵」を読もうとして、
そのままになっている私です(笑)。
とりあえず、
「現状公案」の最後にでてくる扇について。

まずは、「現状公案」とは?
というところから、いきます。

「・・・西有ボク山は、
『現状公案』巻こそ道元の教えの精髄であり、
『開山(道元のこと)御一代の宗乗は、
この巻を根本として説かれてある。
御一代の仏法はこの一巻で尽きる。
九十五巻(「正法眼蔵」全巻を意味する)は
この巻の分身だ。』とまで言い、
『現状公案』巻が道元思想を理解する上で
不可欠のものであるとした。」
(頼住光子著「道元の思想」NHK出版・p56)

はい。その現状公案の最後に
「仏家の風」という言葉がでてくるのでした。


その現状公案の最後の箇所の原文は

「麻谷山宝徹禅師、
あふぎ(扇)をつかふ
ちなみに、僧きたりてとふ、」


扇をつかう禅師というのですから、
夏なのでしょうね。
僧は、坐禅の修行をしていたのでしょうか?
師のところに来ると、師は「あふぎ」を使っている。

若い僧は、禅師に問いかける。

「『・・風性は常住にして処としてあまねからざるはなし
(風性常住、無処不周)。なにをもてかさらに和尚あうぎをつかふ』。
ある修行僧が、風の本性というのはどこにも常住していて、
周延していないところはないのに、なぜ扇を使うのですかと問うた。
風性常住なら扇を使う必要はない。
これはあまりにも単純素朴な観念論である。」
(p351・有福孝岳著「道元の世界」大阪書籍)


僧と禅師とのやりとりはカットして
最後の箇所の原文を引用。

『常住なればあふぎをつかふべからず。
つかはぬをりも風をきくべきといふは、
常住をもしらず、風性をもしらぬなり。
風性は常住なるがゆへに、
仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、
長河の酥酪(牛乳を加工して作った飲物)を参熟せり』。

この箇所を、有福孝岳氏は、こう読みます。

「仏風さかんなれば、大地は黄金となり、
長河は酥酪(そらく)となるという、
まことに詩的な名文であるが、しかし、
この大地を変じて黄金を現成せしめ、
長河を変じて酥酪となさしめるには、
各自銘々の、ささやかではあっても
真摯な修行が必要である。
その修行によって同時に天地を隔てるほどの
証果が現われるということで、
われわれは各自、どのように扇を使えば自らの風を生ぜしめるか
を一瞬たりともおこたらずに参学工夫しなければならないのである。
そこに修証一如としての行持道環の真面目がある。」
(「道元の世界」p352)


増谷文雄氏は講談社学術文庫「正法眼蔵(一)」の注解で

「最後に、麻谷宝徹禅師と一人の僧との問答をあげて、
悟りの実現のことは、結局するところ理論のことではなくて、
実践の問題であることを語って結びとするのである。」
(p57)



はい。名古屋場所の観客の団扇のパタパタからはじまって、
禅師の扇へと、夏のブログは、風をたどって思い浮かびました。








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