せっかく、高橋新吉が登場したので、
高橋新吉著「すずめ 美術論集」全10巻をひらく
(4巻目が欠だったので、さっそくネット注文)。
昭和36年から昭和45年までの
高橋新吉氏の美術巡り。美術館とか画廊とか
それに、院展とか日展とかの各展覧会評。
目次のあとに、図版が5~60頁あり、
ほぼ白黒写真なのですが、それをパラパラとめくる楽しみ。
ほぼ一年に一冊。高橋新吉氏が覗いた絵画からの
選択を並べて見せてもらっている嬉しさ。
すこし言葉を引用。
一巻目のはじまりは「正倉院展をみて」。
そのはじまりの言葉は、
「千二百年といっても、人間を縦に二十人ほど、
ならべただけの時間に過ぎないのだから何も、
古いとか、変わっているとか言っても、
悠久な時間の流れに比ぶれば、些末な、微小な
問題になってしまうが、天平勝宝年間に正倉院が造られてから、
早くも十年目に、恵美押勝が、武器類を持ち出したという。
それからも、売り飛ばしたり、盗まれたりしたものもあるが、
ともかく、治承四年に、東大寺が焼けたときにも、焼けず、
この間の空襲にもあわずに、一万点にも及ぶ宝物が、
そのまま原型を保っていることは、どのように考えても、
これを、見ない方がよいとは言えぬのである。・・・」
第二巻のはじまりは「絵を見るよろこび」。
そのはじまりの言葉は
「この数年、毎日のように、絵を見て歩いてきたが、
最近、絵を見ることに対して、以前ほど、興味も感動も、
覚えなくなった。私が老人になって、視力が衰えたせいもあるが、
他人の描いた絵を、忠実に見て廻っても、足がだるくなるだけで、
あまり得るところはないという結論に達しているのである。
それと、最近私が考えている事は、目で見るということは、
人間の動作の中の、一つの事柄に過ぎないので、
盲目でも生きておれるということは、たしかな事実だからである。
眼の筋を、無暗に緊張させて、物を見たところで、
それが何だというのであろう。
だから、画家にとって、大切な事は、物を見ることではなく、
どのような考へで、生きているかという、画家の心の問題だと思う。
・・・・」
はい。この文は、興味深いので、もう少し引用。
「私は、物を見ることに興味を失っているが
わたしとおなじような人が、画家の中にも、
ありはしないかと思って、他人の絵を見るのである。
同感し、納得する絵を見ることは、よろこばしい事である。
それが、過去の人でも、同時代の人でも、その作品によって、
判断することが、できるからである。
言葉では、表現し得ないものが、絵画では、微妙に、
表現されている場合があるのである。
人間の考えは、その人の肉体的動作に、集約されて、
出てくるからである。色の選択、画面の構成に、
その人の全思想が表われる。
それに対して、反撥するか、肯定するかは、
見る側の自由である。・・・」
ちなみに、「すずめ 美術論集」を創刊した
昭和36年(1961)は高橋新吉60歳。
昭和45年「すずめ 美術論集」10巻目で終刊。
これを古本で買ったときは、
何か、つまらないなあと思ったのですが、
いまなら、私の読み頃をむかえた気がします。
無駄口ははぶき、駄作は黙殺して、こまめに絵画見て歩き、
一年一年を過ごしている高橋新吉の目を楽しめるのでした。
これもきっと、私が60歳を過ぎたからなのだろうなあ(笑)。
「還暦過ぎの気難しがり屋の美術巡礼の書」と、
この本を、今の私は言ってみたい。
高橋新吉著「すずめ 美術論集」全10巻をひらく
(4巻目が欠だったので、さっそくネット注文)。
昭和36年から昭和45年までの
高橋新吉氏の美術巡り。美術館とか画廊とか
それに、院展とか日展とかの各展覧会評。
目次のあとに、図版が5~60頁あり、
ほぼ白黒写真なのですが、それをパラパラとめくる楽しみ。
ほぼ一年に一冊。高橋新吉氏が覗いた絵画からの
選択を並べて見せてもらっている嬉しさ。
すこし言葉を引用。
一巻目のはじまりは「正倉院展をみて」。
そのはじまりの言葉は、
「千二百年といっても、人間を縦に二十人ほど、
ならべただけの時間に過ぎないのだから何も、
古いとか、変わっているとか言っても、
悠久な時間の流れに比ぶれば、些末な、微小な
問題になってしまうが、天平勝宝年間に正倉院が造られてから、
早くも十年目に、恵美押勝が、武器類を持ち出したという。
それからも、売り飛ばしたり、盗まれたりしたものもあるが、
ともかく、治承四年に、東大寺が焼けたときにも、焼けず、
この間の空襲にもあわずに、一万点にも及ぶ宝物が、
そのまま原型を保っていることは、どのように考えても、
これを、見ない方がよいとは言えぬのである。・・・」
第二巻のはじまりは「絵を見るよろこび」。
そのはじまりの言葉は
「この数年、毎日のように、絵を見て歩いてきたが、
最近、絵を見ることに対して、以前ほど、興味も感動も、
覚えなくなった。私が老人になって、視力が衰えたせいもあるが、
他人の描いた絵を、忠実に見て廻っても、足がだるくなるだけで、
あまり得るところはないという結論に達しているのである。
それと、最近私が考えている事は、目で見るということは、
人間の動作の中の、一つの事柄に過ぎないので、
盲目でも生きておれるということは、たしかな事実だからである。
眼の筋を、無暗に緊張させて、物を見たところで、
それが何だというのであろう。
だから、画家にとって、大切な事は、物を見ることではなく、
どのような考へで、生きているかという、画家の心の問題だと思う。
・・・・」
はい。この文は、興味深いので、もう少し引用。
「私は、物を見ることに興味を失っているが
わたしとおなじような人が、画家の中にも、
ありはしないかと思って、他人の絵を見るのである。
同感し、納得する絵を見ることは、よろこばしい事である。
それが、過去の人でも、同時代の人でも、その作品によって、
判断することが、できるからである。
言葉では、表現し得ないものが、絵画では、微妙に、
表現されている場合があるのである。
人間の考えは、その人の肉体的動作に、集約されて、
出てくるからである。色の選択、画面の構成に、
その人の全思想が表われる。
それに対して、反撥するか、肯定するかは、
見る側の自由である。・・・」
ちなみに、「すずめ 美術論集」を創刊した
昭和36年(1961)は高橋新吉60歳。
昭和45年「すずめ 美術論集」10巻目で終刊。
これを古本で買ったときは、
何か、つまらないなあと思ったのですが、
いまなら、私の読み頃をむかえた気がします。
無駄口ははぶき、駄作は黙殺して、こまめに絵画見て歩き、
一年一年を過ごしている高橋新吉の目を楽しめるのでした。
これもきっと、私が60歳を過ぎたからなのだろうなあ(笑)。
「還暦過ぎの気難しがり屋の美術巡礼の書」と、
この本を、今の私は言ってみたい。