和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

東京は見物じゃ。

2019-05-18 | 本棚並べ
宮本常一著「私の日本地図14 京都」(未来社)。
これは、宮本常一著作集別集「私の日本地図 全15巻」
そのなかの一冊。

最初は「三十三間堂」からはじまっております。
1965年の三十三間堂南大門の写真があり、
その下に、こんな言葉があります。

「お上りさんにとって京都の町は、
有難い神や仏の世界であり、
『京都へ行く』とはいわないで、
『京都参り』といったものである。」

ふ~ん。京都へ行こう。
と言った時点で、「有難い神や仏の世界」は
もう眼中になくなっているのでしょうか?

その7ページ目に「関東人の京参り」という
小見出しがありますので、引用しておきます。

「それについて私にはひとつの思い出がある。
昭和21年(1946)であったと思うが、
東海道線湯河原駅の近くに鍛冶屋という在所があり、
そこへいったことがある。

ムラの70歳から上の老人たち七、八人に
集まってもらって話をきいたのだが、その折、
どこまで旅をしたかについてきいてみると、
『京は京参りといって必ず参ったものだ』という。
たいていは伊勢参りを掛けた旅であった。

さて東京は、ときいてみると、
『ハァ江戸かね、江戸は見物じゃ。
江戸へはまだ行ったことがないね』
という老人がほとんどであった。

江戸が東京になって80年もったいるのに、
感覚的にはまだ江戸としてうけとめている。
そしてその江戸へは、いったことがないという。
それで私はこの話を何回も方々で話してみた。
関東平野に住む者でも、これに近い感覚を
持っていた百姓の老人は少なくなかった。

つまり、日本の一般民衆は意外なほど
京都を聖なる地として強く印象していたのである。」


はい。還暦過ぎの京都参りをすると、
あれこれ、視点が深まってゆきます。

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そうだ 京都。

2019-05-17 | 本棚並べ
昨日。古本届く。
「保存版 そうだ 京都、行こう。」(淡交ムック・平成16年)。
表紙には下にこうあります
「JR東海・京都キャンペーンポスターの写真&文10年間を収録」。

新刊では、20年間分まとめて出ているそうですが、
私は、この安い古本で、十分満足(笑)。


広告の写真と、広告のコピーとが
並んでいて壮観。「まえがき」には、
写真家は髙崎勝二。
コピーライターは太田恵美。
とあります。
写真は鮮やか。しかも、
写真に負けないコピー。
ときどき、ページをひらいて
おきたくなる一冊。


それはそうと、梅棹忠夫。
その「京都の精神」(角川選書)の
まえがきに、「昨春以来、視力を喪失したまま」
とあります。
それぞれ、以前の講演などを参照して
まとめられた一冊なのですが、
「最後の項『私家版 京都小事典』は、
本書のためにかきおろした。」とある。

ということは、視力を喪失された後に、
口述筆記などで、あらたに出来上がったのが
「私家版 京都小事典」なのだと理解できる。

残像と言葉とからできた、
梅棹忠夫の京都ワールド。
「私家版 京都小事典」。

その「私家版 京都小事典」から
「おのぼりさん」という項目の
はじまりを引用。

「地方から京都へくることを『ノボル』といった。
逆に京都から地方へいくのは『クダル』であった。

地方にすまうものは、京にのぼるのを夢とした。
軍勢をひきいて京にのぼる。
青雲のこころざしをいだいて志士が上洛する。
平安時代から明治維新まで、その夢はかわらなかった。
・・・
ところが、明治天皇が東京に行幸し、
地方のひとが、京都へ上洛する意味が減じてしまった。
くわえて1889(明治22)年、東海道線が全通すると、
どういうわけか、東京方面ゆきが『上り』、
神戸方面ゆきが『下り』となっていた。
・・・」



う~ん。どちら?

京都へ、のぼる。
京都へ、くだる。

そこで、JRは、考えた。
答えは京都で見つかると。

そうだ  京都、行こう。





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30年来の友人。

2019-05-16 | 本棚並べ
梅棹忠夫編著「日本の未来へ」(NHK出版)の
副題は「司馬遼太郎との対話」。
この本は、梅棹忠夫氏より先に亡くなった
司馬さんに捧げられた結構な一冊でした。

すっかり忘れていたのを、本棚から出してくる。

まえがきは、こうはじまります。

「司馬遼太郎はわたしの30年来の友人である。
かれとは、たびたびともに飲み、ともにかたりあった。
そのこころよい記憶をわたしはおもいかえして
たのしんでいる。・・・」


最初は、司馬さんからの手紙でした。
手紙の前の梅棹氏の解説は、こうはじまります。

「1986年3月11日、わたしは突然に
両眼の視力をうしなって・・視力は回復せぬままに、
10月5日に退院した。まもなく、10月27日づけで
司馬遼太郎から手紙をもらった。・・」

とあり、そのあとに手紙が載せてあります。
ここでは、途中を引用。

「・・目のことばかりは、
なぐさめようもありません。
ただ湯浅叡子さんから、
『新しい思想が、ふきだすように
芽生えてきていらっしゃるように思えます』
ということをきき、せめてものうれしさを
覚えました。・・・』
 ・・・・
小生も、自分が失明したときのことを考えています。
・・・・」

手紙のつぎには、「梅棹忠夫著作集」が1989年より
刊行が開始され、内容見本を司馬遼太郎が書いており、
その文が掲載されておりました。
内容見本は短い文ですが、その最後の2行だけ引用。

「梅棹は、学問と思想のあいだを時々刻々に往復してきた。
このような思想家を、私どもが生きている時代に得た
というのは、大きな幸福の一つである。」


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月報の魅力。

2019-05-14 | 本棚並べ
梅棹忠夫著作集第17巻の月報。
昨日寝床で、この月報を開く。
全8頁。寝る前には丁度いい。


この巻の月報の顔ぶれは、
杉本秀太郎。
寿岳章子。
堀場雅夫。
吉村元男。
この四人の文です。
どれもが印象深い。

そういえば、と本棚から
司馬遼太郎と桑原武夫の本を取り出す。

桑原武夫対談集「人間史観」
桑原武夫対談集「日本語考」
「桑原武夫伝習録」梅棹忠夫・司馬遼太郎編

はい。三冊とも潮出版社から出ております。
「人間史観」の最初に、多田道太郎氏の
「桑原先生の座談」という文があります。
そこにも、杉本秀太郎氏が登場してます。
そこを引用。

「もっとも、先生は俗に言う『お喋り』である。・・
桑原先生の対極にいるのは、私の友人では・・・
杉本秀太郎氏である。たとえば電話してきて、
『杉本ですが』とくる。
『あ、こんにちわ』とこたえる。
するとあとは長い沈黙である。
むこうから電話してきて、長い長い沈黙はないだろう、
と思うが、電話口の向こうでは、次の言葉が自然と
唇にうかぶのを悠然と待っている杉本氏がいるのである。」
(p4)

はい。この杉本秀太郎氏が梅棹忠夫をとりあげて魅力
の月報なのですが、引用しずらいので、ここは沈黙します。

さてっと、多田道太郎氏の指摘する桑原先生はといと、

「ことばは言うまでもなく、
ひろい意味での関西弁である。
だが、他郷の人には容易に、かつ、
その余韻をとらえることはできまい。・・」(p5)

寿岳章子氏の月報には、こうあります。

「とにかく、桑原(武夫)、梅棹(忠夫)二氏の
談論風発ぶりはすごかった。
それも後に記すように全くの京ことばのおしゃべり」
(p3)

寿岳さんの月報はつづきます。

「その座談会・・・
今西錦司・梅棹忠夫・伊谷純一郎・上山春平という面々・・
今西・梅棹二氏は全くの京ことば、
伊谷・上山二氏は共通語という二パタンで
その座談会は形成されていて、
その京ことばの自在さに私は圧倒された。」

うん。ここから、司馬遼太郎と桑原武夫の
対談へともっていきたいのですが、今日はここまで。


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梅棹忠夫の京都。

2019-05-13 | 本棚並べ
梅棹忠夫著作集第17巻「京都文化論」。
巻末のコメント2は、森谷尅久氏の文。
そこで京都を評して、こんな箇所

「・・1960年代の前半までは・・・
残された文化資産を大いに活用しながら、
『京都』の健在を示し、早くも観光客
一千万人台を確保していた。
本や雑誌が売れなくなったら『京都特集』、
という出版界の神話が生まれだしたのも、
この前後のことである。・・」(p641)


さて、「梅棹忠夫の京都案内」。
まえがきは1987年に書かれおり。
その最後の方に、こうあります。

「・・・・じつは、わたしは昨年の三月以来、
両眼の視力を喪失して、自分ではよむことも、
かくこともできない状態にある。・・」

はい。そういう状態のなかで編纂されたのが、
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)でした。

ちなみに、
最近の私は、本を読んでると文中に引用されてる本に
興味をもちます。そこで読みを中断し本をネット検索。
少しでも安ければ迷わず注文する癖がついております。
そういう者からすると、「梅棹忠夫の京都案内」では
ところどころ、章の最後に効果的な書評を載せていて、
これが、私などにとっては、まことにありがたい(笑)。


おそらく、両眼の視力を喪失しての
苦肉の策として、そういう章立てをしたのかも
しれないのですが、私などにはそれが有難い。
しかも、ちっとも、ポイントのブレがない。


梅棹忠夫氏が「両眼の視力を喪失」してから、
以前書かれた文をまとめ、この一冊を編纂したのですが、
どのような京都が、浮かび、焦点をむすんでいたのか?
あるいは、京都自体が、視力の喪失に拮抗するだけの
魅力で迫ってきたのかもしれない。そんなことまでも、
「まえがき」を読みなおしながら思い描けるよろこび。



こうして、京都の三部作

「梅棹忠夫の京都案内」
「京都の精神」
「日本三都論――東京・大阪・京都」

が順次刊行されて、最終的に、
著作集第17巻にまとめられてるのでした。

著作集「第17巻へのまえがき」を読むと、
その順番を梅棹忠夫自身が書かれている。

これが梅棹忠夫著作集第17巻の、
まえがきと巻末コメントでした。

視力喪失後に編まれた「京都」。






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人力車と、京都。

2019-05-12 | 本棚並べ
梅棹忠夫著作集第7巻「日本研究」。
そこにある「『日本文明77の鍵』について」。
はじまりの解説には、
「この本は、1983年に
『Seventy‐seven keys to the civilization of Japan』
という表題のもと、英語版で出版された。さらに、
1988年には『日本文明77の鍵』という表題のもとに、
日本語版が刊行された。英語版が先行し、日本語版が
ずっとおくれて出版されるという、めずらしい経過をたどった本である。」
(p447)

この英語版まえがきを、梅棹忠夫が書いており、
そのまえがきに、人力車が出ておりました(笑)。

「・・・・なお外国には、現在の日本にも依然として
刀をさした侍がいて、人力車にのっているとまじめに
信じている人が数おおく存在する。・・・」(p449)


京都参りをした。お上りさんの私には、
なにげに、人力車が印象に残りました。

八坂の塔へあがってゆくと、
その塔の下に人力車があり、
客待ちをしておりました。
まあ、乗る人はいなかった。
ですが、京都に人力車は、映えますね(笑)。

八坂の塔から、円山公園まで
タラタラと歩いていると、
あれ、人力車の集車場みたいに、
何台もの人力車と車夫とがおりました。


さてっと、松田道雄著
「明治大正 京都追憶」(同時代ライブラリー)を
帰って来てからめくっていると、長塚節が京都へと
来る場面がありました。そこに人力車が登場します。
うん。せっかくなので、ながめに引用してみます。

「長塚節がやってきて、赤ん坊の私をだいてくれたのである。

父は漢詩が好きで、後年、国訳漢文大成を買いこんで、
寝るまえに唐詩選を読んでいた。
しかし日本の文学には興味をもたなかった。
円本の時代がきたとき漱石全集を買ったが、
小説の巻を二、三読んだだけだった。
父の本箱にあった唯一の小説は長塚の『土』であった。
・・愛読していた。茨城の風景や会話が出てくるのが、
うれしかったのだろう。
旅行が好きだった長塚は、西国に来るたびに、
父の所に寄った。・・・」(p17)

このあとに、人力車が出てきます(笑)。

「夏の午後、めずらしく母は私をつれて散歩にでかけた。
客がなくてこまっていた人力の車夫が、やすくするから
といって、東山見物をすすめた。父が案内してくれるのを
待っていては、いつになるかわからないので、
母は思いきって車にのった。
円山公園から清水のほうをゆっくりまわって夕方になった。

帰ってきておどろいたことに、閉めてあったはずの
表戸があいていて、家の前はきれいに掃いて水を打ってある。
家にはいると
『ばか、どこ、ほっつきあるいてんだ』とどなられた。
・・・・聖護院に私たちが住んだのは
明治42年4月から43年のはじめまでだったから、
長塚は42年の夏に京都に来たと思う。」
(~p20)

はい。外国人の人力車というイメージ。
次は、明治42年の京都の人力車でした。
あそこ辺の人力車にも歴史があるのだ。
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エイ。やあ。

2019-05-11 | 本棚並べ
本を、読まない癖して、
何で全集を買うかなあ。

ひとり、つぶやく。
全集を買いました。

梅棹忠夫著作集の全23巻を、
古本購入。送料共39800円。

ネット検索してたら、全集本の
一冊で、2万円の高値の巻あり。
それなら、全集を買った方がと、
ささやく、誘惑の声が聞こえる。

冷静に考えれば、全集読了の力量はなし。
それでも、39800円出すかなあ。

本を読了しないくせして、
本を手元に置いときたい。
読まないほど、夢膨らみ。
読まないほど読める気が。

まずは、ツバをつけるように、
全巻巻末と月報とを開きます。

さてっと、あわよくば、
この梅棹忠夫著作集の感想を、
ブログに掲載できますように。

興味はすぐに違う本へと移る癖して、どうか、
移り移って、この著作集へと戻れますように。
なんて、買ったときはいつもの殊勝な心がけ。




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草葉の陰から見ている。

2019-05-10 | 道しるべ
中西進・磯田道史「災害と生きる日本人」(潮新書)に

中西】 私は小中学生を対象に万葉集の出張授業を
してまして、その様子を『中西進の万葉みらい塾』
という本にもまとめました。・・(p61)


こうあったので、さっそく『中西進の万葉みらい塾』
を買って読んだのでした(笑)。
『みらい塾』を読んでいると、磯田道史氏との
この対談のことが思い浮んでくる。

たとえば、『・・みらい塾』の
この箇所などを引用してみます。

持統天皇のお歌

 神山に たなびく雲の 青雲(あおぐも)の
      星離れ行き 月を離れて

これから、中西氏は『青雲』について
(途中から引用しますが)、
B君に答えながら、こう語っています。

B君】 雲らしくない雲。

中西】 そう。空かもしれない、雲かもしれない、
そういう雲です。はっきりと雲といえない雲、
空かもしれないと思うような雲ということになりますね。
だから青い雲というのは、ずーっと遠くの雲のことです。
人間が大きな志を持つことを『〇〇の志』というじゃないですか。

Cさん】 青雲(せいうん)の志・・・?


中西】 そう、青雲の志。未来や遠くを望む気持ちのことです。
今、何か食べたいなとか・・・そんなのじゃなくて、
大きくなったらどういう仕事をしてやろうかとか、
たとえば、地球上から戦争をなくすような運動をしてやるとか。
大きいでしょう。そういうことを青雲の志という。
歌とは直接ではないけれども、青雲の志が人間にとって、
特に若いみなさんにとって大事だってこと。
これも一つ覚えましょう。
さてそのつぎ、遠くのほうの青々とした雲の中に、
その中に何かが行っちゃった。
何が行っちゃったのか?

Dさん】 ・・・魂。

中西】 そうだ。星からも離れ、月からも遠ざかって、
ずっと遠くへ行っちゃった。だれの魂だろう。

 ・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・

 ところでみなさんに聞きます。残念ながら、
おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなった人、いますか?
    ( 数人の手が挙がりました )

 そのおじいちゃん、おばあちゃんは今、
 どこにいるんだろう?


Hさん】 星。
Iさん】 ・・・わからない。

中西】 うん、おばあちゃまは星になってる。
そうかもしれない。星になってね、ずっと遠くで
キラキラ輝きながら、君を見てるかもしれない。
お墓にいるという人もいるね。
風になったという人もある。
『草葉の陰(くさばのかげ)にいる』
というのを聞いたことありますか?
亡くなって、どこにいるか姿は見えない。
けれども、いろんな考え方ができる。
そして、この歌の作者の持統天皇は、
大好きだっただんなさん、天武天皇の魂が
遠い空の彼方に行ったんだっていっています。
こういう考え方も一つできますね。
死んだ人がどこへ行くか、だれ一人知らない。
けれども、ずっと遠くへ行くんだと考えると
世界が広がりませんか? (p225)


こういうのを読むと、
磯田道史との対談に、そういえば、
という箇所があるのを思い浮かべます。
ということで、対談から引用。

磯田】よく『草葉の陰から見ている』と言いますよね。
『草葉の陰思想』とは、そもそも何なのかと考えこむ
ことがあります。死んだ人間は、もう現世を見ることは
できないはずですよね。なのにまわりの大人は、
亡くなったおじいちゃんやおばあちゃん、
死んでしまった友人知人の思い出話をするときに
『草葉の陰でどう思っているのかね』なんて、
噂話をする。

小さいころ『草葉の陰から見ている』と言われたあと、
死んだ人が草葉の陰からこっちを見ているような気がして、
一人で草むらを何度も、じっと見た覚えがあります。

中西】そういう意味深な言葉を幼いころに聞くと、
耳朶にこびりついて大人になって忘れられないものです。
『草葉の陰から見ている』という言い方は、
『だから悪いことは絶対にしてはいけない。
オマエが何をしているか、死者がどこかで
見ているのだからね』という戒めとして使われてきました。

『夢のお告げ』という言葉も
『草葉の陰から見ている』と似ていませんか。
異常体験をしたり、悪夢でうなされたときに、
日本では『神様が教えてくれるお告げだ』ととらえます。
『草葉の陰から見ている』とか『夢のお告げ』という
考え方は、古代から日本でずっと温存されてきたのでしょう。
(~p98)


この他にも、鳥の話とか、ウソの話とか、
『中西進の万葉みらい塾』を読んでいると、
そのまま『令和の宴』が続いてゆくような、
子どもたちから磯田道史さんへとバトンが、
渡されて宴たけなわとなっているような(笑)、
そんな楽しい読書となりました。  

 


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小中学生へ。「令和の宴」。

2019-05-09 | 道しるべ
小中学生と楽しむ「令和の宴」。

「中西進と万葉みらい塾」(朝日新聞出版)は、
2005年に出版され、今回2019年4月30日あらたに
新装版として出ておりました。それを買いました。

うん。バスの中で読みました。
活字も大きくて、読みやすく。
しかも、読後の印象が鮮やか。

このなかに、万葉集の「梅花の歌序」の、
その32首のなかの、一首(大伴旅人)が、
中西進塾で、とりあげられておりました。


う~ん。そこだけ引用するのは、
すこし、もったいない気がする。
ここは、同じ本の別の箇所から、
引用してみたくなりました(笑)。


「万葉の時代の人たちはだれでも、
道を歩いていて亡くなった人に出会うと、
必ず歌をよみました。『あ、死んでるな』
なんて、そっけない思いじゃない。
必ず歌をよんだ。うたいかけた。」(p204)


最初から「みらい塾」を順に読んでゆくと、
だんだんと、万葉集の奥行へと導かれます。

この本の最後は、山上憶良でした。
そこを引用。

「山上憶良は愛、死、貧乏、病気、そういう
人間としてのいろんなマイナスをテーマにして
歌をつくってきた人です。貧乏を題にした歌を
つくった万葉集の歌人は憶良だけです。
愛もそうです。・・・
日本人は愛というものを考えるのが下手なんです。
愛を一番深く考えたのはやっぱり仏教です。
・・・万葉の歌人の中に、
人間としての苦しみを乗り越えて、
やっぱり人間は子どもを愛していいんだと、
人間的な結論に達した人がいた、
そういう作品があることをよく
覚えておいてください。」
(p256~257)


はい。毎回。万葉集の歌一首からはじまります。
子どもたちと、皆で声を出して歌ってゆきます。
そして、子どもたちへ質問したり質問されたり。
中西万葉集解釈の懐の深さを存分に味わえます。

あまりにも、スラスラと読め、しかも内容充実。
これこそが、「令和の宴」なのかもしれません。
そう思える、手ごたえを読後に改めて感じます。



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松田道雄の京都本3冊。

2019-05-07 | 地域
松田道雄の京都本3冊。

「今日の町かどから」(朝日新聞社)
「花洛小景」(筑摩書房)
「明治大正京都追憶」(岩波同時代ライブラリー)

はい。手頃なお薦めは、
「明治大正京都追憶」で、これは
岩波新書「花洛」の改題として出ております。
こちらは、桑野博利さんの挿絵で、
その子供たちなどの人物描写も楽しめる一冊。

「花洛小景」は「松田道雄の本」全16冊の
14巻目でした。この巻が最終配本らしく、
巻末に「年譜」がそえられております。

松田道雄の京都本3冊。ここでは、
「『花洛小景』によせて」と題するあとがきを引用。

「この巻には昭和35年から昭和47年にわたって
京都新聞の夕刊に月1回のわりでかいた・・・
京都新聞は戦前は日出新聞といって、明治18年以来の
『郷土紙』である。・・・たのまれたときから、
なるべく京都にかかわりのあることをかこうとつとめた。」

なかごろを引用。

「『花洛小景』の文章はどれも、京都の街にすんで
いられない方には、たいして意味のあることでない
かもしれない。だが、京都に70年以上すんでいる私には、
全体をよみかえして、やはり自分は京都が好きなのだ
なあという思いをふかくする。
・・・私には生活上必要なことであった。
父も母も東国の人間で、生後半年の私をつれて、
死ぬまで京都に定住はしたものの、成年期までに
しみついてしまった東国の人間の生き方は、
とうとうぬけることがなかった。
ことばも京都のことばは使わなかった。
日常のことごとに京都の人の生き方になじめない
ものを感じていた。父と母とには、それが
日本人の土地それぞれの生き方であるとは思えず、
すべて東国の人間の人情を標準にしてみていた。
子どもの私たちにも人情において欠けてはならぬと、
おしえつづけた。
・・・が、京都の中で開業医として生活し、
京都の女と結婚して別の家をもつとなると、
それでは無理だった。生活のため、家の平和のため、
私は京都に適応せねばならなかった。
京都への求愛をつづけて、とうとう
京都が好きになったというのが、いまの状態である。
『花洛小景』の、京都に住まない方には
どうでもいいような話も、京都への求愛
としてよんでいただきたい。」
(p227~228)

はい、京都への求愛を、読めるたのしみ(笑)。
それが、そんじょそこらの京都ガイドとは、
異なる、松田道雄の京都本3冊。
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塩入(しおいり)。3冊。

2019-05-06 | 地震
「災害と生きる日本人」(潮新書)のはじめの方、
「塩入」について語られる箇所がありました。

中西進】 本来であれば宅地開発をやるべきではない
地域に建物を建てたせいで、東日本大震災の被災地で
被害が拡大しました。

磯田道史】 震災が起きた直後、宮城県沿岸部の
南三陸町にある小さな防災庁舎で、遠藤未希さんという
若い町職員が死の間際まで防災無線の放送を続けました。
町長を含め多くの職員が防災庁舎の屋上に避難したわけですが、
逃げ遅れた遠藤さんを含め、43人の職員が殉職しました。
悲しいことです。

そして、その防災庁舎が建っている場所の地名を見たところ、
『塩入(しおいり)』だったことに愕然としました。
そこは海抜1メートルそこそこの場所です。
昔から海水が入ってきた土地を意味する『塩入』という
地名の場所に町の防災庁舎が建てられていた事実は、
やはり、やりきれない。・・・・・(p35)


ここに『塩入』という地名が出てきます。
私のパラパラ読みの弊害が出てきました。
今日になって、あらためて
磯田道史の、新書2冊をめくり直すと、
あります。磯田氏は『塩入』について、
まえから、警告をされていたのでした。

ということで、磯田氏の中公新書の2冊から引用。
「歴史の愉しみ方」(2012年)と、
「天災から日本史を読みなおす」(2014年)と、
この2冊。

古い新書から順に引用。

「また被災地復興には、江戸人の知恵に学びたい。
江戸時代の領主は、津波の被災地を『塩入り』とよび、
五年も十年も年貢を減免した。思い切って10年無税に
するぐらいの誘導策をとらねば、壊滅した被災地に、
にぎわいは戻ってこない。昔の人はそれを知っていた。」
(p134)

もう一冊には、こうありました。


「・・・遠藤未希さんが最後まで呼び掛けて亡くなり
町長らが屋上の鉄塔手すりにしがみついて助かった。
三階建てのあの建物・・・
そこは標高1メートルに満たない土地。しかも地名は
『塩入』だ。江戸時代、津波高潮の被害を塩入とよんだ。
津波被害が繰り返される場所が、塩入もしくは
塩入田とよばれているのを何カ所もみた。
塩入のついた場所に防災庁舎を建ててはいけなかったのである。」
(p185~186)


はい。一度読んだだけでは、
気づかない言葉があります。
私は何を読んでたのだろう。
今に始まった訳じゃない(笑)。

繰りかえし読むこと。
繰りかえし書くこと。
その大切を改めて思うブログ更新でした。
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令和の学問の幕開け。

2019-05-05 | 道しるべ
はい。
「令和」への水先案内本といえば、
「災害と生きる日本人」(潮新書)
私は、これ一冊で、充分満腹(笑)。
中西進氏と磯田道史氏との対談本。


うん。お釈迦様の手のひらに乗って、
はるか、「令和」を遠望するような、
そんな気分にひたれます(笑)。

私など、この一冊で今年は十分満足。
あとは関連本へ手をひろげるばかり。

一箇所引用するのなら、
いま気になるこの箇所。

中西】学者はどこを目指し、なぜ論文を書くのか。
私は、論文を書いて社会的認知を得ることが、
学者の最終目的だと言っています。

せいぜい50人や100人しかいない
学者の権威者から認められることが、
学者の最終目的ではまったくありません。
・・・(p130)

磯田】歴史学に限らず、
学問には三つの段階があると思うのです。

第一に、自然科学であれ技術開発であれ、
人類がまだ誰も見ていない知見を発見する。・・
そういう発見を活字化すれば、誰も知らなかった
歴史の側面を知らせることができる。

第二に、自分が得た学問的知見を世の人々の
意識の中に浸透させていく作業があります。
『どうもこれは正しいようだ』という知見を
見つけたあとには、その知見を普及させて
世の中の現状認識を変更していく。
これが学問に取り組む者の第二段階の仕事です。

第三に、学問の知見が社会へ影響を及ぼすにあたり、
良い方向へ向かうように学者自身が
きちんとアフターケアをする。
学問にとって大事なのは、これら
三つの手順ではないかと思います。
(p131~132)


私は、学者ではありませんが(笑)。
気になるのは、大事な三つの手順。
しばらくすれば、しっかり忘れる、
私なので、注意してブログで指摘。
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磯田道史㏌京都。

2019-05-04 | 地域
京都参りをしたせいで、
京都が、気になります。

磯田道史・中西進という順か、
(令和で、順番が入れ替わり)
中西進・磯田道史という順か、どうかはともかく
この二人の対談集「災害と生きる日本人」(潮新書)
のなかに登場する京都が気になったのでした。
では、すこし前から引用。


中西】磯田さんはかつて茨城大学に勤めて
いらっしゃいましたが、東日本大震災の翌2012年、
浜松の静岡文化芸術大学に転勤しています。
勤め先を変えたのは、ひょっとして
南海トラフ地震や東日本大震災と関係していますか。

磯田】東日本大震災が起きたあと
『年をとってから防災に関する歴史の本を書いても、
そのときは間に合わないのではないか』と、
はたと気づきました。南海トラフが次に動いて
巨大地震が起きたとき、想定される
死者数が一番多いとされるのが浜松です。
そこで家族揃って浜松に移住し、
古文書を探して四年間、現地を歩き回りました。・・
(p12~13)

磯田】四年間の浜松での学究生活を終えて、
僕は2016年に京都へ引っ越してきました。・・・
(p25)


このあとに、京都の町屋カフェで、
見ず知らずのおじさんと出会い、
磯田さんが手紙のやりとりをする、
そんな経緯が、語られております。
それは、それとして次にいきます。


中西】私は『ウソ』という言葉が大好きなんですよ。
『ウソ』という言葉は実は
『アソ』(遊)と同じですから。
・・・ウソは偽りとはまったく違います。
偽りとは本当ではないことで、
ウソはあくまでも遊びです。遊びですから、
当たっているかもしれないし、
当たっていないかもしれない。
『それでいいじゃないか』で済ませるのが
素晴らしいところです。
これは教養であり、おおらかな文化ですよ。

磯田】中西先生や僕が籍を置く
日文研(国際日本文化研究センター)みたいなものですねえ。

中西】あはは。そうかもしれない。(p102~103)



磯田】中西先生や私だけでなく、
日文研(国際日本文化センター)という
梁山泊のような場所で学問に打ちこむ研究者の生態は、
一般にはなかなかうまく理解されにくいかもしれません。
知的な営みは、遊びに似ています。
働きながら遊び、遊びながら働く。
こうして僕たち研究者は、
一冊の新しい本を紡ぎ上げるのです。(p134)



中西】半ば言葉遊びのようでもありますが、
『歌(うた)』とは『疑(うたが)う』
『現(うたた)』と仲間の言葉でしょう。
『疑わしい』ものでもあります。
あいまいな感情を頭で考えこみすぎず、
とりあえず率直に感情を歌にしてしまう。
人間性の基本を歌にぶつける。・・・
(p248)


はい。「京都」へ、中西進の万葉集へ、
少し近づけたところで、ここまで(笑)。

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赤ん坊の、教え。

2019-05-03 | 好き嫌い
昨日、注文しておいた古本が届く。
松田道雄著「京の町かどから」(昭和37年)。

最初だけを、パラパラと読む。
とりあえず、この箇所を引用。


「診察室にやってくる赤ん坊をみていると、
いろんなことを教えてもらえる。

赤ん坊が四カ月になると
混合ワクチンの注射をするのだが、
この注射にたいする反応がみんなちがう。
何しろ産院から帰って以来なめるように
愛撫されてきたのだから、
いたい思いなどしたことがない。
生れてはじめていたい目にあわされたとき、
人間はどんな反応を示すものかというテストを、
予防注射の副産物としてやれるわけだ。
私のカルテには第一回百日ゼキ、ジフテリア混合
ワクチン0.5と書いた次にカッコして、
一分二秒とか十五秒とかいう時間が記されている。
これは注射したあと、赤ん坊がどれだけの時間
泣いていたかという記録なのである。
人間のもって生まれた反応のタイプが
こんなにはっきりでることは、他にあまりない。
しかも、その反応がひとりひとりみんなちがう
ときているから、いやでも人間のタイプの
多様性を信じないわけにはいかない。」(p12)

こうはじまる、7頁ほどの文なのですが、
このあとに、大人の多様性の例を示して印象に残ります。
次の文の題は「地蔵盆」で、こうはじまります。

「大文字がすむと京の町の地蔵当番は、いそがしくなる。」

「地蔵盆は子どもの祭典である。」(p19)


ふう。私はこれだけ読んでもう満腹。
先を読み進めなくなる(笑)。

そういえば、読んだことがないのですが、
松田道雄といえば「育児の百科」が有名。


さてっと本棚に、以前古本で買った
松田道雄の本「私の読書法」(筑摩書房)があった。
なになに、送料とも280円でした(笑)。
それはともかく、
未読なのでひらくと、「読書と私」と
題した4頁ほどの文に、こんな言葉が、

「たまたま、しばらくあわない人にあうと
 『いま何かいてはります』とたずねられる。
人は私が三枚の原稿をかくために十冊の本を
よまねばならぬことを理解してくれない。」(p45)


それなら、「育児の百科」を、
いつかは、読んでみたい(笑)。

コメント (2)
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京都修学旅行と、京都参り。

2019-05-02 | 前書・後書。
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社・昭和40年)は、
芸術新潮に連載されたようです。


振り返って、私の京都二日目は、
伏見稲荷へ、出かけたのでした。
ここは、外国人観光客のラッシュアワー、
といった感じで、登り口までいって、
そうそうに退散。それで、駅がちかくの東福寺へ。
こちらは、紅葉の名所とかで、今は、
ありがたいことに、人がまばらです。
ゆっくりとして、見てまわれました(笑)。


竹山道雄氏の本は、修学旅行の話からはじまります。

「京都や奈良にシーズンに行くと、
観光バスがあとからあとからひきもきらず、
高校生ぐらいの人々が
潮のごとくあふれでる。そして、また
潮のごとく去ってしまう。
 
しかし、その人々はただ名所に来て
あれこれに目を奪われるだけで、・・・・
自分の心に感ずるということもないようだ。・・
どこで何をどう見るかという指針をあたえるものはない。
研究的な専門書はむずかしく、煩雑な考証が多くて、
特別な人でなければ読んでも役にはたたない。

これはじつに惜しいことだ
と私はよく思った。」


はい。こうして竹山道雄氏の本ははじまるのでした。
うん。私の高校の修学旅行も、京都でした。それは、
それは「じつに惜しい」京都修学旅行をしたものでした。
と、今になって思い至る。そんな京都参りとなりました。

いまなら、高校生の僕とともに、あれこれ、
つきあいながら、京都をめぐれるのに(笑)。


けれども、高校生の僕は、聞く耳を持つだろうか?
今の僕なら、惜しい京都を読んでいけるだろうに。
ということで、京都をもうすこし書いていきます。


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