和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『初めてのケース』の航海を思う夏。

2019-08-13 | 短文紹介
VOICE9月号。
その巻頭言は、宮家邦彦氏。
うん。後半を引用しておきます。

「最近の日韓の一連のやりとりを見て思うことがある。
考えてみれば、今回の日本の対韓国措置は第二次大戦後の日本が、
『外国に対し強硬策を検討し、それを実施し、
 その結果をあえて受け入れようとした』
初めてのケースではないか。
これまでの日本は『平和国家』であり、
『国連中心』の『国際協調』をつねに重んじ、
自制に自制を重ね、対決的姿勢を回避してきた。
それが変わりつつあるのか。
  ・・・・・・・・
筆者は本誌四月号で、
『これからは当分、1930年代のように、
主要国の政治家が「勢い」と「偶然」と「判断ミス」
による政治決断を繰り返す時代に戻るのではないか』
『されば、日本もそうした前提で、いかなる変化にも
耐えうるような柔軟かつ戦略的な政策立案を、
短期間で行なう新たな意思決定過程をもつ必要がある』
と書いた。この考えはいまもまったく変わっていない。

韓国の不当な措置に日本は受動的、相互主義的に対応した
だけかもしれぬ。日本国内の嫌韓感情が頂点に達し、
政府として強硬策を取らざるをえなかったのかもしれぬ。
いかなる理由があろうとも、ついに日韓関係にも
『勢い』と『偶然』と『判断ミス』の時代が到来したのだろう。
しかし、不愉快ではあるが、日本は決して
戦略的思考を止めてはならない。・・・」
(p18~19)

はい。鳩山由紀夫や菅直人を首相に頂くことが
日本の『勢い』と『偶然』と『判断ミス』とを
どれほど象徴していることとなっていたか。

安倍晋三のつぎの首相を思い描きながら、
『不愉快ではあるが、日本は決して…』という言葉を噛みしめ、
『初めてのケース』の、つぎにくるだろう航海の前途を描く夏。

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知的生産術・知的格闘術。

2019-08-12 | 本棚並べ
今西錦司追悼文「ひとつの時代のおわり」のなかに、
『それはまるで知的格闘術の道場であった』と記す箇所があります。

そこを引用。

「・・・ミクロネシアを皮きりに、わたしたちは
1942年の北部大興安嶺、1944年から46年のモンゴルと、
たてつづけに大陸における学術探検を実施するのだが、
今西はつねにそのリーダーだった。青年たちに対する
今西の指導は徹底したものであった。
つねに、自然を直接に自分の目でみよ、というのが基本であった。

そして、直接の観察でえた事実をどう解釈するかを議論するのである。
わたしたちは探検家として行動しながら、
夜にはキャンプで猛烈に議論をした。
議論はフィールドだけではなかった。
京都においても、ことあるたびにあつまって議論をした。
議論はしばしば深夜におよんだ。

青年たちに対して今西はつねに対等に議論した。
わたしたちは論理をふりかざして今西にいどみかかった。
今西は若者たちに対して、なさけ容赦なくきりかえしてきた。
それはまるで知的格闘術の道場であった。

この知的格闘においては、
つねに自分の目でたしかめた事実とみずからの
独創的な見解が尊重された。だれがどういっているなど
という他人からの借りものの言説はもっとも軽蔑された。
この気風は、今西を中心とするわれわれの仲間のあいだでは、
のちのちまでもながく保持されているものである。」

この「知的格闘術の道場」ということで
ひとつ、私に思い浮かぶ箇所があります。

斎藤清明著「京大人文研」(創隆社)。
その第9章「多士済済」に

「・・・多士済済であった。
なかでも今西は、ひときわ異彩を放つことになる。・・
今西が研究所に入って間もないころ、『人文学報』第一号の
合評会があった。西洋部から出席していた今西は、
巻頭を飾っていた日本部の教授、重松俊明の論文
『身分社会の基礎理論』に対して

『これは学術論文ですか、それとも単なる報告なんですか』
ぶっきらぼうに言い放った。
『〇〇〇がこういうとる。×××によるとこうだ、などと、
そんな他人の説ばかりひいてきてるのを、
ボクらはペーパー(論文)とはいわへんのですけど』

合評会はシーン、としらけてしまう。
司会役の桑原もとりつくろいようがなく、弱ってしまった。
若い研究者に対してなら、厳しい助言になろうが、
ひとかどの学者に対してズケズケというのは、今西ならではのこと。

今西にとって、『事実はこうだ。オレはこう考える』という
研究者のオリジナリティーが何にも増して大切なのである。
今西の個性の強さといえばそれまでだが、新参の講師である今西の、
そんな辛辣な発言を認めるような雰囲気が、人文にはあった。

のちに加藤秀俊も、人文に来たばかりのころ、
今西にカツンとやられている。
入所して自分の研究を所内で最初に発表したときである。
E・フロムの『自由からの逃走』をもとに『国民性』研究について、
日本人もフロムのいう『サド・マゾヒズム的傾向』をもっている
のではないか、とか述べた。質問やコメントがひととおり終わると、
それまでブスッとしていた今西が加藤に向かって言った。

『おまえはものごとの順序を逆にしとる。
フロムはフロムでよろしい。しかし、フロムはどれだけ
実証的事実をもっとる。まして日本人についていうのに、
おまえはひとつも根拠になる事実をいってないやないか。
おまえにはまず他人の学説に基づく結論があって、
その結論を飾り立てているだけや。
学問というのは事実から模索していくもんで、
結論なんかすぐに出なくてよろしい。
これからは、事実だけをいうことにせい』

それだけいうと、今西はタバコに火をつけて横を向いてしまった。
・・・・加藤が立ちすくんでいると、助手の藤岡が、

『まあ、そういうことでしゃろな。では、これで』

と会を締めくくった。今西流学問のすさまじさの洗礼を受けた
加藤は、のちに今西の社会人類学研究班に積極的に加わっていく。」
(p142~144)

ここに、『今西流学問』とある。
「座談 今西錦司の世界」(平凡社)の
最後にある「今西錦司の世界を語る―――解説にかえて」で
雑誌に12回連載された座談会を、最後に解説しているなかで
梅棹忠夫は、その連載座談会への読後の違和感を述べております。

「たとえば、私なんか、
文学を読み、哲学を語りというようなことは、
全部今西さんからたたき込まれたことなんです。
文章が今日書けるようになったのも、
こういう座談会でひとかどのことをしゃべれるようになったのも、
全部今西錦司という人物によって開発されたことなんだ、
そういうことを言いたいわけなんです。
それを単に学者として、今西学というところへ閉じ込められると、
ちょっと私の気持からそぐわないものがある。
もちろん、学問として非常に大きなものも
私は今西さんからちょうだいいたしました。
しかし、どうもそれだけではないんやね。」(p361)


はい。
「知的生産の技術」には盛り込めなかった、
「知的格闘の技術」の現場を思い描きます。




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おっさん椅子にすわって本読んで。

2019-08-11 | 本棚並べ
梅棹忠夫による、今西錦司追悼文「ひとつの時代のおわり」。
これを、またひらく。

一読忘れられない箇所があり、
まず、そこを引用。

「・・大興安嶺やモンゴルの探検行でも、
キャンプ地に到着して、わかい隊員たちがテントの設営や
食事の準備にいそがしくたちはたらいているあいだ、
今西はおりたたみ椅子に腰かけて、くらくなるまで読書をした。
今西は予備役の工兵少尉であったから軍装の一式はそろえていた。
探検隊でもつねに軍用の将校行李をたずさえていたが、
そのなかにはいっているのは大部分が書物だった。
朝になって若者たちがテントの撤収をおこなっているあいだも
かれは読書をつづけた。冬のモンゴル行においてもそうであった。
零下20度の草原で西北季節風がびょうびょうとふきながれるなかで、
かれは泰然として読書をつづけていた。・・・」


この箇所が鮮やかだったから、
「座談 今西錦司の世界」(平凡社)の
「解説にかえて―――今西錦司の世界を語る」に
同じ場面が語られている箇所に出会え、うれしくなる。
忘れないうちに、引用しておくことに。

河合】・・・今西さんは野人で、野性味があって
という点ばかり強調されているでしょう。

梅棹】違う。本質的都会人で、大文化人で大教養人だ。
ここのところ見のがしたら、これはわからんですよ。

河合】今西さんが大変な読書家であったということですが、
宮地(伝三郎)さんが、ときどきぼくらに忠告したことを
思い出します。『いまの若い人は今西さんの外面しか見とらん。
非常に行動的で、何か直感的、衝動的で、そういう
だんびらを振り回しているのばっかり見ているけど、
あれくらい本読んでいる人はありません。
それを見習わんといかん』といって。
だから、知っている人は知っているわけですね。

梅棹】野人であり行動人でありというようなことは、
むしろポーズなんですよ。まあそのポーズもかなり成功したと思うけど、
たとえばこういうことがある。
今西さんと蒙古で一緒のときに、われわれはウマで行くわけで、
そのあとを荷物を積んだ輸送隊の牛車がついてくる。
その牛車から今西さんの行李を降ろしたら、
中にぎっしり本が詰まってる。
それでみんな若いもんがテント張って炊事の準備やらしてる間、
おっさん椅子にすわって本読んでるわけや。
その読んでいる本が、哲学の本とか、社会学の本とか、
そういうものばっかりなんです。大変な人ですよ。

森下】ただし、今西さんが読んでる本の中には、
ぼくと一緒に蒙古に行ったときはね、
砂丘の中でテント張って三日ばかりおったけど、
そのときもっぱら『風と共に去りぬ』を・・・(笑)。

梅棹】そういう人やねえ。そういうことの
知識をひけらかしたりは絶対せん人やけど、
大変なバックグラウンドがあるということは間違いない。
(p371)


はい。今週は、この鼎談をゆっくりと味わえる(笑)。


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北山であり、丹波の山であり。

2019-08-10 | 本棚並べ
「座談 今西錦司の世界」(平凡社・昭和50年)が本棚にある。
納品書には、平成24年12月に送料共・380円なり。

古本で買ったままに、本棚に収まっておりました。
今が読み頃と、最後の方をめくる。
「解説にかえて―――今西錦司の世界を語る」
鼎談で、森下正明・梅棹忠夫・河合雅雄の3名。

うん。読めてよかった(笑)。
はじまりは河合雅雄氏でした。

河合】 私、きょう、司会というよりも進行役を仰せつかった
わけなんですが、今西さんの『今西錦司の世界』という座談会
が雑誌『マニア』に12回連載されて、それが今度、単行本に
まとめられる。で、その解説なり、入門書の役目をするような
座談会を、というのがきょうの主旨なんです。・・・・

この司会役は、二か所にわたって、
今西さんと京都との関連を指摘しておりました。
その二か所目を引用してみます。

河合】生粋の日本人、生粋の京都人だということなんですね。
ぼくはやっぱり、それが西陣の生まれというところにつながる
ものがあると思うんです。山がアルプスではなくて北山であり
丹波の山であり、京都とその周辺というものと密着した文化的
土着性みたいなもの―――文化的に成熟したほんものが心の髄まで
入り込んでしまったというようなこと・・・。

梅棹】ぼくも同じ京都の西陣の生まれやから、
それはほんまによくわかります。つまり西洋何するものぞ、
というほど気負うたものじゃないけど、たとえば、やっぱりこれは
北京とか洛陽とか、そういうところに匹敵するところなんだ。
一個の大文明のセンターだという意識は、これはありますわ、
やっぱり。そこによそのものが導入されて少し花が咲いてきた。
べつに勝負というほどのことはないけれど、
ここはここで勝手なこと言うてもよろしやないかという、
その意識はあるな。

河合】今西さんは探検の座談のところで
『探検の原動力はライバル意識だ』ということを
はっきり言っていますね。西欧との対決というところで
・・・それが成立する土台があったんでしょうね。

梅棹】・・・・・・もちろんそれは
客観的な力は少々及ばないかもしれないけれども、
意識としてはハーバードでありオックスフォードだという、
それがありますわね。何を言うたってかまへんやなか。
ところが、そこへ行って学んできた人はあかんのや、
それが言えんようになって帰ってくる。
われわれには知らん者の強味みたいなものがあってな。


森下】今西さんという人は、
こういう初期の時代から考えてみると、
いわば何ものにもとらわれない一つの見方というものを
最大限に求めはったわけやけど、しかしそのプロセスとしては、
新しい考え方というものを、ほかの人の考え方であっても
わりあいにフリーに取り入れようとする、
そういう側面はありますね。・・・・
(p374~375)



今西錦司への追悼文で、私に印象に残っているのは、
梅棹忠夫の「ひとつの時代のおわり」がありました。

この鼎談を読んでいると、その追悼文の意味の深みへ、
どんどん踏みこんでゆくような緊迫感があるのでした。



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えたもの。

2019-08-09 | 本棚並べ
梅棹忠夫著作集の第22巻は「研究と経営」。
はい。第一巻から順に読むのは御免なので、
それではと、最終巻(笑)。

そこに、「人文でえたもの」という文がある。
その中に、「研究会」と題する1頁ほどの文。
はい。楽しそうなのではじめとおわりを引用。

「研究会は原則として毎週ひらかれた。
だれかひとりがひとつのテーマで発表をおこない、
それについて活発な討論がおこなわれた。
この種の研究会においては、だれもがなんの遠慮もなしに
意見をのべることができるようでなければならない。
 ・・・・・・・
この種の研究会の雰囲気は、そのリーダーの
パーソナリティーに負うところがはなはだおおきい。
桑原研究班は桑原武夫教授のひとがらをおおきく反映していたし、
今西研究班は今西錦司教授の
個性的な指導力に負うところがおおきかった。
わたしは人文科学研究所の研究班において、このふたりの
強烈なリーダーシップからまなぶところがおおかった。
わたしが自分自身の研究班を主宰するようになってからは、
わたしなりに全力をつくしたが、独特の気風をつくりだせたか
どうかはわからない。それはむしろ
コア・メンバーの構成からいっても、
今西研究班の遺産の継承であった面がおおきい。
ともあれ、研究会を主宰することによって、
わたしは学問的にもおおきな収穫をえたとともに、
このそれぞれに個性的な研究者たちと、長年月にわたって
持続的な知的会合をもつことができたことを
たいへんありがたくおもっている。
この研究会はわたしにとってほんとうにたのしいものであった。」

はい。この「人文でえたもの」の【注】で紹介された本に
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」がありました。
さらに【注】には
斎藤清明著「京大人文研」と、
「人文科学研究所五十年」の2冊も紹介されている。
はい。わたしは、藤本ますみさんの本に味をしめたので、
こちらも古本で注文することに(笑)。

いままで、梅棹忠夫氏の【注】での、
本の紹介にハズレがないので、たのしみ。
もっとも、ハズレがなくても、購入して、
読まなければ、何にもならないのでした。
ネットの古書購入が、安く簡単なことが、
かえすがえすも、ありがたいことです(笑)。

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ヘバるときは、ヘバったらええ。

2019-08-08 | 本棚並べ
「桑原武夫紀行文集」全3巻の古本が届いている。
古ほんや板澤書房(秋田市大町)。
1200円+送料510円=1710円なり。

その3巻目は、山岳文集でした。
そのまえがきから引用。

「私は決して謙遜な人間ではない。
しかし、登山について私は謙遜な気持でいる。
登攀もスキーもちっともうまくはないのである。
それがいささかの虚名を博したのは運命というのほかはない。
もし若い私が、
登山に稀有の才能と異常の情熱をもつ青年たち、
やがて世界の登山史、探検史に不朽の名をのこすべき
いくたりかの青年たちに出会い、その仲間に
加わらなかったとするならば、
私は何一つまともな仕事はなしえなかったであろう。
にもかかわらず私は、人生のもっとも楽しい幾日かを
山の中で生き、登山から学問、生活について
多くの貴重な影響をうけた。本書は私にとって
その幸福のささやかな記念碑である。」

年譜をひらくと、
桑原武夫54歳の1958年(昭和34年)の6月から9月まで、
チョゴリザ遠征隊長としてカラコルム(パキスタン)へ。
チョゴリザ登頂に成功。
とあります。

なぜ、54歳だったのか?
チョゴリザ登頂を読みはじめると、AACKの説明がある。

「AACKというのは、京都大学の山岳部出身者で組織したクラブ、
京都大学学士山岳会の略称である。28年前に創立したのだが、
その中心は今西、西堀栄三郎、四手井綱彦、そして亡くなった
髙橋健治などであった。私は三高山岳部以来、この仲間に
加わったのである。AACKは、大学を出てからも山に登ろう、
というのが創立趣意だが、ヒマラヤ遠征が究極目標だった。
・・・計画は、第二次大戦前の諸情勢にはばまれ・・
ヒマラヤに行けなくなったが、仲間はカラフト、冬の白頭山、
興安嶺などに、つぎつぎと遠征した。・・・」

そしてチョゴリザ遠征隊長の依頼が来る。

「1月31日の夜、今西錦司から電話がかかって来たのは、
もうかなりおそかった。アフリカへたつ前にちょっと話したいから、
これから行くという。彼は2月2日、京都をたって、ゴリラの生態研究
の予備調査のために、アフリカ大陸を横断することになっている。
・・・突然、私に、この夏のAACKのチョゴリザ遠征に隊長として
ぜひ出てくれ、と切り出した。・・・」

「私は固辞した。・・だが今西は出発直前、西堀は南極におり、
四手井は関西原子炉設置問題の中心で、しばらくも日本をあける
ことはできない。・・・・
それに副隊長には加藤泰安を出すから、遠征の現場の仕事は
大丈夫だ、ともかく引受けてもらいたいといわれる・・・
それにAACKの委員会といっても、事業の難易と私の実力は、
おそらく私以上に客観的に知っている友人ばかりだ。・・・」

「AACKはすでに何回も遠征隊を出しているので、
何がどれほど必要で、何はどの商社で、またその連絡は
どこを通して、等々といったことは、およそ見当がついている。
すると出発前の隊長の任務は、パキスタンと日本の官庁との
折衝と募金、つまり渉外が主要任務となる。・・・・
そして何とかなるだろう。『優』まではいかずとも、
『良』は取れるだろう。カラチへ着いてから山へ入るまでの
間の現地交渉は、私の英語はひどく貧弱だが、これも
体当りで『良』は確保したい。さてキャラバンに入ってからが
問題だが、これは・・・『不可』にならないことを目標に
してやってみようと考えた。」

「登山にせよ、学術調査にせよ、海外遠征の成否の半ばは、
自国を出発する際に決定しているといわれる。
あらゆる意味で準備が十分でなければならず・・
そして何より金が必要なのだ。・・・
日本の保有外貨は余裕がないので、遠征のための
海外渡航の許可を取るのは容易でない。
遠征の意義、その日程、こまかな予算書を大蔵省、
外務省に提出して口頭説明するのだが、なかなか
スラスラとはまいりかねる。もちろん東京在住の
副隊長以下が精を出してくれるのだが、行きづまると、
『あす来てくれなければ、もうダメです』などと
電話がかかる。何べん東京へ飛んで行ったことか。
加藤の家においた東京の事務所とは毎日定時連絡をするが、
そのほかにも臨時にかけることがあり、電話料は
出発までの10万を越しただろう。
・・・・
いろいろな雑業があって、考えてみれば
遠征計画は一つの企業であり、私はその中小企業の
社長のような位置にあった。・・・・
過労で脚がだるい日など、不安がきざすのだった。
今度の山旅は炎天の下、氷雪の上、二十日はつづく」

南極探検の『宗谷』からの電報も入る。


「『チョゴリザノ ニュース キイタ
 キカノゴシュツバ トテモウレシイ
    ニシボリ ヨシイ キタムラ』

『宗谷』からの電報は私を元気づけてくれた。
私は西堀と一ばん話したかった。
私がからだのことで一、二弱気なことをいうと、
―――うん、それでええ。
君が出るということが一ばん大事で、一ばんええのや。
ヘバるときはヘバったらええ。
君なら、ヘバったということが、
ちゃんと意味をもってくるからな。
ただ年のいったものは、一ぺんヘバると、
もう一度もち直すのがむつかしい。
仕事はみんな若いものにやらせて、
ラクにするの工夫が肝心や、
それは利己主義とは違うぜ。

そして馬のあるかぎり、必ず馬に乗ること、
それも初めて乗るのだったら、何かスポンジのような
ものをハート型に切って、サルマタにぬいつけたのを
用意して行くとよい、Mのところが引っかからぬように、
ちゃんと切っておかなければだめだ、などと教えてくれた。
そして帰国早々の多忙の中から広い顔をきかせて
準備をたすけてくれた。」

このあと出発してから
「暑さともどかしさ」と題する文のはじまりを
引用して、私の引用はここまで(笑)。

「カルカッタで発動機の小故障のため、三時間、
空港で待たされた。その暑さ。ここは最近
125度を越し、一日に死者が25人も出たという。
早くエア・コンディションの飛行機の中に逃げこみたい。
・・・・」
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すき間が埋まってくる。

2019-08-07 | 本棚並べ
「季刊人類学」1970.1‐1創刊号の古本を手にする。

梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は1969年に出版。
その次の年に、この「季刊人類学」が刊行をはじめておりました。

気になったのは、創刊号の座談会。
題して「『季刊人類学』がめざすもの」。

こんな箇所が印象的でした。

梅棹】 ・・京都には社会人類学、文化人類学の
講義がないでしょう。だからコースを通じて育ってきた
という人はひとりもおらんのです。それでいて、
なんとなく漠然たる関心をもっている。
大部分は実際のフィールド体験をまずする。
そのときに自己変革が起こるんです。
その自己変革の記録をこしらえようという、
そういう気持は非常に強いと思うのです。

われわれは、
やはり日本の文化の中で育てられた人間ですから、
フィールドにでたら、
必ずそこの文化とのあいだに、ギャップが存在する。
向こうの文化が、丸の文化で、
私のもつ日本の文化は、三角の文化だとする。
丸と三角を重ねたとき、すき間が起こる。
だんだん、フィールドワークを進めていくうちに、
いろいろな人間関係を通じて、そのすき間が埋まって
くるのですね。実はそのすき間が埋まってくる過程、
それが文化なり社会の認識である。

その過程を記述し、考え、洗練したものが
文化人類学・社会人類学である。
なんか、そういった気持なんですがね。」
(p129~130)


梅棹さんが自動車の運転免許の話をすると
また、話がひろがってゆきます。

飯島】 自動車ならいいんですが、
早い話がトラクターの運転できる農学部の先生が
何人おりますか。それはなんていったってナンセンスですよ。
自分でトラクターを運転できないものがなんぼ農業の機械化
といっても訓詁学ですよ。


梅棹】・・・たとえば村武さんの言われた整理の能力とか、
ファイリング・システムを使いこなす能力とかは明らかに低い。
ということは、研究能力が低いということなんです、実際。

 ・・・・・

梅棹】・・潜在的能力ではなくて、顕在的、つまり現在
どうかということなんだから、もし条件さえよかったら
偉いやつになっただろうと、そんな仮定法的能力は意味がない。
現に、どれだけの研究が遂行できるかということです。
そういう能力を開発する努力があまりにも低い。

 ・・・・・

梅棹】それは今度の雑誌でも、ぼくはそういうことに、
かなり意を用いてもいいと思うのです。たとえば
論文を書く能力を磨くとか、
データを処理する能力を磨くとか
いくらでもやることがあると思う。
修士論文が日本語として読むに耐えない
というようなことは、ぼくはやはりおかしい
と思うのですよ。何学であれ、学問をやる
基礎能力が低いというのはそういうことです。
これは若い人だけと違う。・・・・・
(~p144)


思い浮かぶのは、
小川壽夫(元岩波書店編集者)の
「『知的生産の技術』が誕生するまで」で
こう書かれていることでした。

「先生は『これはわたしの学問研究の一環です』
と強調されていた。話は、個人の書斎における
技術にとどまらなかった。情報検索、インタビュー、
座談会、共同研究、図書館システム、情報管理など、
行動や組織の知的生産に及んだ。
『いずれ『続』を書かねばなりません』と笑っておられた。
くりかえし話題になったのは、
秘書の重要性、日本語タイプライター、
個人研究の共有化、だったと思う。
対話しながら自問自答し、迷ったり横道に入ったり、
だんだんと考えを煮つめていく。」
(p102・「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」)


はい。私は
「知的生産の技術」だけしか読んでおりませんでした。
今年はじめて、その裾野に降り立ったような読書です。
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韓国人の伝統的なケンカ作法。

2019-08-06 | 産経新聞
8月6日産経新聞のコラム「加藤達也の虎穴に入らずんば」。
その最後の箇所を引用。

「筆者は韓国駐在当時、
長男と長女をソウル日本人学校に通わせていた。
学校は国際交流に熱心だったが、
大学生になった長男が振り返るには、
現地校の文化祭に出向いた際、
生徒が並んで窓から顔を出し
『独島はわが領土』の歌で出迎えられたという。
・・・挑発にはそろいの独島シャツを着るもの
などがあったが、
日本の生徒はおしなべて黙っていたという。
『友好的』な交流の場で
いきなり挑発される状況が理解できず、
領土や近現代史で日本の立場の教育も
主張する訓練も受けていないからでしょう、
と話してくれた先生の解説が印象的である。

この夏、残念な思いをした小中高校生にはぜひ、
その原因を納得いくまで調べ、考えてみてほしい。

国際社会には国同士の約束を守らず、国内の都合を
他国に押しつける国がある事実が直視できれば、
失われた交流と同等かそれ以上に、
価値ある夏休みの研究になるはずです。」

はい。雑誌「正論」9月号が、
資料をていねいに配して、
小学生には、むずかしいかもしれませんが、
中高生には、チャレンジしてほしいテキストとなっております。


さてっと、同じ産経新聞8月6日に
黒田勝弘の「緯度経度」から、短く引用。

「韓国人の伝統的なケンカ作法に

 ①大声で威張り相手を威嚇する
 ②周囲を巻き込んで味方につける
 ③有利な争点を見つけ論点をずらす 」

「これまで韓国の対日外交における最大の
圧力カードは、歴史がらみの被害者意識を
利用した反日感情、反日運動だった。
『これが見えぬか!』といえば必ず悪漢(日本)が
『ははーっ』といってひれ伏す水戸黄門ドラマの
『葵(あおい)の御紋の印籠』と同じである。
文政権も今回、手慣れたそれを最大限活用するはずだ
・・・・」

文政権についても指摘しておられます。

「彼らは経済的センスより
人心掌握(扇動?)という政治的、
イデオロギー的センスにたけている。
反政府ロウソク・デモをあおり、
それを『民心』だとして
朴槿恵前政権を追い出し誕生した政権である。」

はい。同日の産経新聞オピニオン『正論』欄は
龍谷大学教授・李相哲氏。
その最後の方だけでも引用。

「・・韓国はこれまで
日本との間に紛争が起こった時、
事実関係を争うのではなく、
論点を歴史問題にすり替えるか、
『被害者』になりきって国際世論に
訴える手段に頼ってきた。

今回も真っ先に打ち出した解決策は
米国に仲裁を働きかけることだった。
そして世界貿易機関(WTO)で訴え、
この事案とは関係ない、東アジア
地域包括的経済連携(RCEP)の
事務レベル会合でも日本の不当性を訴え、
国際的な支持を得ようとしている。」

うん。この夏、
小中高校生にお願いしたいのは、
韓国と日本との「ホワイト国」に関する
事実関係を押さえて調べて頂きたい。

それには、雑誌『正論』9月号が
テキストの資料として役立ちます。
きちんと薦められる文のありかを、
示せるというのは嬉しいです(笑)。


もどって
「加藤達也の虎穴に入らずんば」
にこんな箇所がありました。

「日韓関係の悪化は
明らかに韓国側の反日教育によるところが大きく、
大人社会の反日同調の影響を受けやすいのもまた、
多感な子供である。・・・」
 
本来、日本の大人にお薦めの「正論」9月号。
酷暑に、冷静に判断をくだせる。ありがたさ。



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「ホワイト国の資格」がよくわかる。

2019-08-04 | 本棚並べ
雑誌「正論」9月号。
うん。ありがたい。これ一冊で、現在の
韓国状況のもつれ具合がよく読み解けます。


「特集・韓国崩壊寸前」
  不正輸出案件リスト全文掲載

以下、表紙の特集の活字を並べるだけ(笑)

西岡力   安倍首相が信用しない理由
古川勝久 「ホワイト国」の資格なし
李相哲   すべては文在寅大統領の責任
呉善花   奈落の底に落ちる「非民主韓国」
田村秀男  経済破綻も日本になすりつける
阿比留瑠比 役立たずの日韓議連


売り言葉に買い言葉ではなく
この雑誌一冊を、読むことで、
日本と韓国の状況がよく呑み込めました。
この9月号は、ありがたいなあ。
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あとでかくしてしまうので。

2019-08-03 | 本棚並べ
はい。めずらしく、
この一週間分の私のブログをひっくりかえすと、
7月28日(日曜日)から連続で、古本で届いた、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」を
とりあげていたのでした(笑)。

うん。その「知的生産者たちの現場」は楽しかった。
一体、どうして楽しかったのかと思うわけです。

朝日新聞社の「桑原武夫全集」の第4巻「人間認識」。
その解説は、鶴見俊輔でした。解説のはじまりは、
こうなっておりました。


「学者の肖像として、桑原武夫の
 文章ほどおもしろいものを、私は知らない。

学術論文は、それをつくりだした心の動きを、
あとでかくしてしまうので、のこされた文書から、
それをつくった人にさかのぼってゆくことはむずかしい。
人間のほりおこしという点だけでくらべるとすれば、
文学史よりも学問史のほうがむずかしく、
作家論よりも学者論のほうがむずかしい。
・・・日本の学問の歴史は、
中国とヨーロッパの学術論文の翻案の歴史として
かたづけられてもよい側面をもっており、そのために、
学問をつくる人間、その個人としてまた集団としての
心の動きを描く仕事は、軽んじられて来た。しかし、
人間とその自発的な興味を媒介としなければ
日本の学問の歴史がなりたつわけがない。

いつマルクスが輸入されたとか、
いつウェーバーが輸入されたとかいう歴史とは別に、
学風の歴史が考えられなくてはならないだろう。
そういう問題をたてる時、桑原武夫の伝記的な作品は、
地図のない文化の領域を歩くための無上の杖となる。」

はい。「桑原武夫全集」の解説や月報を中心に
まとめた「桑原武夫伝習録」をつぎに丁寧に読んでみます。


それはそうと、
藤本ますみさんは1966年から1974年まで
梅棹忠夫研究室の秘書をしておられました。
その間の1969年に「知的生産の技術」は出ておりました。
ありがたい。たのしい一週間の読書となりました。

うん。これで終っては何をいっているのか?
わからなくなってしまいます。
桑原武夫について、河盛好蔵は「悦ばしき知識」
と題した短文を月報にかいておりました。
そこから引用。

「全く桑原君ほど豊富な知識を無造作に、
少しももったいぶらずに読者に大盤振舞してくれる
学者も珍しい。これは桑原君の知識の源泉が
きわめて水量が豊富で、常に滾々と湧き出して
いるからであろう。

桑原君の専門はフランス文学ということになっているが、
世間によく見られる、つまらない知識を守銭奴のように
こつこつと蓄めこんで、その利息で食っている所謂
専門家とは全く類を異にしている。・・・・・
なにもかもを洗いざらい人に示してその博学を誇示する
ことは彼の最も好まないところで、充分に吟味した
材料に庖丁の冴えを見せたものしか食膳に供さない。
したがって単なる知識しか求めない読者には、
彼の苦心のあと、もしくは彼の腕の冴えは
ともすれば見逃されやすいのである。・・・」

はい。今日で、一週間つづいた、藤本ますみさんの
「知的生産者たちの現場」からの引用はおしまい。
おしまいなので、最後にこの箇所をあらためて引用。

「原稿がなかなかすすまなくて困っているとき、
先生は苦笑しながら、こんなことをもらされた。
『ぼくの文章は、やさしい言葉でかいてあるから、
すらすら読めるし、わかりやすい。だから、かくときも
さらさらっとかけると思っている人がいるらしい。」
(p240)


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古新聞。十年分の晴れ舞台。

2019-08-02 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」。
その第四章「きりぬきと規格化」は、
まず、新聞の切り抜きの小学校の思い出から
はじまっていたのでした。

「小学生のころ、
新聞に『良寛さま』という連載小説がのっていた。
わたしたちは、担任の先生から、毎日その一回分を
よんできかせてもらうのがたのしみだった。先生は、
その小説をきりぬいて、ながくつなぎあわせ、
まき紙のようにまいて保存しておられた。
良寛和尚の人がらとともに、
新聞にはきりぬいて保存するにたる部分があるものだ
という事実が、ながくわたしの記憶にのこることとなった。」

第四章は、こうしてはじまっておりました。

さてさて、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」の第三章に
「新聞切抜事業団」という箇所がありました。

こうあります。

「そのころ、先生(梅棹)は家で日刊紙を三つとておられた。」

「新聞は待ったなしにやってくる。どんどんたまっていく新聞を、
日付順に並べて一カ月文をヒモでくくる仕事は、奥さまの役割の
ようだった。・・梅棹家の物置きは、たまりにたまった先生の
古新聞に占拠され、パンク寸前のところまできてしまった。」

「その古新聞の山が片づくチャンスが、ついにきた。
1967年のことである。加納一郎先生の古稀記念事業に、
その門下生たちのあいだで、今日までの日本の探検の全成果を
まとめて出版しようという企画がもちあがったのである。
・・・計画は最初『探検講座』と呼ばれ、具体的にことが
進行するまで、事務連絡は当然のことながら、研究室でひきうけた。

その探検講座の資料の一部に、先生は自分の新聞を提供しよう
と考えられた。たまった新聞は、十年分はゆうにある。
このなかから、探検や冒険に関連のある記事を切り抜いていけば、
立派な文献資料ができる。探検ジャーナリスト、加納一郎先生を
編集委員の筆頭に立ててつくる探検講座には、絶対必要な資料で
はないか。講座づくりにつかったあとは、公共のものにして、
みんなで利用するようにしたらいい。
出版社に交渉したら、切り抜きに必要な経費は、
編集費の一部として出していただけることになり、
物置きに眠る古新聞は、いよいよ日の目を見ることになった。」

フィールド・ワークの経験もある福井勝義さんが
まかせられて、その作業ははじまりました。

「話がきまればあとは早い。切り抜いてもらいたい記事、
取りたい記事が両面にあるときはどちらを優先するか、
アルバイト料はいくらにするかなど、いくつかのことをとりきめた。
研究所の裏にある・・部屋が、このために少しスペースを提供した。
アルバイトをしてくれる・・若者たちの手で、
梅棹家から古新聞がはこびこまれ、台紙、合成糊、赤色マジックペン、
新聞名や日付を台紙におすハンコ、スタンプ台、カッターなど
消耗品は・・届けてもらった。いよいよ作業開始である。
気になっていた記事の指定は、選定基準をもとに、
まず学生たちが赤で記事をかこみ、そのあと、福井さんが
記事のとりこぼしがないかチェックする。さらに
切り抜きと台紙にはりつける作業は、
梅棹家のお子さんと若い学生さんたちで
手わけしてやるときまった。
・・・・
用事でときどき裏の作業場へ行くと、
手をまっ黒にして新聞をめくり、赤マジックでかこみをつけ
ている若者たちを見た。梅棹家では家族の見終わったあとの
新聞を、奥さまがきちんとたたまれ、積みあげていられるの
を見たことがある。・・・・

それにしても、先生が十年分の新聞を持ちこたえてきた
執念には、おそれいる。・・・・
これらを途中であきらめないで持続できるエネルギーは、
どこからわいてくるのであろうか。」
(p206~212)

さてっと、梅棹家のお子さんには、
この技術、どのように記憶にのこったのでしょう。
ちなみに、
岩波新書で「知的生産の技術」が出たのは、
ほぼ同じころの、1969年でした。



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本の解説のてんまつ。

2019-08-01 | 本棚並べ
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)。
昨夜読み返していたら、こんな箇所がある。

「研究室に通うようになって、二年目ぐらいだったろうか。
先生はある本の解説をかくことをひきうけていた。

しめきりまではかなりの日数があったのだが、
約束の日になっても、原稿を送ることができなかった。
・・その本は、全集のなかの一冊だったから、
発行予定日はきまっていて、すでに広告などで発表されている。
でも、先生の解説がかきあがってこない。」
(p222~234)

このあとは、秘書の視点から、原稿が出来上がるまでの
状況を時系列でたどっております。
そうして、この場面の最後は

「どちらにしろ、このときは原稿ができて・・よかった。
その後、何回かこういうことがあり、一週間ねばって
いただいたのに、できなかったこともあった。
カンヅメ状態を試みたが、ついに完成を見なかったときもある。
あのときはできたのに・・・」(p234)


はい。何となく読み過ごしていたのですが、
ちょっと、この箇所が気になったのでした。

ヒントは、
「研究室に通うようになって二年目ぐらい」と
そして、「全集の中の一冊の解説を・・」の二か所。

ちょうど、朝日新聞社の桑原武夫全集が出たのが
そのころです。
桑原武夫全集全7巻の第7回配本が昭和44年3月30日発行とあり。
第7回配本は、第7巻目。その第7巻の解説が梅棹忠夫でした。


もどって、この解説が出来上がらない状況を
藤本ますみさんは書いておいてくれました(笑)。

「めったにないことだが、いろいろと悪条件が重なると、
先生はきょうのようなむずかしい顔つきになる。
たいていは、原稿の執筆が思うようにすすまない、
疲れがたまって体の調子が悪くなる、前の仕事が
すすまないうちにあとの約束が追いかけてきて
二進(につち)も三進(さつち)もいかなくなる・・・と、
こんな悪循環がかさなってしまったときである。

原因は、すべて自分にあるのだからどうしようもない。
短気な人なら、まわりの者にあたりちらすところだが、
自制心の強い先生は、内にぎゅっとおさえて、
この窮地を脱出すべく、苦しみに耐えている。
その表情が、このつらそうな、こわい顔であった。」(p229)

こういう箇所を読んでから、
おもむろに、桑原武夫全集7の解説を読む贅沢(笑)。

第7巻は、登山に関する文があつめられておりました。
梅棹忠夫の解説は、
登山を知らない方々から、もろに顰蹙を買うかもしれない、
そんな微妙な箇所へと、果敢な断定をくだしてゆきます。

ということで梅棹忠夫の解説を引用。

「登山は、知識人のする仕事である。
大文化人でなければ、遠征隊の指揮などとれない。
京大学士山岳会には、そういう大文化人のリーダーが
続出した。・・・京大学士山岳会というのは、
人間形成という点では、やはりすぐれたリーダーの
大量養成所であったというべきであろう。


リーダー桑原武夫は、そこから出てきた。それは、
チョゴリザ遠征隊長としての作戦行動において、
すぐれた指揮者であったばかりではなく、かれの本拠、
京大人文科学研究所における研究活動においても、
みごとに発揮されたのである。
この研究所の共同研究は、すでにあまりに有名である。
・・・ひとくせもふたくせもある学者たちをあつめて、
ひとつのまとまった研究にもってゆくことがどんなに
むつかしいか、それはすこしでも研究ということを
知っているひとなら、すぐわかるだろう。
これは、単なる書斎的文化人でできることではない
こういうところに、遠征隊長に要求されるのと同質的な
リーダーシップをみとめることは、登山家の我田引水であろうか。
わたしどもには、桑原さんが登山家のリーダーであったからこそ、
これができたのだろうという気がする。」

こうして、解説は、大胆な結論へと導いてゆきます。

「・・・・人文科学研究所の共同研究班には、
文学者のほかに、哲学者、心理学者、歴史学者、経済学者、
社会人類学者、さらに農学者までがくわわっている。
その多数の専門のことなる人たちの協力によって、
ひとつのプロジェクトが推進されているのだ。
山岳部出身の桑原さんには、共同研究のありかたということが、
根本的なところでわかっていたのであろう。
単なる、文学部フランス語学・フランス文学出身の
桑原武夫の発想ではなかったのではないか。

共同研究の意味をたかく評価し、それを推進することにかけては、
桑原さんはきわめて熱心であった。その背後には、
このような大学山岳部―――ひいては京大学士山岳会でのありかたと、
そのなかでの今西さんや西堀さんとの交友が、大きい意味をもって
いるとおもわれる。平衡感覚の発達した桑原さんは、
その広い交友のなかから多くのものを吸収して知識の幅をひろげ、
さらに天才的リーダーたちの資質を吸収して、
共同研究のリーダーに成長してゆかれたのではないか。
こういう背景がなかったとしても、桑原さんはもちろん
偉大な学者になられただろうが、そのときはどうも、
すばらしく頭脳の明晰な文化人というイメージしか
出てこないような気がする。そして、そういう人なら、
世のなかにたくさんいるのである。・・・・」


ちなみに、桑原武夫全集全7巻がでたあとに、
3年後の昭和47年に補巻が出ております。
そちらの解説は、司馬遼太郎が書いておりました。

あとは、昭和56年に「桑原武夫伝習録」。
こちらは、梅棹忠夫・司馬遼太郎編となっており、
桑原武夫全集の解説と月報の文がまとめられております。
う~ん。ここまでにします(笑)。



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