和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

型にはまらない茶花。

2023-01-15 | 短文紹介
「大村はま国語教室」第4巻のはじまりに、
10箇条が並んでいます。気になったのが第5と第6。
その箇所を引用。


「 第五に、気軽に読み、根気よく読みつづける力、根気よく聞き入る力。
  第六に、気軽に筆まめに書き、根気よくまとめあげる力。      」


はい。大村はま先生の国語教室を知らなかった私は、
今年の一年かけて、大村はまさんの本を開くことに。

思えば、気楽に読み、気楽に書きというのは身近でしたが、
『根気よく』を知らず人生をぼんやり過ごしておりました。

でもしょうがない、いままで『根気よく』してなかったし、
この根性は直せないだろうなあ。今からでも出来ることを
するしかないじゃない。と思うのでした。

え~と。ここから花の話。古本で買ってあった
堀宗凡著「茶花遊心」(マフィア・コーポレーション。1987年)を
本棚からとりだす。そのあとがきは、こうはじまりました。

「 老 西山氏は近くの茶店での偶然の出会いの人である。
  彼の手持ちのモノクロのネガはちょうどこの茶花遊心
  をとるだけ残っていた。

  何もない茶室で彼は『 茶花をいけなさい、私がうつします 』
  といい出した。且て雑誌『主婦の友』のいけ花専門のカメラマン
  であったから、その後一年、彼とは活花をおいて
 『 イエス、ノー 』の外にはいつも何も語っていない。
  かくとり終って三月後他界された。すべては
  彼の胸中に秘められた人生仕上げであった。・・・    」


はい。この本は、1ページごとに茶花の写真があり、
堀氏の文があるのでした。ふられたページ数は397ページ。
うん。185ページには『野趣』とある。文はこうはじまります。

「 淡々斎は茶花を活けるには習った花はうまくないと、言われた。
  自分は教えられるまま何流も習わず終ってしまった。

  花は野にある如くと利休はいった。
  露もつ如くばらり、はらり、ほろほろ ・・・・・    」

ちなみにこのページの茶花の写真の左には説明がありました。

 「 花 / とりあし升麻、紅忍冬、木槿、操の木
   器  /     唐物蝉籠 山水のれん        」


はい。堀氏の茶花の写真を見て、引用した文をうつしていると、
最初の大村はまさんの十箇条のはじまりが思い浮かぶのでした。

「 第一に、型にはまらない、のびのびとした態度を育てることである。
      思うぞんぶん、ぐんぐんと個性を発揮する力をつけ、
      独創的な個性的な表現を心がけ、また、それを
      味わったり喜んだりするような力をつけることである。  」




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花を聴く。花を観る。

2023-01-14 | 絵・言葉
柄にもなく、お正月は松を飾りました。

年末、主なき家の庭にあった松を切りました。
鉢植えの松がそのままになっていて鉢が割れ、
そのまま根をはり大きくなりはじめてました。
切った松は家に持って帰り、前の鉄柱に結わえて、
下の切口がきになるのでプラスチックの鉢に入れ、
年末にいただいた枝ぶりのよい南天を下にかざり、
竹の葉もかざり、即興の門松がわりとなりました。

思いっきり切った松は、まだまだありましたから、
家の中では剣山にさし水をはって飾りとしました。

家の中の松は、まだそのままにしてあります。
はい。思い浮かんできたのは、生け花でした。

ということで、花が語りかける瞬間のような場面を引用することに。

河井道著「わたしのランターン」(恵泉女学園)
このはじめの方に、病身の父のことがでてきます。

「 ・・その後も彼はとうとう本当の健康体にならなくて
  二十歳になるまでは半病人のようであった。

  けれども、病身ということはまたよいこともあった。
  主治医や、彼を毎日教えに来る先生が、いろいろな
  物語や伝説を話してくれた。父は、日本の古典や和歌に
  専念するゆとりを得たし、また茶道や活け花のけいこを
  する時間ももてた。

  また紙や絹や藁で手芸品をつくるのも楽しみであった。
  けれどもわけても一番の大きい楽しみは、庭にあった。

  花や苔、鳥やなく虫、また小石や庭石さえも、友とした。

  このような趣味は、一見、女性的であるように見えるが、
  神官の職は、風雅な教養を必要とするので、
  実際上にふさわしいものであった。

  後年ある時、わたしが野の花をびんに押しこんだのを見て、
  父がわたしをたしなめたことがある。わたしは、

 『 これは花瓶でもないし、花だって特別いい花ではないのです。
   ただちょっと道端でつんできただけなのですもの 』

  と、口ごたえすると、父は、

 『 野の花でも、栽培した花でも、花は花、
   安いものでも、高いものでも、花いけは花いけ 』

  と言った。そして、

 『 かためてぶち込んだら、あつくるしくて、
   息づまりそうだろう。葉を茎からおとしなさい。
   こちら側に花をいく分ひき上げて、茎を曲げてごらん。

   ちょうど露がおいて、風がそよぐように見せるのですよ。
   自然の姿に見えて、涼しい感じを与えなくては、いけない 』。

 いまでも、わたしは野花が、安ものの器におしつめていけてあるのを見ると、
 あの父の言葉を、初めて聞いた時のままに、ありありと思い出す。 」
                         ( p41~42 )

はい。これはもう、花が語りはじめた瞬間のように私には思えます。
うん。ここは、もうひとつ引用を重ねることにします。

「 朝花の水をかえる。
  花をトップリと桶の水の中につけて、花びんの水をかえて、
  さて花を一本ずつ少しクキを切って挿す。

  花はいきいきとして、また美しさを増す。こうして、
  クキのさきをポツンと切る度に耳にひびいて来る声――

 『 毎日、少しずつクキを切るんだとさ。
   そうすると花がよく保つそうだよ。
   そしてね、一分ぐらい、
   花を水につけるんだとさ。

   だから切る前に水につけておいて、
   一本ずつさきを切って活けるんだね。 』

  大変な発見をしたように、私に話した夫の声がよみがえる。  」

 ( p17 村岡花子エッセイ集「腹心の友たちへ」河出書房新社 )


はい。花を買うことは、まあありませんが、時には、
貰い物のお裾分けのように花を頂くことがあります。
そのままに、筒形の花瓶に投げ入れておくのですが、
この花を語るお喋りがきまって聞こえてきそうです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私(大村はま)の好きな話。

2023-01-13 | 短文紹介
そういえば、と思い浮かべたのが『仏様の指』でした。
さて、どこにあったのか、大村はまの本をさがします。
そんなに何冊も、読んでいないので、みつかりました。

大村はま著「新編 教えるということ」(ちくま学芸文庫)p154~157
「教えることの復権」(ちくま新書) p150~151
「大村はま国語教室」第11巻(筑摩書房) p245~247

うん。私には、分からないなあと、思っていた箇所です。
では、引用。

全集の第11巻では、
「 私はかつて、八潮高校在職のころ・・ 」とあります。

文庫では、この箇所が、こうはじまっておりました。

「 終わりに、私の好きなお話をご紹介したいと思います。
  私はかつて、都立八潮高校(当時、府立第八高女)在職のころ  」

うん。ちょっとしたことなのですが、並べてみました。
後は、適宜引用してゆきます。

「 奥田正造(おくだしょうぞう)先生の毎週木曜の読書会に参加していました。・・ 
  先生は私が今日までお会いした先生の中で、いちばんこわい先生でした。 」

あるとき、先生と二人きりになってしまった。と続きます。

「私は、どうしてよいかわかりませんので、下を向いてもじもじしていますと、
 先生が一つのはなしをしてくださったのです。 」

うん。なんだか、古臭いような話なので引用を憚られるのですが、
ふいに、この箇所を引用してみたい気分になりました。
では、引用をつづけます。

「それは『仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、
 一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。

 そこはたいへんなぬかるみであった。
 車は、そのぬかるみにはまってしまって、
 男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。
 男は汗びっしょりになって苦しんでいる。
 いつまでたっても、どうしても車は抜けない。

 その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらっしゃいましたが、
 ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっと
 ぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった。 』

 という話です。

『 こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。
  男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。
  自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、
  その車を引いていったのだ。 』

 こういうふうにおっしゃいました。そして、

『 生徒に慕われているということは、たいへん結構なことだ。
  しかし、まあいいところ、二流か三流だな。 』

 と言って、私の顔を見て、にっこりなさいました。
 私は考えさせられました。

 日がたつにつれ、年がたつにつれて深い感動となりました。

 そうして、もしその仏様のお力によってその車が引きぬけたことを
 男が知ったら、男は仏様にひざまずいて感謝したでしょう。
 けれども、それでは男の一人で生きていく力、生きぬく力は、
 何分の一かに減っただろうと思いました。

 お力によってそこを抜けることができたという喜びは
 ありますけれども、それも幸福な思いではありますけれど、

 生涯一人で生きていく時の自信に満ちた、真の強さ、
 それにはるかに及ばなかっただろうと思う時、

 私は先生のおっしゃった意味が深く深く考えられるのです。  」


大村はま先生の、授業を読みはじめると、
細部にわたって知るほどに、どうしても、
この話が何やかやと思い浮かんできます。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町工場と漁師と星野博美

2023-01-12 | 本棚並べ
NHKの朝の連続ドラマは、町工場のお話。
え~と。題名は何でしたっけ?

それはそうと、町工場といえば、
星野博美著「コンニャク屋漂流記」(文芸春秋・2011年)が
わたしには思い浮かぶ。この本のはじまりにこうありました。

「・・私は町工場の娘であり、漁師の末裔である。
 
 祖父は外房の漁師の六男で、祖母はやはり外房の農家の次女だった。
 祖父が東京に出て町工場を始めた・・・・
 在京漁師三世、あるいは漁師系東京人三世といった感じだろうか。

 体のどこかに漁師の血が流れていることは感じる。
 祖父の祖国(外房)で暮らしたことはなく、
 祖父の母語である漁師語は喋れないが、聞けば意味はわかる。

 時々独り言を言う時、漁師語が飛び出して
 自分でもびっくりすることがある。

 またわが家の常識が外の世界ではまったく通用せず、
 実はそれが漁師の常識だったと驚かされたことも
 一度や二度ではない。・・・

 私にとって、祖父の存在はとてつもなく大きかった。・・  」( p8 )


こうしてはじまるのが「コンニャク屋漂流記」でした。
その印象が鮮明だったので、

星野博美著「世界は五反田から始まった」(ゲンロン叢書・2022年)
を買うことにしました。はい。未読です。
その「おわりに」にはこうありました。

「・・大五反田エリアが工場地帯として急変貌を遂げ始めた大正4年から、
 100年と少しがたった。祖父が上京したのがその翌年で、わが家は三代かけ、
 一世紀にわたって五反田界隈と付き合ってきたことになる。

 父が完全に仕事をやめて製造業から足を洗ったことは、
 思いのほか大きな喪失感を私に与えた。
 1997年に工場を閉鎖した・・・・

 そこに製造業があったからこそ、祖父は外房から五反田へやって来た。
 その製造業という柱が消滅してしまったいま、体内の血液が急に薄く
 なって体がふわふわするような、妙に心細い気持ちがしている。  」
                 ( p359~360 )


うん。もどって「コンニャク屋漂流記」の前半から
漁師の箇所を引用しておわります。
祖父の手記を引用しながら書かれている箇所です。

「 祖父と父が一回大げんかをしただけで、
  家族全員泣き出してしまうような家だったらしい。

    うちの母等はいつも朝早く神社や祈祷所に行き、
    大漁の出来ます様、お祈りして居ました。

    漁師の家では朝、神棚へお灯明上げ、又仏壇にお線香上げ、
    一日の無事、又大漁する様にお祈りするのが常です。
   
    私も何十年も前から神棚仏壇に水、御飯、線香上げて
    手を合わせて居ますが、小さい時からのならわしです。

    家族も子供も、朝は機嫌よくしなければならないのです。

  なぜここまで毎日無事と安全を祈るのかといえば、
  漁師の勤務先が『板子一枚 下地獄』の海だからだ。
 
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  私は幼い頃のことを思い出した。
  私はとにかく機嫌の悪い子供で、
  自分でも何が理由か全然わからないのだが、
  とにかくいつも何かに対して怒っていた。

  そんな私の仏頂面を見るたび、父は
  『 一体全体、何が気に入らないんだ。子供は笑うのが仕事だ! 』
  と雷を落とした。

  いまになってようやく、その意味がわかる。
  
  妻は夫の無事を祈り、子供は機嫌よく父親を海へ送り出す。
  それが漁師の家族の、仕事だったのである。

  そしてその家風が、形を変えて私の時代にも生きていたのだった。 」

                         ( ~p68 )
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恩師の年賀葉書。

2023-01-10 | 地域
うん。私にも中学校で忘れられない先生がいました。
国語の先生で、杉村先生といいました。

もう20年以上前に、子供の中学校の広報誌に
載せたいからと自由題で、急きょピンチヒッターとして
注文がきました。その際の文がとってありました。

たまには、そんなのから引用させてください。

「・・私の忘れがたい恩師は、○○中の先生でした。
『夕鶴』などを教えてくださった国語の杉村〇〇先生。

廊下をペタペタと底の堅い教員用のつっかけで、
音をたてて歩く先生でした。

ボンクラな私は、国語の授業とは、このようなものだろうと、
うかつにも思いこんでいました。ところが、
高校で国語をうけてもつまらない。
何でほかの先生はこんなにつまらないんだろう、と思っておりました。

杉村先生の国語の魅力に気づくのに、自分なりにまわり道をして
時間がかかりました。

さて、現在の話です。3年前偶然に杉村先生の奥さんと話す機会にめぐまれました。
杉村先生は昭和49年に42歳で亡くなっておられます。
奥さんの三恵子先生は、もう退職まじかで〇〇小学校の校長先生でした。

その当時の文章を読ませてほしいとお願いしておいて、取りにうかがうと、
風呂敷に包んでありました。お線香の匂いがしました。
三恵子先生は、亡くなってから、その資料を仏壇の下に包んで置かれ。
忙しさも手伝って、いまだに落ち着いて触れる気にならないとお聞きしました。

その資料からひとつ引用させていただきます。
それは、亡くなる前年に同僚にあてた年賀葉書の文面です。
『教室で』とあります。

 『 生徒たちは活字と格闘し
   むんむんと新しい世界に飛躍します。
    ・・・・・・
   なに?なぜ?とどん欲な生徒の息吹が
   無限に教室と私の心に流れます。

   人間のために学ぼう
   人間の心を大切にしよう。
   心あることばでいつまで語ろうと思います。
   母国語の心のことばで
   それを大切にしようと思います。   』

この年賀葉書の文面は、奥さんも知らずに。
たまたま、宛名不明で戻ってきたので読むことができたそうです。
杉村先生らしい偶然だと思い。そういうこぼれでたような
偶然に感謝して読ませていただきました。  」


ちなみに、この文は、最初の依頼の字数に合わせて書いたのですが、
広報委員の方からあとで、収まりきらないので半分にしてほしいと、
依頼され、この文を半分に削って掲載されました。掲載文は、
自分でも何をいっているのやら、わからない文になっておりました。
はい。20年以上すぎてから、この文をブログに引用するなんて、
思ってもみないことでした(笑)。

はい。私の大村はま先生への興味は、
どうやら杉村先生という下地があり、
自然と繋がっているのだと思います。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成人式。中学校卒業式。

2023-01-09 | 道しるべ
今日の1月9日は成人式。そうカレンダーにあります。

今日寝床で、思い浮かんできたのは、
中学校の国語の先生大村はまでした。


昭和22年に義務教育として新制中学校が全国にできます。
その中学校に、大村はまは国語教師として赴任しました。
氏の講演(1970年8月)のなかにこんな箇所があります。

「 教師は専門家ですから、やっぱり生徒に力をつけなければだめです、
  ほんとうの意味で。こうした世の中を行きぬく力が、優劣に応じて
  それぞれつかなければならないと思います。・・・・

  中学におりますと、
  『 これで一人前の日本人として世の中を行きぬけるか 』
  というのが、生徒を社会に送り出すときの私の気持ちです。

  非常に悲痛な気持ちで送り出します。
  『 これで、一人前の日本人として激動の中を生きていけるだろうか 』
  と思います。

  私は卒業式の時、若い時は別れるのが悲しくて泣きましたが、
  今はこの人たちの生きていく世界が目に見えて、
  かわいそうで泣けてしまいます。

  『 どんな苦しみの中を越えて、
    この人たちは生きていかなければならないか。
    それにしては、いかにも力をつけなさすぎた  』
  と思うのです。

  生徒は高等学校へほとんどいきますが、
  高等学校は別の世界です。義務教育でもないし、年齢も違っていますから、
  中学校で与えられなかったものを、高等学校で与えられるものではありません。
   ・・・・

  脳細胞の発達の方から勉強してみても、中学の2年から
  3年の初めをもってもう頭脳のいちばん大切な開発は終わりです。
  あとは鍛えることだけしかできないのです。

  中学時代につかなかった癖は、永遠につかないと、
  大脳生理学者の時実(ときざね)利彦博士もおっしゃっています。

  ですから、この世を行きぬくだけの
  良い癖をつけることができたかと思いながら、
  みんなが一人ずつ卒業証書をもらいに出てくるのを見ていると、
  心細さと、申しわけなさと、かわいそうなのと、それから
  私の予期しなかったどんなことに出会うのかと思うと、
  なにか胸がいっぱいになってしまいます。・・・・     」

  ( 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 p60~62 )

  
  こういう中学校の頃のことって、
  ボンヤリと、ちょうど成人式の頃から、
  思い浮かんでいたような気がします。ある先生のこととか。
  はい。二十歳ぐらいでは、ちっとも言葉にはならなかったけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

来客二人。

2023-01-08 | 地域
昨日は、連休を目安に、泊りがけで二人の来客。
夕飯は、吟醸酒の飲み比べ、楯の川酒造の2本。
冷凍してあった、サザエ・伊勢えび。それにクジラのたれ。
イカ大根にもつ煮、イカの刺身。6時から11時を過ぎる。
4人して、まんべんなく喋れて、たのしめました。

二人の来客は、太平洋に上る朝日を見に、
早朝歩いてでかける。

私が起き出したのは、7時過ぎ。
朝食のあとにコーヒーを飲んだせいか調子悪い。
昨夜の酒で胃が荒れてるかも以後気をつけよう。

二人の来客は、朝食後またひと寝入り。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英文科と園芸科。

2023-01-07 | 他生の縁
平川祐弘の「英語塾と予備校の過去と現在」と題する文。
産経新聞のオピニオン(2022年12月27日)のなかに

気になる箇所があるのでした。

「 河井道(1877~1953)が米国留学から帰国して、
  50過ぎで創立したキリスト教主義の英語塾だが、
  後に女子農業専門学校として寮生活をさせた。 」

「 娘は神奈川県伊勢原市にあった園芸科の寮で暮らし
  ・・・・惜しいことに園芸科は廃止された。   」

ここに、英語塾と女子農業専門学校とあり、
伊勢原市にあった園芸科ともあるのでした。

ネット検索で、その園芸科の推移がうかがえます。

1943年 高等部に園芸科を増設。

1945年 恵泉女子農芸専門学校設置認可
1947年 名称を恵泉女学園専門学校と変更し、
    農芸科及び英文科設置
     ・・・
1950年 短期大学 英文科、園芸科開学
1965年 短期大学園芸生活科 伊勢原へ移転
1986年 短期大学英文科   多摩に移転

2005年 恵泉女学園園芸短期大学を廃止

 はい。これで園芸科とは縁が切れたのかと思いきや

『 2013年 大学人間社会部 社会園芸学科開設 』とあるのでした。


なんだか。英文科と園芸科という取り合わせが気になりまして、
もうすこし河井道を辿ってみたくなります。

ということで、古本で注文したのが

 河井道著「わたしのランターン」(恵泉女学園・2011年翻訳)
 河井道著「『恵泉』巻頭言集」(恵泉女学園・1999年)

英文科は度外視して、私には園芸科が気になります。
はい。英文科と園芸科との結びつきも気になります。
それに焦点があえば、輪郭がはっきりしてくるかも。
はい。なんだか楽しみ。河井道と園芸科のつながり。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塾と園芸科。

2023-01-06 | 産経新聞
産経新聞2022年12月27日のオピニオン『正論』は、
平川祐弘氏が『英語塾と予備校の過去と現在』と題して書いてました。

うん。一読印象に残っていたのですこし引用することに。

6段ある文の最初の段には、こうあります。

「 能力別教育反対が建前の文科省官僚も子供を塾へ通わせている。 」

こうして、自身の昭和20年代のことを記しております。

「 私も塾で教えた。・・大学院有志が・・
  学期中は日曜日(夏休み中は毎日)、
  数百人の高校生に受験科目を教えた。 」

はい。4段目には、その生徒をとりあげるなかに

「 恵泉女学園の生徒も目立った。
  個性があり、英語力がある。・・  」

はい。ここから『恵泉女学園』へと話しがひろがり
そこが、はじめて知ることなので印象に残りました。

「 塾の草創期、指導者の個性が刻印され、熱気を帯びる。
  恵泉は河井道(1877~1953)が米国留学から帰国して、
  50過ぎて創立したキリスト教主義の英語塾だが、
  後に女子農業専門学校として寮生活をさせた。

  70年前に教えた生徒は(ここは、平川氏が塾で教えた生徒のこと)
  河井女史の謦咳(けいがい)に接した最後の世代だから、
  キラキラしていたのだろう。

  学園の雰囲気はたちまち変わる。
  娘(平川氏の娘さん)は神奈川県伊勢原市にあった
  園芸科の寮で暮らし、五月の学園祭でメイ・クイーン
  に選ばれ、女王の冠を着けて野外で踊ったが、
  惜しいことに園芸科は廃止された。  」

このあとに『河井道』にふれられております。
河井道は

「 伊勢山田の神職の娘だが、
  父は維新後の生活になじめず、一家は北海道に移住、
  道はミス・スミスの宣教師の塾で苦楽を共に生活した。  」

そうして、最後には、岡本嗣郎氏の本を必読文献としてあげてます。

気になっていたので12月28日に注文し、新年になって届く。
 岡本嗣郎著「終戦のエンペラー」(集英社文庫)。
 送料とも320円。滑らかな文章で読みやすそうです。

はい。平川氏の新聞の文の最後を引用しておくことに。

「 9人の生徒を中核に創られた恵泉(けいせん)は、
  昭和の初め畳敷きの英語塾だったが、いつか、
  ひっそり世界を照らすランターンとなった。  」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賀正。

2023-01-05 | 地域
昨年、年賀はがきを書かず。
今年、届いた年賀はがきに、
返事の手紙やら、葉書やら。
毎年同じような寝正月です。

昨日、風もなくよい天気だったので、
主なき家の倉庫の屋根の修理に行く。
今日は腰がいたい。

昨年末に、トタンの剥がれあとがあり、
年末で、ケガをしないようにあと回し。
はい。その箇所を4日(水曜日)修理。

なんか、毎年修理からはじまっているような気がしてきます。
さてっと、今日が今年初めてのブログ書き込み。
GOOブログを読ませていただくのも今年が初め。
本年も昨年同様よろしくお願いいたします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする