後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ロマンティッシュ・シュトラーセの町々(4)Dunkelsbuhl、その旧市街の写真

2011年10月20日 | 写真

ヨーロッパを車で旅をしていると時々中世時代そのままの町や村を通過することがあります。

このDunkelsbuhlはシュツットガルトからローテンブルグへ通った折にいつも通り過ぎる町で、ロマンティッシュ・シュトラーセに沿った中世そのままの町です。

町に入ると下の写真のように狭い道を自転車や歩行者がゴチャゴチャと通っています。車は注意深く徐行しながら、中世以来のデコボコな石畳の道路を走ります。

旧市街には、まん中の写真のような古いホテルがあります。

何度か通過していると一番下の写真に見るようなお祭りがあって、旧市街地区は通行禁止になっていることに往生したこともありました。城壁の外側を急拵えの回り道を通って大きな道へ出ました。

ドイツの中世の町々の旧市街の多くは高い城壁に囲まれていて、良く昔のままに保存されています。鉄道の駅は城壁の外側に作ります。この旧市街の外側に新しい住宅やビルを作り、新市街を作ります。従って中世の町と近代の街が並んで存在しています。旧市街には毎朝、農民の開く朝市があります。スーパーマーケットや大型量販店は存在しません。それらは城外の新市街地区にあるのです。

日本では古い街は取り壊して、どんどん新しい建物を作ります。わずかに木曽路の馬籠宿や妻籠宿、そして奈良井宿など、そして会津の大内宿が例外的によく保存されているに過ぎません。この違いはドイツ文化を深く理解するとき重要なことと思っています。

下に3枚の写真とDunkelsbuhl市の市長さんの挨拶文を掲載致します。

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Welcome to ...

..... Dinkelsbühl on the Romantic Road

Dinkelsbühl is simply enchanting! Every day of every year, guests from all over the world are overwhelmed by the charms of one of Germany’s most beautiful medieval towns. Wherever they look, visitors encounter living history rather than the raucous attractions of a fun park. 

But Dinkelsbühl is more than just a fairy-tale town bearing witness to the Middle Ages, and it’s more than an important magnet for tourists situated in the heart of the Romantic Road. Dinkelsbühl is an attractive location for business, it has good educational facilities, and it is a popular residential area. Dinkelsbühl is the headquarters of the Romantic Road Association, and its international flair contrasts with its picturesque tranquillity in the Franconian-Swabian countryside.

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以下省略します。続きは、http://www.dinkelsbuehl.de/ISY/index.php?call=englischに御座います。


このブログを読むと夫婦仲がよくなります!

2011年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログを読んで下さる方々へ、私はいつも深い感謝を致しています。そこで少しでも恩返しをしたいと思っています。

そこで読めば良い気分になって元気が出るような内容のものを時々書きます。

その他にもいろいろ工夫しています。その一例は、「読めば夫婦仲か良くなる」ような内容のものを意図的に書いています。その効果を上げる秘訣が一つあります。

その秘訣とはウソでも自分達の夫婦仲は最高に良いと書きます。年老いても新婚時代のように仲が良いと書きます。この時大変重要な事があります。それは夫婦仲の良いことをチラッとほのめかすだけにとどめる事です。書き過ぎては逆効果です。

家内がぼんやり写っている写真を一枚だけとか、一行だけ家内がいっしょに行ったとか書きます。それで充分なのです。一緒に旅をしながら夫婦喧嘩をしたり、趣味の良し悪しで論争をしたり、子供や孫への不満や愚痴を言い合ったりしていることは絶対に書きません。

すると写真1枚や一行の文章を見て、我々の夫婦仲が良いと想像してくれるのです。読者は本当に有難いものです。

そのように想像してくれた読者は自分のことを振り返って、自分達も夫婦仲が良いことに気がつきます。そして一緒にレストランへ行ったり、小さな旅をします。年をとっても何時までも新婚のような関係になるのです。

実例を2つ示します。

先日、感動的なペンション・ボーンフリー・・・その3つの魅力 という題目の記事を掲載しました。読者の方々に機会があったら是非ご夫婦で行ってみて下さいというメッセージを暗示的に入れておきました。

するとジャンさんから以下のようなメールを頂きました。

======ジャンさんからのメール========

藤山 様、   紅葉が一段と鮮やかになり、秋も深まりました。
SNSで奇遇を得た方々と月日を経てコンタクトが出来ますのも藤山様のブログの存在という励みになる素晴らしい母艦があるからです。

Img_0588 10月17日ボンフリーに、主人と行ってきました。気配りの行き届いたお食事、佇まい、オーナー様のお人柄もご紹介下さった通りでした。
正直、この料金でよろしいのでしょうか??と思いました。
私はわんこを飼っておりまして、なかなか一緒に食事をする処がありません。
お電話で確認してキャリーバッグに入れテラスでランチを楽しむ事が出来ました。
テラスの張り替え、前の建物も手作りとお聞きして感心しました。

主人と共通の好きな飲み物は美味しいコーヒーです。店長がワールドパリスタチャンピオン世界5位の小淵沢リゾナーレ丸山コーヒー店でカプチーノを飲むのが八ヶ岳生活の楽しみです。
そのような主人がボンフリーのコーヒが美味しいと申しました。オーナー様はこの辺の水に因りますとおっしゃってました。この辺のお水は 《かの有名な自然の恵み南アルプス天然水かと思われます》とも説明してくれました。
藤山様の別荘の水も美味しいことでしょう。
近くの藪内正幸美術館を時々訪れます。再び 寄らせて頂きたいと思いました。
ありがとうございました。

 上の写真のように敷地の前の方にオーナー様が自分で作った別棟のコッテージがありました。ガラス張りの趣の有る家。 鳥の観察仕様なのでしょうか?きっと奥様も制作に参加されたと思われます。夫婦愛の結晶なので
しょう。オーナー様が水準器で水平をキチンと取れば何でも作れると言われた手作りの建物でした。=======終り======

ジャンさんとご主人との仲の良さを示すようなメールですね。

もう一つの実例は、雨模様の裏磐梯、五色沼と安達太良山の紅葉の写真をお楽しみ下さい という記事へ対して頂いた以下のコメントです。

=======さくらこさんからのコメント========

結婚当初夫のアルバムで「五色沼」「磐梯山」を見付けて、1度訪れたいと思っていました。 今から10年前にその機会があり、ついに行けました。思った通りの場所でした。 五色沼・・一つ一つ登って行くうちに次はどんな色かな?と楽しみながら歩きました。
その時に夫と一緒に旅行した学生時代の、友人と今年初めてお目にかかりました。 私達が住んでいるM市にゴルフに来られました。40年経っているのに・・・・あの写真の面影がありました。
そして・・・もうすぐ10月の末に、今度は私達がその夫の友人が住んでおられる、静岡の富士山の麓でゴルフをする事になりました。
こうして思いがけない時が過ぎて行きます。

話が前に戻りますが、10年程前の東北旅行の折に、「猪苗代湖」の傍にある「野口英世」の生家に立ち寄りました。
何と言いますか・・・・本や教科書・・その他で、何度も何度も聞いてきた名前・・・・胸が熱くなりました。とても身近に感じました。あの感動を忘れる事が出来ません。もう・・・猪苗代湖と聞いただけで、蘇ってきます。
あの時思い切って12泊かけて行って来た「東北旅行」でした。あの時に行きたい東北地方は大体行けました。
旅はいいものですね。 私も自然が大好きです・・・そして「農業」のお仕事を尊敬します。 広大な土地に綺麗に整列されて植えてある、見事な野菜の苗・・・・誰にでも出来ません。

======投稿 さくらこ | 2011/10/20 00:12============

上のコメントでは「さくらこ」さんが新婚時代のご主人のことや、10年程前の東北旅行を思い出してご主人へ感謝しています。夫婦仲が一層良くなっている様子が目に見えます。

このブログでは上に示した例のような効果のある記事を時々掲載しています。

今日は最後に、今朝咲いたジンジャーの写真を家内が撮りましたので、下に出します。これだけにしておくと夫婦仲が良いような感じですね。

しかしブログにはウソがいくらでも書けるのです。ある時、義妹が「ウソではないが、どうも実態とは違う」というコメントをくれました。

それはそれとして、今日も読者の皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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中国の一党独裁は長期間続く!・・国民の本音はそれを支持しているからです

2011年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

Zhou_enlai1 毛沢東が死に、4人組みが逮捕され文化大革命が終了したのは1976年です。

その5年後の1981年に私は中国を訪問しました。北京の殺伐とした雰囲気に胸がつぶれました。

街路や公衆便所の汚さは人々の心の荒廃を示していて身の毛がよだちます。

招待してくれた周栄章教授は1968年に突然大学の研究室から農村へ下放されたそうです。

ひどく貧しい農村へ追いやられたそうです。それから7年間、毎日、毎日ブタへ餌をやり糞の掃除をして暮らしたそうです。食料は極端に乏しく、飢えで死ぬ人も居たそうです。その間、家族はバラバラに下放され、何処に居るのか、生死さえ分からなかったそうです。これこそが文化大革命の実態だったのです。

大躍進政策で失敗した毛沢東がもう一度権力を握るために全国で紅衛兵を動員して知識人や敵対する政治家などを抹殺しようとしたのが文化大革命なのです。各地で内戦状態になりました。

それは全国を凄惨な戦争に巻き込んだ毛沢東の権力奪取闘争でした。

その実行部隊が毛沢東の妻の江青などの4人組でした。文化大革命の間、この4人が中国の頂点に立って惨劇を続けたのです。

この文化大革命の間、毛沢東に従いながらも国民の苦しみを少しでも少なくしようと粉骨砕身の活躍をしたのが上の写真にある周恩来総理でした。彼は失望にうち砕かれた全ての人々へ生きる希望を与えたのです。暗夜の灯として、いまだに全中国人の心の中に生きています。彼は1976年1月に死にました。そして間もなく毛沢東もこの世を去ったのです。

鄧小平が権力を握り、華国鋒を追放し、やっと平穏な日々が続くようになったのは1980年くらいからです。

この文化大革命の凄惨な体験から中国人は2つのことを心の底に強く抱くようになったのです。(1)国の分裂と内戦は絶対に避ける、そして(2)充分な食糧生産と経済発展の為には全てを犠牲にする、という2つの強い信念です。

民主主義や多数の政党による議会制の導入は、もう一度、人々を内戦のるつぼへ投げ入れる可能性を持っています。これは死んでも避けるべきです。一党独裁が最善の方法なのです。これこそが現在の中国人の本音なのです。

毛沢東の無思慮な大躍進政策や文化大革命で餓死した中国人は3000万人から5000万人いると言われています。

中国人の本音は餓死するくらいなら経済発展に成功している共産党一党独裁を支持しています。家族がバラバラに下放されないなら共産党一党独裁を支持しています。

さらに中国の政治を深く理解するためには、中国の政治グループの背後には必ず軍隊が密着していることを知るべきです。

鄧小平が権力を握ることが出来た理由は彼の軍事委員会主任としての軍部操縦術が抜群だったのです。政治闘争は必ず軍隊同士の内戦へ繋がるのです。それが中国なのです。だからこそ共産党内の権力闘争が激しくならないような話し合いでの後継者選びを国民が支持しています。

従鄧小平は1989年の天安門広場での民主化デモを戦車を出動して鎮圧したのです。彼の決断は中国人の本音から言うと正しかったのです。学生以外の大多数の社会人が鄧小平の決断を熱烈に支持しました。

充分な食料生産と経済発展の為に鄧小平は共産主義体制の計画生産体制を廃止して、市場経済原理にもとづく自由競争生産へ切り替えたのです。それは1992年の鄧小平の南巡講話で確立されました。

南巡講話は中国人の本音で支持されたのです。その結果、中国のGDPはアメリカについで世界2位になったのです。国民が熱烈に支持したので、彼等は本気で経済発展のために働いたのです。ガムシャラに働いたのです。

経済発展の成功は共産党一党独裁をさらに強固にしたのです。

次期国家主席と言われている習近平も7年間、下放され貧しい農村で辛酸を舐めたのです。従って彼も国内の対立と内戦を憎んでいいるに違いありません。絶対に共産党一党独裁を守り抜くと思います。

日本がいろいろな分野で中国と協力関係を構築する場合、上に書いたような中国人の本音を充分に考慮に入れた上で交渉をするべきと信じています。

いたずらに共産党独裁を非難して、中国人の本音に逆らわない事が肝要です。アメリカの人権外交の尻馬に乗ってはいけません。人権が重要な事は中国人が一番よく知っているのです。

近代の中国の歴史も考えた総合的な戦略を深めれば、対中外交において日本側が主導権を握れると信じています。

皆さんのご意見を頂ければ嬉しく思います。

余談ながらこの文章は中国人にも是非、読んで貰いたいと思います。そして私の間違いをご指摘頂ければ大変嬉しく思います。(終り)


桂の木が甘い芳香をはなつ季節になりました・・・その桂の木の賛美

2011年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

桂の木が今年も紅葉し始めました。桂は日本、朝鮮、中国にある樹木で葉はハート形に近い丸いかたちをしています。

秋に桂の林に入ると、足元に散った葉からたちのぼる甘い芳香に身がつつまれます。その香りはメープルシロップのカナダの甘さを和風にして上品な香りに変化させたようなものです。心地よく、幸福感につつまれるような香りです。下に入間・彩の森公園と神代植物公園で撮った桂の木の写真をお送りいたします。

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桂の木は若い時から大好きな樹木でした。

ある時、山を歩いていると突然甘い香りに包まれ、疲れが一瞬にして消えたことがありました。甲斐駒岳に登って疲労困憊し、やっと麓に降りて来たとき、一面に紅葉した桂の林に入りました。上品な甘い香りがしています。ひどい疲労感が急に充実感に変わり、とても幸せな気分でゆっくり登山口に出てきました。

それ以来、紅葉の季節になると甲斐駒の麓の桂の林のところまで何度か登りました。

奥多摩の御岳に登って下りて来た時も同じような経験をしました。ケ-ブルカーの一番下の乗り場に近い沢沿いに、桂の大木があり、紅葉した落ち葉が一面に散り敷いていました。足を踏み入れると甘い香りが身をつつみます。ケーブルーカーに乗らずに自分の足で下りて来た私の努力がむくわれ、幸せな気分になりました。

わざわざ山に行かなくても、よく観察すると公園にも桂の林があります。上の写真の神代植物公園の池のほとりには、40年位前から桂の林があります。

昔は子供の腕の太さくらいの若木を植林した林でした。しかし現在は見上げるような大木の林になってしまいました。

秋になるとこの桂の林へは毎年必ず、家内と行きます。香りを楽しみ、木々の成長を見ながら思い出話をします。

随分以前のことでしたが私の研究室の若い人々が桂の苗木を持って来て、この家の庭に植えてくれたことがありました。私が桂の木が好きなことを知っていたのです。その桂の木は毎年枝を繁らせ、とても速い勢いで成長しました。

毎年、毎年、その枝を切るのが私の仕事になりました。しかし庭の他の植物のためにならないほどの大木になりました。そこで私は決心して、遂に切ってしまったのです。切り倒すまでの15年位の間、秋になると庭が甘い香りに包まれたものです。

それも遠い、遠い昔の事になってしまいました。毎年、桂の紅葉の下を散歩しながらいろいろな事を思い出します。

それにしても上に示した私の写真が下手です。桂の木の素晴らしさを表現していません。ネットで検索しましたら、「風に吹かれて」という美しい写真集を発見しました。全国を旅しながら撮った見事な風景写真集です。その中に全国の有名な桂の写真を集めたアルバムがありました。是非、ご覧下さい。YRLは、http://blowinthewind.net/katsura/chorakuji.htm です。この「風に吹かれて」という写真集には他にも感動的な風景写真が沢山あります。どうぞお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人


水面と空の輝きの写真をお楽しみ下さい

2011年10月18日 | 写真

今月末で25年間にわたるヨットの趣味は終了します。家内とのんびりヨット遊びに行きました。

鹿島灘から吹いてくる東風が強いので、ジブを半分だけ開けて走りました。

空が次第に晴れ渡り、水面の輝きが微妙に変化し、空と水面の美しい一日でした。

深まる秋のきらめきと淋しさを感じながら、デッキに洗剤と水を掛けブラシで丁寧に洗って帰りました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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民主主義成熟度で世界の167ケ国のランキングで日本は何位でしょうか?

2011年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

昨年、イギリスのある調査機関が、民主主義成熟度で世界の167ケ国のランキングを作りました。

167カ国の全てを掲載するのは長くなりますので、以下のように途中を適当に省略して、さらに3つのグループに分けてみました。

3つのグループに分類する前の生の情報の出典は、

http://dadao.kt.fc2.com/ron51minshu.htm  です。

このランキングの評価には民主主義の成熟度を示す5つの項目にそれぞれ10点満点の点数で示し、その平均点で決めました。

5つの指標は、選挙過程の民主的か?、政府の機能が民主的か?政治参加が民主的になっているか?、政治風土が民主的か?市民的自由度が民主的に保証されているか?の5項目です。

一位のスウェーデンは5項目の平均点が9・88、20位の日本は8.15、238位の中国は2.97、そして最下位の北朝鮮は1.03でした。

点数はイギリスの調査機関の主観が入っているので絶対的な意味はありません。

しかし下のランキングをつぶさに眺めているといろいろな事を連想させ興味がつきません。皆様も眺めながらいろいろとお考え下さい。

例えば民主主義を世界中へ広めようとしているアメリカは意外にも17位です。日本が20位ですから殆ど同じです。

そのアメリカは東欧圏、イスラム圏、ロシア、中国、北朝鮮の民主化をどの様に推し進めているのでしょうか?どのように民主主義を押しつけているのでしょうか?

アメリカへ友好的な態度をとっている国々には干渉していません。

敵対的な態度をとっている国々には民主主義を強要します。いわゆる人権外交で圧力をかけるのです。

カタールやオマーンやアラブ首長国連邦はイスラム圏で独裁国家です。しかし親米政策をとっているのでアメリカは内政へ干渉せず、人権蹂躙には見ても見ないふりをしています。

そしてロシアや中国とは複雑な対応をしています。人権外交を強くしたいのですが両国の軍事力と経済力が大きいのであまり圧迫すると対抗措置が取られ、アメリカの国益が損なわれるのです。

このような複雑な現象が国際政治の実態なのです。

日本人は気楽に民主主義が最高の善だと言います。自由と平等が重要だと言います。しかし自由と平等よりも、充分な食糧のほうがもっと、もっと、重要なのです。

貧富の差が大きくて、常時飢餓状態にある国々では民主主義が一番だと誰が言えるのでしょうか?その反対に共産党独裁が多数の餓死者を出しているのならそのような形態の独裁は一刻も早く止めるべきです。

主義とか国家体制の善し悪しではなく、餓死者の数の視点からも考えるべきだと私は思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

藤山杜人

====世界168ケ国の民主主義成熟度のランキング=====

――――北欧圏、スイス、カナダなどのグループーーーーーーーーーーーー

1 スウェーデン 9.88、  2 アイスランド 9.71  3 オランダ 9.66  4 ノルウェー 9.55  5 デンマーク 9.52  6 フィンランド 9.25  7 ルクセンブルグ 9.10  8 オーストラリア   9.099 カナダ  9.07  10 スイス 9.02  

――――ドイツ、フランス、イギリス、日本、韓国、台湾のグjループ―――――――――

13 ドイツ 8.82  14 オーストリア 8.69  15 マルタ 8.39  16 スペイン 8.34  17 アメリカ 8.22  18 チェコ 8.17  19 ポルトガル 8.16  20 ベルギー 8.15  20 日本 8.15  22 ギリシャ 8.13  23 イギリス 8.08  24 フランス 8.07  25 モーリシャス 8.04  25 コスタリカ 8.04  27 スロベニア 7.96  27 ウルグアイ 7.96  
29
 南アフリカ 7.91  30 チリ 7.89  31 韓国 7.88  32 台湾 7.82  33 エストニア 7.74  34 イタリア   .73  35 インド 7.68

―――――――――――――東欧圏、イスラム圏、ロシア、中国、北朝鮮のグループ――――――――
38
 ハンガリー 7.53  39 リトアニア 7.43  41 スロベニア 7.40  42 ブラジル 7.38  46 ポーランド  56 モンゴル 6.60  63 フィリピン 6.48  65 インドネシア 6.41  78 香港 6.03  84 シンガポール 5.89  88 トルコ 5.70  90 タイ 5.67  102 ロシア 5.02  112 イラク 4.01 113 パキスタン 3.92  115 エジプト 3.90  138 中国 2.97  139 イラン 2.93  142 カタール 2.78  143 オマーン 2.77  145 ベトナム 2.75  146 ガボン 2.72  150 アラブ首長国連159 サウジアラビア 1.92  163 ミャンマー 1.77  167 北朝鮮 1.03

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鄧小平の1992年の南巡講話が中国のGDPを世界2位にした!

2011年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

1989年の天安門事件を断固、武力で弾圧した鄧小平は共産党独裁体制を確立しました。

しかし市場経済政策は資本主義と同じなので民主化要求のデモが生じたと解釈する共産党長老がいたのです。ごく自然な解釈の仕方です。

従って天安門事件の直後から市場経済政策にブレーキがかかり、元の純然たる共産主義的経済コントロールへ変化させようとする主張が勢いをつけます。

困ったのは鄧小平です。彼は共産党独裁を堅持しながら市場原理にもとづいていて経済を発展させ、中国を豊かな国に出来ると確信していたのです。そこで彼は1992年に中国の南部を巡視しながらいろいろな形で、「市場原理の基づく開放政策」こそが中国を豊かにする唯一の方法だと力説したのです。この一連の主張が、「南巡講話」と呼ばれるものです。一言で言えば、「市場原理にもとづく社会主義経済」です。それは民主国家の資本主義とまったく同じですが、一点だけ決定的に異っています。それは共産党独裁の下にある市場原理によった経済政策なのです。

そんな事は可能でしょうか?

昨年、中国のGDPは日本を抜いて世界2位になったのです。これこそが鄧小平の経済政策が正しかったことの確たる証明です。

1992年の南巡講話の直後から多くの外国の企業が直接中国へ投資を始めたのです。中国の輸入・輸出は爆発的に伸びたのです。

この驚異的な経済成長を甲南大学の青木浩治氏と藤川清史氏が研究をして、http://kccn.konan-u.ac.jp/keizai/china/07/01.html に発表しています。きちんとした研究です。

その中から3つの図表を以下に引用させて頂きました。

上から順に、「外国からの投資契約高と実行高の年次変化」、「輸入と輸出の年次変化」、そして「中国各地の政策優遇得点の年次変化」の図面です。

いずれも1992年の南巡講話の後から急激に増加している様子が分かります。

特に三番目の図面の「中国各地の政策優遇得点」による経済成長のコントロールは共産党独裁政権だからこそ可能な事なのでしょう。

このように観察してみると、2つの疑問が湧いて来ます。

(1)共産党独裁のこの効率の良い経済成長は何時まで持続するのであろうか?

再び民主化運動が起きて中国社会は混沌とし、バブル経済が破裂しないのであろうか?

(2)天安門事件で若者たちを軍隊に虐殺させた鄧小平を中国人はどのように評価しているのだろうか?英雄として尊敬されているのであろうか?

私は矛盾した評価を持っています。彼は悪魔でもあり英雄でもあるのです。中国を天国へ引っ張り上げる天使のようでもあります。人間の矛盾の大きさ、深さに私は言うべき言葉を持っていません。

皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。

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秋の深大寺界隈の写真をお楽しみ下さい

2011年10月17日 | 写真

秋も深まってきました。先日、深大寺へ行き、界隈の写真を撮ってきました。

お寺を見ると何故か心がやすらぎます。門前の通りには楽しげな家族連れが歩いていました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

深大寺へのアクセスは、http://www.jindaiji.or.jp/ に御座います。

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日本中にあるアウトレットを賛美したい!・・・その夢のある合理性に感嘆する

2011年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

いきなり乱暴な言い方をすれば全ての女性はアウトレットが好きです。男性はそのお供で行きます。

先日金曜日に、偶然に「三井アウトレットパーク入間」の前を通りました。時間に余裕があったので車を広大な駐車場へ入れました。家内が嬉しそうにしています。私は下の写真のようなテーブルと椅子のセットに座って、家内のショッピングを待ちながらしばし思索にふけっていました。

何故、アウトレットは何処に行っても賑わっているのか?何が人々を引きつけているのか?本当に安くて華やかなデザインのものを売っているのか?外国の店が数多く出店しているがどのようにして招んで来るのか?何故、シャッターを降ろしている店が一軒も無いのか?

このような疑問への解答も考えてみました。正解ではないでしょうが、幾つか思いつく理由があります。

(1)商品の色彩やデザインは華やかで流行の最先端を行っている。その割には価格が張らない。デパートより圧倒的に安い。

(2)出店が世界中から来ていて、一か所のアウトレットに大体200店くらいの店が並んでいる。お客は多くの店の商品の多様性と、選択肢の多い事にひきつけられて来る。

(3)郊外にあり駐車場は広大に作れる。大体2000台から3000台の車が殆ど無料で駐車出来る。

(4)お客は若い女性や子供連の家族が多いので、私のような老人が見ていても活気があって楽しい。勿論、暇そうな老人も子供や孫について結構来ている。

(5)アウトレットの中には洒落たカフェやファーストフードの店があって食事も楽しめる。ある所ではスーパーまであって食品も買って帰れる。

なぜ流行の最先端のものが安く売っているのでしょうか?

経営が合理的になされているからです。経営の母体は三井、西武、イオンリテール、そしてチェルシーなどという大商社です。その経営はアメリカ流ビジネスの神髄を深く理解し、コストの削減と流行の新商品の仕入れに成功しているのです。

このようなアウトレットが全国に散在し、日本の消費文化の性質に大きな革命を起こしているのです。その革命は静かにゆっくり進行しています。

ああ。日本の文化も変わったものだ。ショッピングをしている家内を待ちながら感嘆していました。

最後に、三井アウトレットパーク入間の写真と35店もある日本全国のアウトレットの一覧表をお送りします。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り致します。

藤山杜人

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日本中のアウトレットの一覧

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB

北海道

    小樽アウトレットタウンWALL北海道小樽市

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歴史から抹殺される胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記・・・そして中曽根総理大臣の靖国神社参拝中止

2011年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

共産党独裁の中国に1982年から1987年まで、民主主義改革をしようとしていた胡 耀邦が総書記として活躍していたのです。この間は鄧小平の自由な開放経済政策とともに中国に民主化が進行するような明るい雰囲気があったのです。

しかし1989年の天安門事件で歴史は暗転するのです。

1978年から1992年まで中国の最高権力者だった鄧小平が次第に、「開放経済政策」を維持しながらも共産党独裁で行く決心をします。そして自分の部下だった胡 耀邦総書記を1987年に解任した上で、党籍まで剥奪したのです。胡 耀邦はショックのあまり急死し、1989年の4月15日の彼の追悼大会から天安門事件がはじまります。

後任にはやはり鄧小平の忠実な部下だった趙 紫陽を1987年に任命しました。しかし天安門の抗議デモへ理解を示した趙 紫陽総書記も1989年に解任してしまうのです。

この鄧小平の決断で中国は共産党の独裁国家になったのです。胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記のどちらも鄧小平の忠実な部下で、可愛がってきた弟子だったのです。その2人を切ってしまっても共産党独裁路線のほうが中国の安定と経済発展のためになるというのが鄧小平の信念だったのです。

天安門事件の間、上海でも民主化のデモが起きていました。それを断固として武力弾圧した江沢民を次の国家主席に指名したのも鄧小平でした。

そうすると共産党独裁路線を堅持した江沢民主席や、現在の胡錦濤主席にとっては民主化を進めた胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記の存在を抹殺したくなります。ですから中国の新聞やマスコミから胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記の名前が出なくなりました。北京政府のご機嫌をとらないと取材を禁止される日本の新聞やテレビもこの2人の名前は絶対に出しません。

その結果、現在の日本の若い人々は胡 耀邦と後任の趙 紫陽の名前を知りません。歴史上の抹殺はこうして進むのです。

それはそれとして、1983年に訪中した中曽根総理大臣が胡 耀邦総書記に会います。胡 耀邦は民主国家の総理大臣へ最大の敬意を表します。中曽根さんはその立派な態度と胡 耀邦の開明的な政治に感動します。そして靖国神社参拝は日本を尊敬している胡 耀邦総書記を窮地へ追い込むことになると判断し、1985年から靖国神社参拝を中止したのです。あの気の強い中曽根さんがそのように考えたのですから胡 耀邦の人柄に感動したに違いありません。

最近、日本では胡 耀邦と趙 紫陽の名前が消えかかっていますので、駄文を書いてみました。

下に鄧小平の生前の写真と1997年、93歳で亡くなったときの追悼大会の写真を示します。出典は:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 です。

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薔薇の花の盆栽展・・・違和感がありませんか?

2011年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

先日行った神代植物公園で「薔薇の花の盆栽展」を開催していました。

固定観念の強い私は盆栽といえば懸崖の松や、ケヤキやサツキという和風の樹木に限ると思いこんでいました。薔薇の花の盆栽なんてトンデモナイ。違和感で胸が苦しくなってしまいました。美味しい刺身をマヨネーズやケチャプをつけて食べるような気分です。

しかし盆栽は最近イタリアやヨーロッパで立派な趣味として大流行していることを思い出しました。ア、そうか。ヨーロッパで流行っている薔薇の盆栽を日本に輸入したのかもと思い直して写真を撮りました。

嫌々思いながら撮った写真ですので、上手く撮れませんでした。でも盆栽の好きな方々には喜ばれると思い、下にお送り致します。

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如何でしょうか?お楽しみ頂けましたでしょうか?

それでも違和感で胸苦しい方々の為に下の写真をお送りいたします。ジット見詰めていると胸苦しさが次第に消えてゆきます。少なくとも私はそうでした。

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22年前の天安門事件を振り返る(2)広場の惨殺死体とその最中のゴルバチョフ大統領の訪中

2011年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

天安門事件は1989年の4月15日の胡 耀邦総書記のお葬式から始まりました。鄧小平から急に総書記を解任され党籍をはく奪されたショックから心臓発作で急死したと言われています。中国の民主化を進めていた胡 耀邦総書記の死を悼み、若者たちが天安門広場に集まって来たのが、その後の激しい抗議デモのキッカケになったのです。抗議デモやハンガーストライキがそれから6月下旬まで続きました。その間軍隊が銃で射殺したり、戦車が抗議デモの若者を自転車ごと轢き殺していたのです。

その時、私はアメリカの大学に居ました。昔からの恩師が学科主任をしていました。彼はアジア人と中国大陸から留学している40名ほどの学生を一室に集め、天安門広場で大変な事が起きていると話し、自分は民主化運動を強く支援すると興奮した口調で言いました。そして中国大陸からの留学生は郷里の両親・知人・友人へ電話をしてもその長距離電話代は自分が支払うと宣言したのです。その会合は大変切迫した雰囲気でした。詳しい事は分かりませんでしたが私は中国大陸でまた内戦が始まったのかと悲しい気持ちになったのを覚えています。

それはそれとして、天安門広場での殺戮が起きている間、ゴルバチョフ大統領が北京を6月15日から17日まで訪問します。訪問の目的は1959年から30年間にわたる激しい中ソ対立の解消と友好関係の樹立でした。鄧小平も彼を歓迎し、中ソの対立は解消しました。抗議デモをしていた人々はゴルバチョフ大統領の訪問を喜びました。しかし鄧小平は彼をデモ隊から隔離し、17日に北京空港は送りだしたのです。

そしてその後デモ隊を徹底的に弾圧し、天安門広場を軍隊の清掃隊で綺麗に掃除してしまったのです。天安門広場は何事もなかったように地方からの観光客の行き来する平和な場所になったのです。

天安門門広場で何が起きたか知りたい方々は「天安門事件の動画」と「天安門事件の写真」を検索すると想像を絶する惨劇の映像を見ることができます。その中から私は3枚の写真を選びました。一番上の上の写真は当時のマスコミに何度も出た写真です。中国共産党は如何に平和的に軍隊が振る舞ったかを示す写真として許可した写真です。2枚目もデモ隊が焼いた車両の写真です。デモ隊の乱暴ぶりを示すので共産党は許可しました。

そして3枚目は検閲を潜りぬけたと思われる多数の写真の一枚です。この写真はあまりにも無残な光景なのでサムネイル形式で掲載いたします。掲載しようかしないか、随分迷いましたが、結局掲載する決断をしました。中国人の民主化を求める正義感と、死をも恐れぬ勇気を讃えるために掲載することにしました。中国民族を尊敬するために掲載いたします。

そして天安門広場で犠牲になった全ての人のご冥福をお祈り申し上げます。藤山杜人

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22年前の天安門事件を振り返る(1)胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記

2011年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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(左が胡 耀邦 総書記で、右の中央が趙 紫陽 総書記の写真です)

1985年、ソ連の大統領にゴルバチョフ書記長が就任して、情報公開などの民主化運動を進める新しい政策を次々に実行しました。1989年にはベルリンの壁の崩壊、1991年にはソ連邦の解体が起き、エリツエン氏がロシアの初代大統領になり、共産党独裁に終止符が打たれました。

中国でゴルバチョフ大統領と同じように、穏健な民主化を進めようとした2人の共産党のトップが居たのです。胡 耀邦総書記とその解任後にあとをついだ趙 紫陽総書記の2人です。

1989年4月から6月にかけて天安門に若い中国人が集まり民主化運動の集会を連日開催したのです。

これに対して胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記は民主化運動に深い理解を示し、それを支持しました。

それに対して鄧小平を主とする長老保守派が断固として反対し、胡 耀邦総書記をまず解任し、後任の趙 紫陽総書記もすぐに追放します。

そして戒厳令をしき、軍隊を導入し、デモ参加者を撃ち殺して鎮圧してしまったのです。

この鄧小平の残酷な決定に世界中の人々が悲しみました。

しかし、その後の中国の驚異的な経済成長によって多くの中国人から支持されているのも事実です。私は1996年頃、保定の工業特別区へ何度か行きましたが、会った多くの中国人は鄧小平の称賛者でした。

しかし中国の天安門事件の時、抗議集会に集まった人々を理解し、支持した胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記を忘れないようにしたいと思います。

以下にWikipedeaから転載した参考資料を添えて、ご両人のご冥福をお祈りしたいと思います。

======== 耀邦==========1980529日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6

========= 紫陽===========

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E7%B4%AB%E9%99%BD

19日午前4時、趙紫陽は李鵬と天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。午後10時から開かれた戒厳令を布告する大会には「体調不良のため」欠席した。その後、63日から翌4日にかけて、デモ隊は武力弾圧された(第二次天安門事件)。

失脚と軟禁生活:6月2324日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は、党総書記就任直後から四つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任された。党籍のみ、そのままとされた。

自宅軟禁下に置かれたものの外出は比較的自由にでき、趣味のゴルフなどを楽しんでいたが、19979月、第15回党大会の主席団には天安門事件の再評価を求める書簡を送った後には、来客が追い返されたり外出を制限された。失脚直後から長年の友人である宗鳳鳴が度々気孔師として訪れ、談話をまとめた物が2007年に香港で出版されている。

一説には、鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。陳雲、李先念らが推薦した後継者の江沢民が右顧左眄する様子を見て失望したという。=====以下省略======


エキゾチックな3種のパンパスグラスの写真をお送りします

2011年10月15日 | 写真

この前の記事が理屈っぽい内容でしたので、明るいマリーゴールドと気楽に見て楽しめるパンパスグラスの写真をお送りします。先日、神代植物公園で撮りました。3種の名前は忘れましたが、どれもパンパスグラスの一種でした。ご存知の方はお教え下さい。

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