創価学会。戦後爆発的な勢いで信者を増やし、今や巨大宗教団体となっている。かつて、激しく戦闘的な「折伏」による会員の勧誘・獲得は、明治維新当時の打ち壊し運動にも似て、社会からさまざまな批判や軋轢を生みながらも、大きく組織的に成長した。
戦後、全く無に帰した社会の中で、苦しみにあえぐ庶民の生活。何としても生活苦・病苦から逃れたい人々、それまでの軍国主義的価値観が一夜にして灰と化し、これからどうやって生活を律していくのか悩む人々。
そうした人々に、宗教・信仰を根本にした生活を教え、導く。そして、新たな価値観・人生観をもとに生活を築いていく、そういう啓蒙活動の先頭には、良くも悪くも常に創価学会があった。
創価学会は、戦前、小学校の校長であった牧口常三郎氏(初代会長)が、日蓮正宗の信徒であった目白学園の三谷素啓氏から信仰の話を聞き、入信したことに始まるという。
1960年代前半、創価学会が急速に伸びていた頃、学会に対する世間の批判は、「学会は、貧乏人と病人の集まりだ」であった。たしかに戦後の復興期を迎えつつも、その恩恵になかなか浴せない、都会に流入してきた人々が、会員の中心だったかもしれない。
だから、会員獲得に当たっては、現世利益主義(戸田第2代会長は、信仰の対象である、日蓮聖人の「本尊」を幸福製造器とも名付けた)一辺倒の新興宗教的布教活動、という面も大きく作用しただろう。しかしそうした面だけで、これほど急速かつ大きく、成長しては来なかったと思う。他の新興宗教が、会員獲得数においてすぐに頭打ちになったことに比べて。
それは、哲学、とりわけ戦争反対を含む平和主義が、創価学会(日蓮正宗)の根本にあったからではなかったか。特に会員は、戦時中の牧口氏の獄死、戸田氏の獄中生活、即ち反戦・平和を大きな精神的なバックボーンとして、世間の人々に、真の仏法をもとにした、人間主義・平和主義・地球主義を訴えてきた。それが、次第に多くの庶民の心に浸透してきたのではなかったか。
その意味では、鎌倉時代、とりわけ他国(元)からの侵略(戦争)におののいた当時の人々。為政者・武士支配層、それにつらなる庶民層に対し、法華経信仰をもって改宗・政策転換を鋭く迫った日蓮聖人。その思想・行動に心から感銘し、信仰心を発揮し、日蓮思想・哲学を現代に蘇らせた、とも言えるのだ。だから、どの学会員も「御書」(日蓮思想)を片手によく学び、よく活動していた。
しかし、日本が高度経済成長を経て、少なからず国民の生活が、一応曲がりなりにも落ち着き、人々は、そこそこの生活を楽しむことが、出来るようになってきた。「学会員は貧乏・病苦」という中傷から、学会員も抜け出す時代を迎えた。日本中が、経済的には満たされる段階になったのである。
一方で、学会が「公明政治連盟」「公明党」と、都議会、参議院そして衆議院、さらには地方議会、と選挙活動によって次第に政治の世界へ進出し始めた。この頃から、学会の創立当時、また発展期における哲学・思想を放棄し始めたようにも思う。「政治は妥協の世界だから」という言動が聞かれるようになったのも1980年代。そして、1990年代に入っての宗門からの離脱・独立。
それからの15年間。宗門批判の激化とあわせて、それまで以上に、政治・選挙に組織活動の全勢力を傾けるようになったようにも感じる。新進党の設立・解体、自民党との連合。・・・。日本の政治・政党も、公明党=創価学会の動きに呼応するかのように、思想・信条をさしおいての離合集散に、明け暮れるようになってしまっている。
今回の選挙も、ますます単純化。郵政民営化に賛成か、反対か。国民の考える余地を与えない。詳しい説明を抜きに、賛成・反対。反対する者は、すべて、改革NO!であり、日本の将来に責任を持たない連中だ!と言わんばかりの言説。マスコミも右にならえ。思考停止のままの選挙。・・・
たしかに哲学・思想は、現状を疑ってみる、否定するところから始まる。その上で、よりたしかな世界観・人生観を考える、思索するものだ。また、それを実人生に生かしていく、自らもまた他者にも。残念ながら、今、そうした哲学そのものには、魅力もなければ、変革の力もなくなってしまった。と、世間からもみなされている。現状維持思考。現在の生活に満足・・・。○か×か。こうして、人の精神は退廃していくような気がする。
創価学会。その根本の哲学・思想、道念はどこに行ったのか。政治活動に埋没していくうちに、大きなモノを失っているのではあるまいか。
以前、イケダさんも、政治活動に手を出したこと、そのことを悔いるような発言をした、とも聞く。濁りきった世の中にあって、その悪を果敢に正していく、そうした実践の哲学。日蓮聖人の教えの原点に返った姿こそが、学会の本来の姿だと思う。もう、今さら望むべくもないが。
明日は、8月15日。敗戦の日(昭和天皇の玉音放送の日)から60周年を迎える。公明党=創価学会の歴史を厳しく点検する作業を通じて、戦後、とりわけ、ここ20年の日本の政治のありようを総括することは、直ちに取り組まなければならない重要な課題である。
戦後、全く無に帰した社会の中で、苦しみにあえぐ庶民の生活。何としても生活苦・病苦から逃れたい人々、それまでの軍国主義的価値観が一夜にして灰と化し、これからどうやって生活を律していくのか悩む人々。
そうした人々に、宗教・信仰を根本にした生活を教え、導く。そして、新たな価値観・人生観をもとに生活を築いていく、そういう啓蒙活動の先頭には、良くも悪くも常に創価学会があった。
創価学会は、戦前、小学校の校長であった牧口常三郎氏(初代会長)が、日蓮正宗の信徒であった目白学園の三谷素啓氏から信仰の話を聞き、入信したことに始まるという。
1960年代前半、創価学会が急速に伸びていた頃、学会に対する世間の批判は、「学会は、貧乏人と病人の集まりだ」であった。たしかに戦後の復興期を迎えつつも、その恩恵になかなか浴せない、都会に流入してきた人々が、会員の中心だったかもしれない。
だから、会員獲得に当たっては、現世利益主義(戸田第2代会長は、信仰の対象である、日蓮聖人の「本尊」を幸福製造器とも名付けた)一辺倒の新興宗教的布教活動、という面も大きく作用しただろう。しかしそうした面だけで、これほど急速かつ大きく、成長しては来なかったと思う。他の新興宗教が、会員獲得数においてすぐに頭打ちになったことに比べて。
それは、哲学、とりわけ戦争反対を含む平和主義が、創価学会(日蓮正宗)の根本にあったからではなかったか。特に会員は、戦時中の牧口氏の獄死、戸田氏の獄中生活、即ち反戦・平和を大きな精神的なバックボーンとして、世間の人々に、真の仏法をもとにした、人間主義・平和主義・地球主義を訴えてきた。それが、次第に多くの庶民の心に浸透してきたのではなかったか。
その意味では、鎌倉時代、とりわけ他国(元)からの侵略(戦争)におののいた当時の人々。為政者・武士支配層、それにつらなる庶民層に対し、法華経信仰をもって改宗・政策転換を鋭く迫った日蓮聖人。その思想・行動に心から感銘し、信仰心を発揮し、日蓮思想・哲学を現代に蘇らせた、とも言えるのだ。だから、どの学会員も「御書」(日蓮思想)を片手によく学び、よく活動していた。
しかし、日本が高度経済成長を経て、少なからず国民の生活が、一応曲がりなりにも落ち着き、人々は、そこそこの生活を楽しむことが、出来るようになってきた。「学会員は貧乏・病苦」という中傷から、学会員も抜け出す時代を迎えた。日本中が、経済的には満たされる段階になったのである。
一方で、学会が「公明政治連盟」「公明党」と、都議会、参議院そして衆議院、さらには地方議会、と選挙活動によって次第に政治の世界へ進出し始めた。この頃から、学会の創立当時、また発展期における哲学・思想を放棄し始めたようにも思う。「政治は妥協の世界だから」という言動が聞かれるようになったのも1980年代。そして、1990年代に入っての宗門からの離脱・独立。
それからの15年間。宗門批判の激化とあわせて、それまで以上に、政治・選挙に組織活動の全勢力を傾けるようになったようにも感じる。新進党の設立・解体、自民党との連合。・・・。日本の政治・政党も、公明党=創価学会の動きに呼応するかのように、思想・信条をさしおいての離合集散に、明け暮れるようになってしまっている。
今回の選挙も、ますます単純化。郵政民営化に賛成か、反対か。国民の考える余地を与えない。詳しい説明を抜きに、賛成・反対。反対する者は、すべて、改革NO!であり、日本の将来に責任を持たない連中だ!と言わんばかりの言説。マスコミも右にならえ。思考停止のままの選挙。・・・
たしかに哲学・思想は、現状を疑ってみる、否定するところから始まる。その上で、よりたしかな世界観・人生観を考える、思索するものだ。また、それを実人生に生かしていく、自らもまた他者にも。残念ながら、今、そうした哲学そのものには、魅力もなければ、変革の力もなくなってしまった。と、世間からもみなされている。現状維持思考。現在の生活に満足・・・。○か×か。こうして、人の精神は退廃していくような気がする。
創価学会。その根本の哲学・思想、道念はどこに行ったのか。政治活動に埋没していくうちに、大きなモノを失っているのではあるまいか。
以前、イケダさんも、政治活動に手を出したこと、そのことを悔いるような発言をした、とも聞く。濁りきった世の中にあって、その悪を果敢に正していく、そうした実践の哲学。日蓮聖人の教えの原点に返った姿こそが、学会の本来の姿だと思う。もう、今さら望むべくもないが。
明日は、8月15日。敗戦の日(昭和天皇の玉音放送の日)から60周年を迎える。公明党=創価学会の歴史を厳しく点検する作業を通じて、戦後、とりわけ、ここ20年の日本の政治のありようを総括することは、直ちに取り組まなければならない重要な課題である。