日中の暑さも日が落ちると、何となく涼しげな風を感じます。暑さも今年は峠を越した気配です。去年は、台風がこれでもかこれでもかと押し寄せ、そして、熱帯夜が何十日も続き、時には台風の強い風雨が、我があばら屋の雨戸を激しく打ってと、何となくめまぐるしい夏から秋の移り変わりでした。
今年は、台風もそれほど大きな被害をもたらさず、平穏な夏でした。でも、これから秋にかけてどうでしょうか。異常気象は世界的な現象ですから、日本が涼しければヨーロッパは猛暑。またその反対な気象状況のようです。
しばらくご無沙汰していましたが、いかがでしょうか。心安らかに、心穏やかにお過ごしのことと存じます。今、日本中が騒がしくなっています。9月11日の投票日衆の議院選挙。もう巷でも、候補者の演説の声が聞こえてきます。
公示日はまだですから、本格的な選挙戦はまだのはずなのに、候補者が次々と名乗りをあげて、マスコミでも大きく、ある意味、興味本位に取り上げ、国民の関心を煽っています。
そのことは、けっして悪いことではありませんが、何となく上滑りの感じがしてなりません。立候補者もどういうつもりか、コイズミ首相の「郵政民営化」賛成か反対かという目論見に見事はまって、郵政民営化「賛成」という立場だけで、公募や立候補の要請に応じ、見知らぬ土地での立候補。
何だか、今までの地縁・血縁・情実とは無縁の選挙の雰囲気です。中には、山師的な連中もいるようですが。
一方で、郵政民営化だけが今回の選挙の目的ではない、という意見も多くあります。たしかに今は、候補者への興味・関心で騒いでいますが、はたしてこのまま9月11日の投票日まで、こうした熱気が持ち込まれるかというと、どうも自信がありません。
何となく熱気も醒めて、前回のような選挙になっていく、投票率も低くなりそうな感じがしてなりません。まず若い人たちが投票所に出向いて投票する、そのことこそ大事な気がします。実は、マスコミが騒ぐほど、それほど関心が上がっていないのではと心配しています。
「我関せず」「他人に口出ししない」「自分にあれこれ言うな」「我が道を行く、他人は関係ない」・・・など、最近の若い人の言動を見聞きするにつけて、国民の権利としての投票権、これををないがしろにする風潮をどうにかしたいと思っています。それほど今の日本には、未来の日本にも魅力がないのでしょうか。
60年前。自らの生命をなげうって、世界を相手の成算なき泥沼の戦争に関わったことを思うと、こうして仏様となっていても、歯痒く思っているのではなかろうかとお察しいたします。なかなか心落ち着かぬのではないか、と心配しています。 こうして久々にお墓参りをして、あなたの冥福を祈らせていただきました。政治に翻弄された時代の中にあって、かけがいのない人生を生きられたおじさん。
時々、当時の政治の醜さ、一人ひとりの国民の生き様を考えます。近代の政党政治が大正を経て昭和に入ってまもなく、政党が堕落し、政治家が未来を見つめることなく、目の前の政争に明け暮れている間に、国の行方を軍部に取って代わられた時代。気が付いたときにはすでに国民はモノも言えず、戦争への道を歩まされてしまいました。
明治憲法下、国会が、政党政治の場ではなくなり、大政翼賛会化されていった。政治が非政治家であるはずのウヨク思想家、軍部権力者によって政治運動化される、そういう時代の悲劇的結末が、昭和20年8月15日から9月初旬にかけてでした。
小生が生まれる前のことゆえ、おおよその話しか聞いていませんが、おじさんが最後の最後のぎりぎりで、南方において戦病死なさった。終戦・武装解除の数日前のことだそうです。残されたおじさんの家族は、しばらく後にそのことを知り、泣き悔んだとのこと。もうあれから60年経ちました。記憶・体験は、ますます風化してきています。
ふと今回の選挙を思います。政治家が政治を運営し、政治に関わり、国民の生活をより良くしていく。そう考えると、今回の選挙を郵政民営化賛成・反対のみで投票すさせようとするコイズミ首相の企てを見破り、これまでのコイズミ政治の4年間を評価・反省し、今後の4年間をどういう政党に、政治家に委ねるかという視点で選挙をとらえていく必要があると思っています。
この熱気があっという間にしらけて、若者を中心にして再び政治の動向に無関係のまま、9月11日を迎え、過ぎていくことだけは何としても避けたいと思っています。
選挙の結果が出たら、また報告に来ます。合掌。(旧盆の日に。)
今年は、台風もそれほど大きな被害をもたらさず、平穏な夏でした。でも、これから秋にかけてどうでしょうか。異常気象は世界的な現象ですから、日本が涼しければヨーロッパは猛暑。またその反対な気象状況のようです。
しばらくご無沙汰していましたが、いかがでしょうか。心安らかに、心穏やかにお過ごしのことと存じます。今、日本中が騒がしくなっています。9月11日の投票日衆の議院選挙。もう巷でも、候補者の演説の声が聞こえてきます。
公示日はまだですから、本格的な選挙戦はまだのはずなのに、候補者が次々と名乗りをあげて、マスコミでも大きく、ある意味、興味本位に取り上げ、国民の関心を煽っています。
そのことは、けっして悪いことではありませんが、何となく上滑りの感じがしてなりません。立候補者もどういうつもりか、コイズミ首相の「郵政民営化」賛成か反対かという目論見に見事はまって、郵政民営化「賛成」という立場だけで、公募や立候補の要請に応じ、見知らぬ土地での立候補。
何だか、今までの地縁・血縁・情実とは無縁の選挙の雰囲気です。中には、山師的な連中もいるようですが。
一方で、郵政民営化だけが今回の選挙の目的ではない、という意見も多くあります。たしかに今は、候補者への興味・関心で騒いでいますが、はたしてこのまま9月11日の投票日まで、こうした熱気が持ち込まれるかというと、どうも自信がありません。
何となく熱気も醒めて、前回のような選挙になっていく、投票率も低くなりそうな感じがしてなりません。まず若い人たちが投票所に出向いて投票する、そのことこそ大事な気がします。実は、マスコミが騒ぐほど、それほど関心が上がっていないのではと心配しています。
「我関せず」「他人に口出ししない」「自分にあれこれ言うな」「我が道を行く、他人は関係ない」・・・など、最近の若い人の言動を見聞きするにつけて、国民の権利としての投票権、これををないがしろにする風潮をどうにかしたいと思っています。それほど今の日本には、未来の日本にも魅力がないのでしょうか。
60年前。自らの生命をなげうって、世界を相手の成算なき泥沼の戦争に関わったことを思うと、こうして仏様となっていても、歯痒く思っているのではなかろうかとお察しいたします。なかなか心落ち着かぬのではないか、と心配しています。 こうして久々にお墓参りをして、あなたの冥福を祈らせていただきました。政治に翻弄された時代の中にあって、かけがいのない人生を生きられたおじさん。
時々、当時の政治の醜さ、一人ひとりの国民の生き様を考えます。近代の政党政治が大正を経て昭和に入ってまもなく、政党が堕落し、政治家が未来を見つめることなく、目の前の政争に明け暮れている間に、国の行方を軍部に取って代わられた時代。気が付いたときにはすでに国民はモノも言えず、戦争への道を歩まされてしまいました。
明治憲法下、国会が、政党政治の場ではなくなり、大政翼賛会化されていった。政治が非政治家であるはずのウヨク思想家、軍部権力者によって政治運動化される、そういう時代の悲劇的結末が、昭和20年8月15日から9月初旬にかけてでした。
小生が生まれる前のことゆえ、おおよその話しか聞いていませんが、おじさんが最後の最後のぎりぎりで、南方において戦病死なさった。終戦・武装解除の数日前のことだそうです。残されたおじさんの家族は、しばらく後にそのことを知り、泣き悔んだとのこと。もうあれから60年経ちました。記憶・体験は、ますます風化してきています。
ふと今回の選挙を思います。政治家が政治を運営し、政治に関わり、国民の生活をより良くしていく。そう考えると、今回の選挙を郵政民営化賛成・反対のみで投票すさせようとするコイズミ首相の企てを見破り、これまでのコイズミ政治の4年間を評価・反省し、今後の4年間をどういう政党に、政治家に委ねるかという視点で選挙をとらえていく必要があると思っています。
この熱気があっという間にしらけて、若者を中心にして再び政治の動向に無関係のまま、9月11日を迎え、過ぎていくことだけは何としても避けたいと思っています。
選挙の結果が出たら、また報告に来ます。合掌。(旧盆の日に。)