コイズミさんが8月15日終戦記念日にあわせて、首相談話を発表した。そこでは、「かつて植民地支配と侵略によってアジア諸国の人々にに多大の損害と苦痛を与えた」として、「改めて痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明」した。
また「一衣帯水」という言葉を用い、「中国や韓国をはじめとするアジア諸国とともに手を携えて平和を維持し発展を目指すことが必要」としながら、「過去を直視し歴史を正しく認識し」ていくことを語った。
この談話は、今後のコイズミさんの外交姿勢、日本の外交姿勢を明確に打ち出したものと諸外国、とりわけ中国・韓国が認識していくかどうかがカギである。談話の内容を実効性あるものとしていくことが大事だろう。
一方で、この談話冒頭の内容は、靖国参拝との整合性をとるためだという指摘もある。しかし、内外の戦争の被害者総体に哀悼の意を表し、再び戦争の惨禍がアジア地域に起こらないようにとする決意と、戦死した軍人のみを祀る(かつ戦争指導者を共に神として祀る)靖国神社への公式参拝にこだわるコイズミさんの言動とどういうふうに一致させるのか? 選挙目当ての(特に公明党への配慮が色濃い)言説だとしたら、国の内外において、問題をいっそうこじれさせるに違いない。
それには、少なくとも首相任期中の参拝は取りやめることと、また、過去の戦争をいまだに賛美する閣僚の発言に対して、首相として毅然とした態度をとることが、談話への自己責任の取り方ではないだろうか。
こういうふうに考えると、コイズミさんの手法がかのマキャベリズムと同根のような感じがしてならない。我々は、コイズミさんの権謀術数の本質を見抜かなければならない。
(以下の文章は「IKEのイタリア旅行記」より引用)
「適切に行使された場合というのは、こうである(もっとも、悪しき行為を「適切に」と言うことが許されるのであればの話だが)。それが必要だと確信できる対象に対してのみ、集中的に残虐性が行使され、かつ、その後はその方法が蒸し返されず、むしろ臣民の利益になるよう転換される場合である。
不適切に行使された場合というのは、最初のうちは残虐性がわずかしか行使されないのだが、その小さな傷が癒えるよりも早く、時とともに残虐性が増加する場合のことである。
前者の適切な方法を遵守した者たちは、神や人々からの恵みによって、彼らの国を守るための何らかの方策を得ることができよう。アガトクレにはそれができた。しかし、遵守しない者たちには不可能である。
それゆえ国を獲得しようとする場合には、このような注意が必要だ。必要とされる全ての攻撃に漏れがないように検討を尽くしておき、その全ての攻撃は、後で蒸し返しのないように一気に行うべきである。蒸し返しをしなければ、人々を安心させ、恩恵をもって人心をつかむことができるのである。
臆病や見当違いの配慮によって、これと反対のやり方をする者は、いつも手に剣を持ち続けなければならない。記憶に生々しい恐怖、繰り返される恐怖のため、臣民が安心して暮らせない状態にある以上、そのような臣民の上に地位を築くことなどできないからだ。
従って、むしろ人々が受ける損失をより少なくするためにこそ、恐怖はすべて一度にやっておくべきなのだ。そして、恩恵は、その喜びが持続するように、少しずつ与えられるべきである。
加えて、とりわけ君主たる者、臣民たちとともに暮らすべきである。好機にもにも危機にも、いかなる事態にも臨機応変に対応できるようにするためである。そうしなければ、何か手を打つべきときが来たとしても何もできない。危機が迫ったとき、あなたには対処すべき時間は残されてはいまい。また、あなたが行った処置が適切であったとしても、あなたの利益につながる好機とはならないものだ。なぜなら、タイミングを逃せば、やむにやまれず仕方なくやったことだとみなされ、あなたの価値を誰も認めないからだ。=君主論第8章=」
コイズミさんが現代のマキャベリでないことを望む。一説によると悪魔の書と呼ばれた「君主論」が復活した国の代表は、ドイツとイタリアであったという。後に、「君主論」は、ファシズムを生んだ「書」とも言われている。
また「一衣帯水」という言葉を用い、「中国や韓国をはじめとするアジア諸国とともに手を携えて平和を維持し発展を目指すことが必要」としながら、「過去を直視し歴史を正しく認識し」ていくことを語った。
この談話は、今後のコイズミさんの外交姿勢、日本の外交姿勢を明確に打ち出したものと諸外国、とりわけ中国・韓国が認識していくかどうかがカギである。談話の内容を実効性あるものとしていくことが大事だろう。
一方で、この談話冒頭の内容は、靖国参拝との整合性をとるためだという指摘もある。しかし、内外の戦争の被害者総体に哀悼の意を表し、再び戦争の惨禍がアジア地域に起こらないようにとする決意と、戦死した軍人のみを祀る(かつ戦争指導者を共に神として祀る)靖国神社への公式参拝にこだわるコイズミさんの言動とどういうふうに一致させるのか? 選挙目当ての(特に公明党への配慮が色濃い)言説だとしたら、国の内外において、問題をいっそうこじれさせるに違いない。
それには、少なくとも首相任期中の参拝は取りやめることと、また、過去の戦争をいまだに賛美する閣僚の発言に対して、首相として毅然とした態度をとることが、談話への自己責任の取り方ではないだろうか。
こういうふうに考えると、コイズミさんの手法がかのマキャベリズムと同根のような感じがしてならない。我々は、コイズミさんの権謀術数の本質を見抜かなければならない。
(以下の文章は「IKEのイタリア旅行記」より引用)
「適切に行使された場合というのは、こうである(もっとも、悪しき行為を「適切に」と言うことが許されるのであればの話だが)。それが必要だと確信できる対象に対してのみ、集中的に残虐性が行使され、かつ、その後はその方法が蒸し返されず、むしろ臣民の利益になるよう転換される場合である。
不適切に行使された場合というのは、最初のうちは残虐性がわずかしか行使されないのだが、その小さな傷が癒えるよりも早く、時とともに残虐性が増加する場合のことである。
前者の適切な方法を遵守した者たちは、神や人々からの恵みによって、彼らの国を守るための何らかの方策を得ることができよう。アガトクレにはそれができた。しかし、遵守しない者たちには不可能である。
それゆえ国を獲得しようとする場合には、このような注意が必要だ。必要とされる全ての攻撃に漏れがないように検討を尽くしておき、その全ての攻撃は、後で蒸し返しのないように一気に行うべきである。蒸し返しをしなければ、人々を安心させ、恩恵をもって人心をつかむことができるのである。
臆病や見当違いの配慮によって、これと反対のやり方をする者は、いつも手に剣を持ち続けなければならない。記憶に生々しい恐怖、繰り返される恐怖のため、臣民が安心して暮らせない状態にある以上、そのような臣民の上に地位を築くことなどできないからだ。
従って、むしろ人々が受ける損失をより少なくするためにこそ、恐怖はすべて一度にやっておくべきなのだ。そして、恩恵は、その喜びが持続するように、少しずつ与えられるべきである。
加えて、とりわけ君主たる者、臣民たちとともに暮らすべきである。好機にもにも危機にも、いかなる事態にも臨機応変に対応できるようにするためである。そうしなければ、何か手を打つべきときが来たとしても何もできない。危機が迫ったとき、あなたには対処すべき時間は残されてはいまい。また、あなたが行った処置が適切であったとしても、あなたの利益につながる好機とはならないものだ。なぜなら、タイミングを逃せば、やむにやまれず仕方なくやったことだとみなされ、あなたの価値を誰も認めないからだ。=君主論第8章=」
コイズミさんが現代のマキャベリでないことを望む。一説によると悪魔の書と呼ばれた「君主論」が復活した国の代表は、ドイツとイタリアであったという。後に、「君主論」は、ファシズムを生んだ「書」とも言われている。