橋名
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり 松尾芭蕉 奥の細道」
お隣には「奥の細道国際シンポジウム ドナルド・キーン記念植樹」。
百代橋から南を望む。 北を望む。
松尾芭蕉文学碑。
ことし、元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだ目に見ぬさかひ、若し生(き)て帰らばと、定めなき頼(み)の末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着(き)にけり。痩骨の肩にかかれる物先(づ)くるしむ。
只身すがらにと出(で)立(ち)侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打(ち)捨てがたくて、路次の煩(ひ)となれるこそわりなけれ。
西村本「おくのほそ道」より
《現代語訳》
今年は元禄二年であろうか。奥州への長い行脚の旅ただふと思いたって、知らない土地の空の下で白髪になってしまうほどの嘆きを重ねたとしても、噂には聞いていてもまだ目にしていない土地(を見たいと思い)、もし生きて帰ってこられたならと、あてもない期待を行く末にかけて、その日ようやく草加という宿場にたどりついた。やせ細った肩にかかる荷物がまず私を苦しめる。
ただ身ひとつでと出発したのに、紙子一衣は夜の寒さを防ぐものだし、ゆかた、雨具、墨、筆など、あるいは、断りにくい餞別などはさすがに捨てることができなくて、道中の悩みとなっていることはどうしようもないことだ。
「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり 秋桜子」
水原秋桜子
ホトトギス派の俳人として知られる。東京神田生まれ、本名水原豊。獨逸学協会学校(現・獨協大学)、第一高等学校、東京大学医学部に学び、産婦人科医として学位を受けた。
俳句の世界では、高浜虚子の高弟で、雑誌『ホトトギス』の中心的な俳人であった。彼と草加との関わりは昭和初期にさかのぼる。東京から春日部の安孫子医院へ通勤していた秋桜子にとって、草加は通り道であった。当時の草加は、かつての宿場町を抜けると、のどかな農村風景が広がっていた。「草紅葉草加煎餅を干しにけり」「蝉時雨草加の町はなほありぬ」「畦塗りが草加の町をかこみける」。秋桜子は生涯に1万句にも及ぶ俳句を残しているが、その中ではっきりと地名を表した句は少ない。
(HPより)
まもなく松並木も終わりを告げます。振り返って望む。
「今様草加宿」。
(13:28)「外環」陸橋をくぐると、絵タイル。
草加と「おくのほそ道」
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
平成8年3月吉日
もう少し「綾瀬川」沿いに歩き、西に折れて東武線「新田」駅に向かいました。う~ん、「中山道」軽井沢から先はしばらくほっておいて、まず「日光街道」を制覇しようかな。約150㎞の旅程のはず。11日か12日で歩ければ、と。
日光街道(日光道中)
江戸時代に設けられていた五街道の一つ。
江戸日本橋(武蔵国豊島郡日本橋、現在の東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(下野国都賀郡日光東照宮、現在の栃木県日光市山内)に至る街道。
道中には21の宿場が置かれていた。日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通であった。この区間にはもともと古道奥州道があったが、日光街道の開通とともに日光街道と称されるようになった。
現在も国道4号(宇都宮市以南)と国道119号の通称として用いられる。
日光街道は江戸時代に徳川幕府の政策として整備された五街道のひとつで、1636年(寛永13年)江戸 - 下野国日光間に開通した。江戸から徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として東海道に次いで整備されている。
もともと日本橋から宇都宮城(宇都宮宿)までの区間には古道奥州道が通っており、その北部区間の宇都宮城下から鉢石宿間にも古道日光街道が通っていたが、宇都宮 - 日光間にはその東側に新たにこれと並行する道が設置されている。宇都宮城下では城主本多正純の下で宇都宮城の整備と町割りが行われ、その西部に宇都宮宿が新たに設けられた。
日光街道は旧奥州道を辿って北上し、宇都宮城の手前の不動堂付近で古道奥州道から外れ、城の西側方面に一旦折れた後に北上する経路が取られ、宿内の新石町と伝馬町、本郷町の界隈に新奥州街道との追分が設けられた。
ここより奥州街道は東進し、日光街道は北進する。かつて沿道には杉の木が植えられ、特に松平正綱は約20年に亘って植樹を続けたといわれている。現在も栃木県日光市の一部区間に日光杉並木として残されている。
日光西街道または日光中壬生通りと呼ばれる街道は、小山宿(現小山市)北部の馬頭観音堂付近(喜沢村または木沢村)で分岐し、壬生城下壬生宿、鹿沼城下鹿沼宿などを経て今市宿に至り、ここで再び日光街道にもどる。
日光街道の敷設の目的として、歴代徳川将軍の東照大権現への参拝、すなわち日光東照宮への参詣と云われているが、もともと五街道を計画したのは徳川家康であり、その際に日光山の参詣を目的とする街道を徳川幕府の政策上の重要路線としていたとは考えにくい。
実際、徳川幕府の将軍家が日光参詣する折には、江戸城下の本郷追分から日光御成街道を通るのが通例であり、幸手宿までの区間は日光街道は使われておらず、また小山宿以北は日光街道だけでなく、壬生道および日光例幣使街道を経て日光へ至る経路も併せて用いられており、このことからも、本来江戸から下野国を経て奥州方面に至る物流の動脈路線として計画、整備されたものであることが容易に推察される。
(以上、「Wikipedia」参照)
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