おやじのつぶやき

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55 今に残る東京大空襲の爪痕、飛木稲荷神社の大イチョウ

2009-05-13 23:30:43 | 歴史・痕跡
 東武・京成曳舟駅を出て、曳舟川通りを押上方向に向かい、京成押上線のガードの手前の神社にある、イチョウの木。
 
「目通り回り約4.8メートル、樹齢はおよそ500年から600年と考えられており、墨田区内に現存する樹木では最古とされる、大変貴重な存在です。
 イチョウのある飛木稲荷神社は、明治2年(1869年)の『神社明細帳』によると、応仁2年(1468年)に創建されています。また、言い伝えによると、鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一門が逃れて定住し、稲荷大明神を祀ったことに始まるといいます。あるいは、暴風雨の際にイチョウの枝が飛来してこの地に成長したことを、人々が瑞兆であるとして稲荷神社に祀ったとも伝えられ、神社の名前がこのイチョウに由来する可能性を有しています。
 戦災のために、根本から梢まで部分的に焦げてしまい、一時は樹勢が衰えましたが、現在は回復しています。焦げ跡は、東京大空襲の凄まじさを伝え、都内に残る被災樹木としても希少な存在です。」(以上、墨田区生涯学習課hpより)

 1945(昭和20)年3月10日未明、米軍の「無差別絨毯爆撃」により、東京の下町地域には、大きな被害が出ました。サイパン・テニアン基地を飛び立った約300機のB29戦略爆撃機が次々に飛来し、民家の密集する現在の台東、墨田、江東地域を中心に、大量の焼夷弾を投下したのです。
 わずか2時間余りの攻撃で、約10万人の命が奪われ(いまだに正確な数は掌握されていない)、100万人が焼け出されました。特に本所・深川地区の被害者が最も多く、数万人に及んでいます。
 空襲直後、米軍が日本橋上空で撮影したようすでは、見渡す限り焼け野原となっています。その下では、多くの人が死に、たくさんの人々が逃げまどっていたのです。壮年男性は徴兵されていたため、その多くは、女性、子ども、老人でした。
 昭和22年の航空写真でも、まだまだ焼け野原のままで、所々に、ぽつんぽつんと住宅があるばかりです。 
 あれからすでに64年の歳月が経ちました。すっかり復興を成し遂げた東京の下町には、こうした悲惨な爪痕は、街並みからも人の心からも、次第に消え去りつつあります。建物などにも当時の痕跡を残すものは、ほとんどありません。
 ただ、木々だけは雄々しく立ち直り、今にその爪痕を残しています。浅草寺のイチョウの木もそうですが、この「イチョウ」も、これからも貴重な歴史の証人として存在してほしいものです。
 写真は、緑の葉が、まぶしいイチョウの木。その緑の向こうに焼けただれた木肌が、今も厳然として残っています。

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1 コメント

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うれしいです (yosika)
2010-03-29 10:40:38
はじめまして。
素晴らしいメッセージに、ついコメントしてしまいました(^^)

飛木稲荷神社の実話を、ご縁で作らせて頂いたものです。

良かったら、図書館に入っておりますので、
是非読んでみてください。

「七本の焼けイチョウ」という題です。
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