「朝明橋」からは緩やかに右に曲りながら下って行きます。
東海道の表示と行程が行く先々に。
暑い夏の昼下がり。人の姿もほとんど見かけません。
東海道五十三次
徳川家康が慶長6年(1601)から7年を費やして東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道を整備しました。これらは全て江戸日本橋を基点としており、途中には一里塚が築かれ、本陣、脇本陣、旅籠、問屋場などの諸施設が整えられました。
東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までの126里(495㎞)で、江戸時代は13泊14日、一日9里(35㎞)で歩いておりました。
宿は三重県内には42・桑名宿(3里8町)43・四日市宿(2里27町)44・石薬師宿(25丁)45・庄野宿(2里)46・亀山宿(1里18町)47・関宿(1里24町)48・坂下宿がありました。
また一里塚は桑名四日市間に97・縄生一里塚 98・富田一里塚 99・三ツ谷一里塚があり、四日市石薬師間には100・日永一里塚(江戸より100里)101・采女一里塚 102石薬師一里塚がありました。
我ながら(断続的ではあるが)けっこう歩いてきたものです。
でも、さすがに今日のあまりの暑さに「ミニストップ」に駆け込んで、アイスを食べながらしばし休憩。親子連れが怪訝そうに見ています。だんだん疲れも出て、休憩の時間が増えてきます。
さて、出発!
鏡ヶ池(笠取り池)
『続日本紀』によると、聖武天皇は、奈良時代の天平12年(740)に伊勢国を行幸になり、11月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、23日に朝明郡の頓宮に着かれたとある。 その場所の所在は不明であるが、当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝わる話では、聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。
以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれる。
跡でなくて、実際にこの名の通りの池があったらさぞかしよかったのに、と。さすが「伊勢」。この逸話のごとく、実に歴史の古い地域であることが知れます。
しばらく進むと、鉄道線路が重なっているところに出ます。上が三岐鉄道、下がJR関西本線。
何だか「旧東海道」歩きに沿うように設置されているよな気がしますが。桑名から断続的に続いてきます。
近鉄のガードをくぐると、右手に「富田一里塚跡」碑。
「富田一里塚跡」。
史跡 富田の一里塚跡 県指定昭和12年11月
昔、街道の両側に一里(約4キロメートル)ごとに土を盛り上げえのき等の樹木を植えて旅人の目じるしにしたものが一里塚である。すでに戦国末期に存在していたが、江戸の初めごろから江戸日本橋を起点として五街道を中心に設けられていた。
しかし明治以降は、交通機関等の発達によりほとんど取り除かれてしまい、本市においてもその面影をみることができなくなった。古地図や文献によると四日市には、富田・三ヶ谷・日永・采女の四ヶ所にその跡が判明されており、これはそのうちの一つで日永の一里塚跡とともに県の史跡に指定されている。
すぐ脇を近鉄の電車が。
電車。JRは、「JR東日本」から「JR東海」へ。そして、「東海道本線」、「新幹線」、「関西本線」・・・と出会い、私鉄は、「京急」、「相鉄」、「小田急」、「箱根登山」、「伊豆箱根」、「岳南」、「静鉄」、「大井川鐵道」、「天竜浜名湖鉄道」、「名鉄」・・・と出会ってきて、今は、「近鉄」。
八幡神社の力石。
八幡神社の力石
「力石」は、鎌倉の頃より江戸、明治、大正と時代を越えて若者たちに愛され継承されてきた。
「力石」は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力、そこに集まった人々の笑いを意味していて「生きる喜びの証」であったろうと思われる。
「力石」の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を深めたのであろう。
しかし、この「力石」も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に放置される存在となってしまった。
昔日の人々のこの思いを引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。
重量 およそ百キログラム
「力石」は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。
富田地区文化財保存会
この「力石」。東京都足立区の「足立区立郷土博物館」にもいくつも置いてあるのを見たことがあります。
「力石」。
行啓記念道路
この碑は、大正天皇が皇太子時代にこの道路を通られたことを記念して建てられたものである。(現在の石柱は昭和2年〈1927〉1月に再建されたものである)
明治43年(1910)11月16日、第三師団と第十五師団の対抗演習を見学のため西下された皇太子殿下は当時三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)にお立ちよりになられた。当日、小雨降る関西線富田駅に降り立たれた殿下は、二十一発の祝火のとどろく中を中学校へと向かわれた。全校生徒お迎えのなか御座所に入られ、授業を参観し成績品陳列室を回られ、最後に校庭において四・五年生の中隊分列行進をご覧になってお帰りになられた。
創立まもない田舎の中学校に皇太子殿下をお迎えするなどということはまさに破天荒の出来事であり、職員・生徒はもちろん富田の住民の感激は大変なものであったと伝えられている。
富田地区文化財保存会
この先の東海道については、
①この碑のところを右折して、近鉄富田駅前の商店街通りを左折、「寺村薬局」の角を右折。
②碑のところで右折せず、しばらく直進してから右折。
その先で①、②とも合流し、南に向かうことになります。
この二通りがあります。多くの場合、①を歩きますが、そうしないで、②で行く方もいます。はたして?
「今昔マップ」の1890年ころの地図では東海道は②のコースになっています。①は、上の碑にあるように「行啓記念道路」として位置づけた道で、それ以後は東海道もそうなってしまった感じです。また、駅前の商店街通りは後年出来た通りのようですので、もともとの「東海道」ではないような気がします。
1890年ころ。
まだ旧制の中学校はない。
1920年ころ。
中学校ができた後。←が「行啓記念道路碑」があるところ。○が中学校。
1932年ころ。
近鉄が開通した後。駅前通りなど区画整理が行われている。
現在。
以上から、今回は②のコースで歩きました。
なお、「行啓記念道路」碑のところをそのまま直進すると、電柱には大きく右に折れるよう、指示が掲示されています。
ここを右折。
その先、右手には
「里程標」。
碑表 津市元標へ拾里 三重郡富田町
右側 桑名郡桑名町大字桑名へ弐里弐拾町/員辨郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町弐拾四間
碑陰 大正三年十一月三十日 三重縣
左側 四日市市大字四日市へ壱里八町
(「kitaise.my.coocan.jp/page_kuwa-etc.A.htm」HPより拝借)
その先の「南町集会所」前の道標。「右富田一色 東洋紡績 川越村道」
すぐ隣の富田小学校校庭に面して、「明治天皇御駐輦跡」の碑が立っています。
明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)(跡
維新の偉業もようやく成って、明治天皇は江戸を東京と改称された。
明治元年(1868)9月20日、車駕にて京都を出発し東京へと向かわれた。24日には四日市に御駐輦、翌25日富田茶屋町広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を御賞味になられ、10月13日東京に入られた。
その年の12月8日、京都へ帰られる途中、19日に再度五郎兵衛方に御少憩になられた。
翌明治2年3月7日、京都をお発ちになり、神器を奉じていよいよ東京に遷都されるとき、3月15日、またもや五郎兵衛方に御少憩になられた。
明治13年陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸になると、7月3日、五郎兵衛方に四度目の御少憩になられた。
広瀬五郎兵衛方の敷地は東海道に沿い、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民センターにかけてであった。
明治天皇御駐輦跡の碑は、公爵近衛文麿の筆である。
富田地区文化財保存会
※「駐輦」〔「輦」は天子の乗り物〕=天子が行幸の途中で車を止めること。駐蹕(ちゆうひつ)。
しばらく進み、十四川を渡ると右側に常夜燈。
常夜燈
常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味をもっている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導先であろうと思われる。
碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり、昔を伝えている。
この、常夜燈の小さな灯が、明るく感じとられて淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか。雨の夜、風の夜、絶え間なくこの灯を守りした人々の心意気を感じて、この灯篭を見つめてほしい。
今一基、中町にあった常夜燈は鳥出神社に移されている。
富田地区文化財保存会
「常夜燈」は、静岡付近では秋葉山神社信仰との結びつきが強く、火防などの願いが込められていました。ここ三重では、伊勢神宮信仰と密接に結びついています。
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