おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「赤羽」駅~「西浦和」駅。その3。戸田の渡し。(「荒川」を遡る。第1日目。)

2021-03-17 21:37:00 | 荒川を遡る

                「戸田橋」のすぐ上流にあるグランド。

戸田橋を渡って埼玉県戸田市に。

こちらは東京都板橋区。

「国道17号線」の「戸田橋」は旧中山道歩きの時に渡りました。戸田橋を右に折れると、「戸田の渡し」の解説板があります。その時の記録を再掲載。

・・・

歴史のみち 中山道のご案内
 ここから階段を下り、東へ約130m先へ進むと、「歴史のみち 中山道」があります。
 中山道は、江戸日本橋を起点として慶長7年(1602)に整備が始められ、第一の宿場である板橋宿を過ぎ、次の蕨宿との間にあるのが荒川(戸田川)にあった「戸田の渡し」でした。
 戸田渡船場跡から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にその様子が描かれています。
 また、天保13年(1812)「中山道戸田渡船場微細御書上」によると、渡船場には家数が46軒あり、渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、街道筋には渡船にかかわる家々や旅人を相手に商う茶屋などが建ち並んでいました。現在もその様子が残っており、周辺には水神社や地蔵堂があります。
 
    
戸田の渡し

 中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602)のことです。宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え、荒川は江戸を出るところに位置していました。この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。
 この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 
 また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。
 やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。

平成26年1月    戸田市教育委員会


        
         『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 蕨宿の近隣にあって一帯の水運を担う戸田の渡しが描かれている。人馬の別無く舟に乗り合い、白鷺が舞う戸田川を往く、天保の頃の人々ののどかな様子である。対岸の渡し場に続く道の左右には戸田村の家々が見える。渡船権はこの村が握っていた。

                     1880年代のようす。既に架橋されている。

 

                     2010年代のようす。河川敷が広くなっている。

「中山道」の2番目の宿は、蕨宿です。

「蕨宿」。板橋宿から2里10町。町並みは10町(約1.1㎞)。天保14年(1843)の「宿村大概帳」では人口2223人、家数430軒。本陣2、脇本陣1、旅籠23軒。問屋場1、高札場1。

 地名の由来については諸説あり、「藁火(わら-び)」説と「蕨」説に大別されます。
・「藁火」説
 源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁を焚いてもてなしを受けたことから「藁火」と命名した、など。
・「蕨」説
 近隣にも見られる「青木」「笹目」「美女木(びじょぎ)」[7]などといった植物由来地名と同様、蕨(ワラビ)が多く自生する地であったことに基づく命名とするもの、など。

 なお、「戸田の渡し」の川留めに備えて東隣りの塚越村にも本陣が置かれ、二の本陣、あるいは東の本陣と呼ばれました。

 蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていました。 この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられ、宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていました。
 古民家などが多数健在で、かつての面影を伝える町並みを残しています。

国道の喧噪から落ち着いた宿場歩き。道も茶色に。

「観光案内図」。

・・・

荒川の流れ(上流方向)。

埼玉県戸田市に入ります。

今度は、荒川左岸を進みます。右岸方向を望む。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« JR「赤羽」駅~「西浦和」... | トップ | JR「赤羽」駅~「西浦和」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

荒川を遡る」カテゴリの最新記事