おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

田島ヶ原サクラソウ自生地。治水橋。モーターパラグライダー。そしてドイツビール。(「荒川」を遡る。総集編。その4。)

2021-07-01 19:38:53 | 荒川を遡る

「国指定天然記念物 田島ヶ原サクラソウ自生地」。

 

                                                                                   

一面、広大な敷地。

遠くに「さくらそう水門」。一面、ノウルシの花。その間にちらほらとさくら草が可憐な花を咲かせています。

・・・かつて荒川流域にあった多くのサクラソウ自生地が、開発などで失われた今日、大都市近郊に往時の姿を留めて残っていることは奇跡ともいえます。また、江戸時代には荒川流域のサクラソウを原種として、多彩な園芸品種が育てられました。その遺伝情報を田島ケ原のサクラソウは保持しているのです。以上の理由で、「田島ケ原サクラソウ自生地」は、世界的にも貴重な存在となっています。

唯一の国指定特別天然記念物。サクラソウ、ノウルシの他、さまざまな草花が咲き乱れるようです。

奥の方にサクラソウ。一面、「ノウルシ」。

                

野焼き。

3/24サクラソウ。

(「」HPより)          

名残惜しいですが、上流に向かって出発。

「秋ヶ瀬橋」。

    「羽根倉橋」までけっこう長く続く公園。

左奥に荒川本体の堤防。工事中の区間。

  木立が続く。

「羽根倉橋」の先、サイクリングロードを進みます。上空に、モーターパラグライダーのエンジン音が。

     悠々と大空を。

左はゴルフ場。

その先、大きく広がる田畑。

ラジコン飛行機の手入れしている人たち。

大宮けんぽグラウンド」。

遠くに「治水(じすい)橋」。

荒川が現在の位置を通るようになったのは1926年大正15年)5月17日のことである。明治時代から続いた河川改修の一環で、直線化で取り残された旧川の曲線部はびん沼(今のびん沼川)となり、新しい川には渡船場が置かれ有料の賃渡船が運行されたが1927年(昭和2年)に県営化された。渡船場は「馬宮の渡し」と呼ばれ、治水橋とほぼ同じ場所に位置していた(「Wikipedia」より

                                                                          2010年代のようす。蛇行している川が元の荒川の流れ(「びん沼(川)」。左下の流れは、「新河岸川」。中央の橋が「治水橋」。(「歴史的農業環境システム」より)

「治水橋」に関わることを紹介。(以下、「荒川上流河川事務所」HPより)

びん沼は、荒川の河川改修で取り残された旧荒川の一部です。荒川の河川改修は大正期から1945(昭和20)年代にかけて、洪水対策として蛇行していた川筋を直線化する形で実施されました。そして、その河川改修、治水事業を推進したのは、旧荒川(びん沼)のほとりに実家のあった斎藤祐美です。

斎藤祐美(さいとうゆうび・1866(慶応2)~1943(昭和18)年)

・・・
利根川・荒川の両河川の洪水にしばしば見舞われていた埼玉県では、1910(明治43)年の大水害を期に埼玉治水会が結成されました。斎藤祐美は両河川の改修を県議会活動を通じて埼玉県だけでなく、帝都・東京府や国をも動かし、特に荒川の直線化・拡幅および放水路建設等の推進に中心となって尽力をつくしました。
斎藤祐美は「治水翁」呼ばれ、荒川に架かる治水橋(治水翁に因む)のたもとには功績をたたえる彰功碑が建っています。

「治水橋」。荒川を越す橋脚はどこも見上げるほど高い。

サイクリングロード。

  この先を右に下って行くと、JR「指扇」駅に。

さて、今日は、ドイツビールを飲むことにします。

        


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