右手には駐車場と小公園。そこには四阿と観光案内図があります。前方の山並みに因んだ解説板も。
関富士が女山なら 羽黒はをとこ 鈴鹿颪を受けて立つ
左手に「小萬のもたれ松」。
左に見える松がその松(もちろん植え替えられたもの)。
関の小萬のもたれ松
江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。
関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足(鈴鹿馬子唄)
平成6年2月吉日 関町教育委員会
「小万の仇討ち」の詳細はよく知りません。三重では「鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)」が有名。
この決闘(仇討ち)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討ったという事件。
「伊賀越の仇討ち」とも言われ、「曾我兄弟の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」に並ぶ日本三大仇討ちの一つ、とも(東海道沼津宿・狩野川河畔にある「平作地蔵尊」がこの仇討ちに因んだもの)。
それに比べて知名度は低いのでしょうが・・・。
ちなみにHPによれば、
江戸時代に起きた仇討ちは現在確認できるもので129件あったと言われています。しかし、返り討ちにあってしまうことや、仇の居場所が分からず逃げ切られてしまう場合なども多くあったため、仇討ちの成功率は数パーセント未満だったと考えられています。
しばらくは普通の家並みが続きます。
「東の追分」からいよいよ本格的な「関宿」の町並みに。
関町関宿重要伝統的建物群保存地区 東の追分 昭和59年12月10日選定
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています。
文部科学省 三重県 亀山市
鳥居の裏手にある「関一里塚址」碑。
そこから「常夜燈」ごしに。江戸・日本橋から106里目。
「関宿」のパンフレットがたいへん役立ちます。
連休中でしたが思ったほどの人混みもなくじっくりと歩きまわることができます。
「休泊 はせや(長谷屋)伊三郎」
「関宿」は、家々の日常生活そのものが行われているところ。観光地にありがちな「資料館」や「お土産さん」、食べ物店など最小限におさえられていて、まさに日常そのまま。そのためか、けっこう地元の車の通行も多い。他の伝統文化遺産関係のところが観光客目当ての商売が目立つ中で、この雰囲気はすばらしい。
「浅原家」。
同家は、屋号を江戸屋と称し、米屋、材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったところからそれ以前の建築年代と察せられる。
関町教育委員会
「御馳走場」。
関町関宿重要伝統的建造物群保存地区 昭和59年12月10日選定 御馳走場
関の街並みは、安土桃山時代の天正11年(1588)関盛信によって木崎、新所間に中町が建設されたときに基礎ができました。その後徳川幕府により宿駅が定められてからは、東海道五十三次で47番目の宿場として繁栄しました。
中心部の中町には宿場の中心的施設が集中し、比較的規模の大きい派手なデザインの町屋が 残っています。
ここは御馳走場と呼ばれ、身分の高い武家や 公家に対して宿役人が出迎えや見送りの儀式を行ったところです。また、関神社(旧熊野権現)の参道入口でもあります。
「鮮魚青果物商 遊快亭」。
遊快亭 坂口家
同家は、松鶴楼といい、かいうん楼と並んで芸妓置屋であった。松鶴楼もかいうん楼も江戸側の御馳走場の前にあって、関宿の中心部の入口をなす賑わった場所柄であった。また、同家には、太閤秀吉が実施した太閤検地の小崎村検地帳が所蔵されている。
関町教育委員会
雲林院家
同家は、昔はかいうん楼と称し、隣の松鶴楼と並んで芸妓置店であった。
街道筋の宿場ではたいていの旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。かいうん楼はその代表的なもので表の立繁格子やべにがらぬりのかもいや柱にその面影を遺している。
関町教育委員会
そんな面影を残す2階の外観。
写真を何枚撮っても追いつかないくらい、興味ある意匠の家々。
「百五銀行」。町並みに配慮した意匠の銀行。
平成9年度、三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞しました。
「亀山みそ焼きうどん」。数少ない食べ物屋さんの一つ。
そこで「亀山みそ焼きうどん」とは?
三重県亀山といえば古くから東海道の宿場町、現在は東西交通の要所。昔の町並みも、豊かな自然も、ハイテク産業と共存しているおもしろいまちです。
そこに誕生したB級ご当地グルメ、それが「みそ焼きうどん」。基本素材は”うどん”と味噌だけ。あとは焼くということ。
それぞれのお店が個性を出し、競い合って独自の味を出しています。
なぜ? みそ焼きうどんなの?
当地には旧国道沿いに焼肉屋が何軒かあります。従来は大型トラックの運転手が多く利用する店でしたが今では家族連れや若者もたくさん利用しています。ここでは味噌で焼肉をしながら玉うどんをぶっこんで食べるのが通の食べ方です。より味の濃厚となった味噌でうどんを食べる、まさに究極のB級ご当地グルメです。
この当地の隠れた名物をより多くの皆さんに楽しんでいただこうと、市民有志が立ち上がりました。その名も”亀山みそ焼きうどん本舗”
市内各所の食堂に「あなたのお店でつくってみませんか?」と呼びかけました。こうしていくつかのお店が「みそ焼きうどん」を独自に工夫して味を競い合っています。
(HPより)
「亀八食堂」 「うえだ食堂」
(「亀山みそ焼きうどん - マイナビニュース news.mynavi.jp › 旅行 › 国内・地域 › 東海」HPより)
ぜひ入ってみたかったですが、満員だったので、パス!
関町 関宿 国選定 重要伝統的建造物群保存地区
関の地名は7世紀、この地に「鈴鹿関」が設けられたことに由来します。江戸時代以降は地蔵院を中心に東海道で47番目の宿場として栄えました。
宿場の西端は大和街道との、東端は伊勢別街道との分岐点で、豊かな自然環境の中、古くから交通上の重要な地でした。
街道筋には今日でも200棟以上の伝統的な家々が立ち並び、かつての宿場町の様子を知ることができます。
関富士が女山なら 羽黒はをとこ 鈴鹿颪を受けて立つ
左手に「小萬のもたれ松」。
左に見える松がその松(もちろん植え替えられたもの)。
関の小萬のもたれ松
江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。
関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足(鈴鹿馬子唄)
平成6年2月吉日 関町教育委員会
「小万の仇討ち」の詳細はよく知りません。三重では「鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)」が有名。
この決闘(仇討ち)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討ったという事件。
「伊賀越の仇討ち」とも言われ、「曾我兄弟の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」に並ぶ日本三大仇討ちの一つ、とも(東海道沼津宿・狩野川河畔にある「平作地蔵尊」がこの仇討ちに因んだもの)。
それに比べて知名度は低いのでしょうが・・・。
ちなみにHPによれば、
江戸時代に起きた仇討ちは現在確認できるもので129件あったと言われています。しかし、返り討ちにあってしまうことや、仇の居場所が分からず逃げ切られてしまう場合なども多くあったため、仇討ちの成功率は数パーセント未満だったと考えられています。
しばらくは普通の家並みが続きます。
「東の追分」からいよいよ本格的な「関宿」の町並みに。
関町関宿重要伝統的建物群保存地区 東の追分 昭和59年12月10日選定
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています。
文部科学省 三重県 亀山市
鳥居の裏手にある「関一里塚址」碑。
そこから「常夜燈」ごしに。江戸・日本橋から106里目。
「関宿」のパンフレットがたいへん役立ちます。
連休中でしたが思ったほどの人混みもなくじっくりと歩きまわることができます。
「休泊 はせや(長谷屋)伊三郎」
「関宿」は、家々の日常生活そのものが行われているところ。観光地にありがちな「資料館」や「お土産さん」、食べ物店など最小限におさえられていて、まさに日常そのまま。そのためか、けっこう地元の車の通行も多い。他の伝統文化遺産関係のところが観光客目当ての商売が目立つ中で、この雰囲気はすばらしい。
「浅原家」。
同家は、屋号を江戸屋と称し、米屋、材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったところからそれ以前の建築年代と察せられる。
関町教育委員会
「御馳走場」。
関町関宿重要伝統的建造物群保存地区 昭和59年12月10日選定 御馳走場
関の街並みは、安土桃山時代の天正11年(1588)関盛信によって木崎、新所間に中町が建設されたときに基礎ができました。その後徳川幕府により宿駅が定められてからは、東海道五十三次で47番目の宿場として繁栄しました。
中心部の中町には宿場の中心的施設が集中し、比較的規模の大きい派手なデザインの町屋が 残っています。
ここは御馳走場と呼ばれ、身分の高い武家や 公家に対して宿役人が出迎えや見送りの儀式を行ったところです。また、関神社(旧熊野権現)の参道入口でもあります。
「鮮魚青果物商 遊快亭」。
遊快亭 坂口家
同家は、松鶴楼といい、かいうん楼と並んで芸妓置屋であった。松鶴楼もかいうん楼も江戸側の御馳走場の前にあって、関宿の中心部の入口をなす賑わった場所柄であった。また、同家には、太閤秀吉が実施した太閤検地の小崎村検地帳が所蔵されている。
関町教育委員会
雲林院家
同家は、昔はかいうん楼と称し、隣の松鶴楼と並んで芸妓置店であった。
街道筋の宿場ではたいていの旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。かいうん楼はその代表的なもので表の立繁格子やべにがらぬりのかもいや柱にその面影を遺している。
関町教育委員会
そんな面影を残す2階の外観。
写真を何枚撮っても追いつかないくらい、興味ある意匠の家々。
「百五銀行」。町並みに配慮した意匠の銀行。
平成9年度、三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞しました。
「亀山みそ焼きうどん」。数少ない食べ物屋さんの一つ。
そこで「亀山みそ焼きうどん」とは?
三重県亀山といえば古くから東海道の宿場町、現在は東西交通の要所。昔の町並みも、豊かな自然も、ハイテク産業と共存しているおもしろいまちです。
そこに誕生したB級ご当地グルメ、それが「みそ焼きうどん」。基本素材は”うどん”と味噌だけ。あとは焼くということ。
それぞれのお店が個性を出し、競い合って独自の味を出しています。
なぜ? みそ焼きうどんなの?
当地には旧国道沿いに焼肉屋が何軒かあります。従来は大型トラックの運転手が多く利用する店でしたが今では家族連れや若者もたくさん利用しています。ここでは味噌で焼肉をしながら玉うどんをぶっこんで食べるのが通の食べ方です。より味の濃厚となった味噌でうどんを食べる、まさに究極のB級ご当地グルメです。
この当地の隠れた名物をより多くの皆さんに楽しんでいただこうと、市民有志が立ち上がりました。その名も”亀山みそ焼きうどん本舗”
市内各所の食堂に「あなたのお店でつくってみませんか?」と呼びかけました。こうしていくつかのお店が「みそ焼きうどん」を独自に工夫して味を競い合っています。
(HPより)
「亀八食堂」 「うえだ食堂」
(「亀山みそ焼きうどん - マイナビニュース news.mynavi.jp › 旅行 › 国内・地域 › 東海」HPより)
ぜひ入ってみたかったですが、満員だったので、パス!
関町 関宿 国選定 重要伝統的建造物群保存地区
関の地名は7世紀、この地に「鈴鹿関」が設けられたことに由来します。江戸時代以降は地蔵院を中心に東海道で47番目の宿場として栄えました。
宿場の西端は大和街道との、東端は伊勢別街道との分岐点で、豊かな自然環境の中、古くから交通上の重要な地でした。
街道筋には今日でも200棟以上の伝統的な家々が立ち並び、かつての宿場町の様子を知ることができます。
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