おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

舞阪・東海道松並木。浪小僧。見付。一里塚。・・・ (舞阪駅から二川駅まで。その1。)

2015-04-26 22:36:59 | 旧東海道

 久々に「東海道」の旅。4月22日(水)。ぐずついていたお天気もようやく晴れ間が出てきた、そんな一日。今回は、静岡県湖西市から愛知県豊橋市へ。伊豆・駿河・遠江と来て、いよいよ三河の国に入るわけです。

①箱根峠から三島
②三島から片浜
③片浜から富士
④富士から新蒲原
⑤新蒲原から興津
⑥興津から静岡
⑦静岡から宇津ノ谷峠
⑧宇津ノ谷峠から藤枝
⑨藤枝から金谷
⑩金谷から掛川
⑪掛川から磐田
⑫磐田から舞阪

 そして、今回。

⑬舞阪から二川(愛知県)

 「三島から片浜」では、沼津の廃線跡を往復し、千本浜に立ち寄り、また「富士から新蒲原」では、出先からの寄り道のため、午後の時間の少しだけ、「宇津ノ谷峠」では、明治のトンネル、旧東海道、それ以前の古道(蔦の細道)等を探索し、と予定よりも日数がかかりましたが(そうそう、「薩埵峠」は、白雪の富士山を見たさに二度行きました)、何とかやっと静岡・遠江から愛知・三河へ。
 「富士川」「安倍川」「大井川」「天竜川」を渡り、西風の強い中を歩き、富士山を右手前から真横、そして次第に後ろへ振り返るようになり、そしていつしか見えなくなり・・・、さまざまな思いも込めての今回。
 江戸時代なら、往還する旅人は一日40㎞近く歩いたそうです。箱根峠からここまでは、5、6日の行程だと思いますが。
 それにしても、静岡県はもともと三つの国があって、東から西へと細長い、ということを実感しました。

 JR舞阪駅から東海道に復帰です。すぐ行く手にあるのが「松並木」。

    「東海道松並木」。

 左側の歩道沿いに東海道53次の各宿場のプレートが安藤広重の53次の浮世絵をレリーフにして、順番に並んでいます。


    
         起点の「日本橋」。                  「掛川宿」。

そして「舞坂宿」。ひときわ大きな石碑。

舞坂 今切真景

 舞坂宿は江戸日本橋から67里(264.9キロ)、品川宿から数えて30番目の宿である。
 東海道の陸路は舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を便りとして渡ることになる。浜名湖は、かって遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切と呼ぶ。地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。

 左には、広重の浮世絵の大きなレリーフ。


   東海道五十三次之内 舞坂 今切真景 / 歌川 広重

 舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。
(「知足美術館」HPより)

そこから振り返って望む。

「白須賀宿」。

「舞坂橋跡」。

 ここには江戸時代舞坂宿唯一の橋である舞坂橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南側から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水が流れていました。
 天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。
 字 舞坂橋
 土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立弐組
 是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛りにて御普請これあり、・・・、もっとも土橋のため保持に難あり宿役で板橋に架換えをした。

 舞阪町教育委員会

 東海道の終点「京都」。

そこから松並木を振り返る。
 
松並木の最後の地点には金色の小僧像。

    

浪小僧

 むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。
  遠州七不思議より

 その後、「国道1号線」新町交差点を斜めに横切ります。

静かな道となります。

 しばらく進むと道の左右に石垣がある交差点となります。ここが見付跡。道幅も狭くなります。

    

史跡 見付石垣

 この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。
 石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709年)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。

 舞阪町教育委員会

 こうして30番目の宿場、舞阪に着きました。宿内に入ってすぐに、

                           
 左手にある「常夜燈」と「一里塚跡」碑。                   右手にある「一里塚跡」碑。

    

一里塚跡

 江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより日本橋を起点として1里(3.9㎞)ごとに、道の両側に土を盛り、その上に榎や松等を植えた一里塚が整備されていった。
 一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。
 舞阪の一里塚は日本橋から68里(約267㎞)に位置し、松が植えられていた。

 舞阪郷土史研究会・浜松市


新町 常夜燈

 舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809年)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜燈を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。
 常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ、地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。

舞阪郷土史研究会・浜松市

    
  かつての宿場の詳細情報。                       現在の町並み。

 宿内に入ると、今でも古い町並みの雰囲気が残っています。

案内板。

 これによると、見付石垣から渡船場の雁木(がんげ)まで約800㍍。本陣・問屋場など宿場の主要施設は西町にあった、という。

 少し進むと左手に2つ目の常夜灯があります。

    

仲町 常夜灯

 文化6年(1809)に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いにより、4年後の文化10年5月吉日にこの常夜灯が建立されました。両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7㍍あります。なお、西側の石の祠は、秋葉山をまつってあります。ちなみに、ここ宝珠院は舞阪町において、明治6年(1873)小学校が初めて開かれた所です。

 舞阪町教育委員会

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