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満開になった都内の桜。お天気もよし、そこで、「坂道探索」というしだい。
4月2日(木)。
山野勝さんの『古地図で歩く 江戸と東京の坂』(日本文芸社)、今回はその「小日向の坂」(P145~P176)をよりどころにして。
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この書のすばらしい点は、現在(の地図)と江戸末期の切絵図―嘉永2年(1849年)―とを比較対象し、自ら実際の道筋を辿って(読者に道順を示していて、後追いするのに大変便利)考察しているところ。蘊蓄の傾け方は、さすが「日本坂道学会会長」さんだけのことはあります。
都心部が再開発などで大きく変貌している中で(建物だけでなく、道の付け替え・拡幅・整備などあって)、坂道と沿道、周囲の景観の現在のようすが写真入りで紹介され、読み物としても大変興味深い。実際に歩けば、それも倍増される、という趣。
刻々と変化する都心部。それでも坂や道路は江戸時代とほとんど変わらない、歩くと、そんな発見もあって楽しい探索ができます。
さらに、
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は、東京23区に700以上存在する「名前の付いた坂道」を実際に歩いて集めたサイト。
現地を踏査して写真もたくさん掲載されています。坂の上下方向などが地図入りで克明に記され、特に、区などが設置した「解説板」を網羅し、紹介しています。このサイトもけっこう参考していますが、そのすごい量に圧倒されます。
さて、「江戸川橋」駅から「茗荷谷」駅まで。約1時間40分。
これまで、本郷、湯島、春日と歩いきて、今回は小日向方面。こうしてみると、文京区は上り下り、坂道の多い町だと改めて実感しました。
「江戸川橋」を地上に出ると、「神田川」沿いの江戸川公園の桜も満開。大勢の人が行き来していました。そこを横目で見ながら「目白坂下南」の交差点を渡り、反対側に。コンビニの脇を右に入ると、正面に上り坂。ここが、今回の最初の坂「鷺坂」。
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鷺坂(さぎざか)
【標識(文京区教育委員会設置)】
この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。
この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892~1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつゝ秋は散りけり」とある。
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上の解説文にもあるように、大正以降、「久世山」一帯が住宅地となったときに新しく造られた坂。「鷺坂」という名は、万葉集の歌から採った。
碑のあるところから左折して上って行く。
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鷺坂を下り、最初の角を右に折れる。
右手は見上げるような石垣。
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この道(もしくは崖下)は、かつて川筋だったようだ(「歴史的農業環境閲覧システム」参照)。
右手にある「今宮神社」の先を右折すると、「八幡坂」。
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八幡坂(はちまんざか)
【標識(文京区教育委員会設置)】
『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と東京名所図会にある。
明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。
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けっこう急なコンクリートの坂。中央の石段には手すりがつけられてある。上りきったところで、左折する。
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階段の脇のスロープは、自転車用。上りにはこちらを歩いた方が歩きやすい感じ。他の坂でもそうだが、自転車がこのスロープ部分を下りたり、上ったりしている光景を見ることが多い。
かなりきつそうな印象だが、住民にしてみれば日常生活そのものに坂道が溶け込んでいるのだろう。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
赤い→が「八幡坂」。青い→が、雑司ヶ谷を水源として「久世山」の下を流れ、神田川に注いでいた川。この頃、「鷺坂」はまだないことが分かる。
中央上部の、整然と区画された一角(小日向台町3丁目)は「御賄組」の屋敷跡。「御賄組」は、御賄頭(おまかないがしら)のもとで江戸城の台所の食材の調達などを切り盛りする役人、一説には毒見役も兼ねていたらしい。
坂上近くの左手に、
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盛岡中学校を卒業直前で退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして中学の先輩で金田一京助と同級生の細嶋夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。明治35年11月1日のことである。
その翌日、近くの大館光方に下宿を移した。
啄木日記には「室は床の間付きの七畳。南と北に縁あり。眺望大に良し」とある。
与謝野鉄幹・晶子らに会い、文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため翌年2月、帰郷せざるを得なかった。
文京区教育委員会 平成18年3月
坂上から坂下を望む。
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坂上の台地の左側は、「鳩山会館」。塀越しに洋館が見え隠れしている。右手は東西にほぼ直線の道路が等間隔に通り、住宅街になっているのが、「御賄組」住居跡。
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西から東を望む。
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その一角の西北の外れから「音羽通り」(音羽谷)に一気に下っている坂が「鼠坂」。
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【標識(文京区教育委員会設置)】
音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。
鼠坂の名の由来について「御府内備考」は「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などといふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。
森鴎外は「小日向から音羽に降りる鼠坂と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説「鼠坂」でこの坂を描写している。
また、“水見(みずみ)坂”とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。
ここでいう「弦巻川」は、音羽通りの西側を流れていた川の名。
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江戸時代はもっと狭く、また「人力車」の往来にも大変だった明治時代よりは道も広く、コンクリートで舗装され、石段があり、手すりも付いていて通りやすくはなったようだが、それでも大変そう! この坂を前の荷台に大きな荷物を載せて、自転車を押しながら降りてくる地元の方。
それよりも驚いたのは、坂道の途中の家を解体している業者。ユンボ(油圧式ショベルカー)を使って家を取り壊していた。どうやってこの機械をここまで運び入れたのだろうか?
しばらく見ていると、手すりを取りはずして広くなった道を行き来していたことに気づいた。なるほど! これから家の新築? 大型機械が通行できない場所での作業もまたまた大変なことだろうが、そこは地元の知恵で・・・。
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旧小日向台町
古くは小日向村の内で、鼠ヶ谷、小松原と称した。畑地であったが、いつの頃から町家になたかはわからない。元禄のころ(1688~1704)まで小日向新町と称していたが、小日向台町と改めた。高台であったので、台町としたのであろう。
明治2年、清巌寺前、八幡坂町を併せた。同5年、旧幕府賄組屋敷および新屋敷と呼んだ土地を併せた。・・・
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東から西を望む。
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