おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大日坂。服部坂。薬罐坂。漱石。・・・(小日向の坂。その2。)

2015-04-04 17:31:42 | 都内の坂めぐり

 いったん下った「鼠坂」の急坂を上り(けっこうきつい!)直進して、少し広くなった道を右折する。かつての「御賄組屋敷」の一角の東側の通りとなる。少し左にカーブする道をそのまま南下していくと、下り坂になる。「大日坂」。

    

 大日坂 (だいにちざか)

【標識(文京区土木部)】

 この坂は昔、坂の上にあった田中八幡宮にちなんで八幡坂と呼ばれていました。後に八幡宮が音羽町8丁目の裏通りに移転してからは、坂下の妙足院の大日堂にちなみ、大日坂と呼ばれるようになりました。
 大日堂は、大日如来を祭り江戸時代から小日向の名所として知られてきました。明治時代に入ると、毎月八の日の縁日には、水道通りにたくさんの露店が並び賑わっていました。また、坂下の神田川(旧称江戸川)は、明治末まで土手に植えられた桜並木が有名でした。

【別の標識(文京区教育委員会)】(坂の途中にあるもの)

 「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)
 この「大日堂」とは寛文年中(1661~73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。
 坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。
 この一円は寺町の感のする所である。

    この町に遊びくらして三年居き
      寺の墓やぶ深くなりたり      折口信夫(筆名・釈迢空1887~1953)


「水道通り」に緩やかに下っていく。

    
 坂の途中から。                              「水道通り」から望む。




1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 Aが「大日坂」、Bが「服部坂」、Cが「薬罐坂」。いずれも長い坂道。
 赤い↑が、「水道通り(巻石通り)」=旧神田上水、青い↓が「神田川」。「大日坂」の西側が「久世山」(この当時は、「陸軍病院」敷地)

 「水道通り」=「巻石通り」を東に向かう。この通り(旧神田上水)については、「江戸川公園」から水道橋の「後楽園」まで探索して、このblogにUPしたことがある(2013年10月2日~4日)。

                

 しばらく行くと、左手に、同窓生が建てた「旧黒田小学校」の碑がある。

 

 黒田小学校縁起

 われらの母校黒田小学校は明治11年2月ここ小日向水道町に創建された。その校名は当時水道端2丁目居を卜せられた侯爵黒田長知氏が維新の勲功による政府賜米2千石を東京府に献納しもって学校設立の資に充てんことを請願せられたによるものである。尓来、校運、日に隆盛に赴き、昭和11年7月には旧木造校舎を改築して鉄筋コンクリート造り3階建てとなし、形式内容共に充実した小学校となり校名ますます隆々たるものがあった。たまたま大東亜戦争の勃発に会い、学童を宮城県松島に疎開せしむることとなったが、昭和20年5月25日帝都空襲の戦火に包まれて、校舎は遂に荒廃に帰したために翌21年3月廃校となり、ここに春風秋雨70年の歴史を閉じたのである。校舎はその後修復せられて現に文京区立第五中学校となっているが・・・ 

 その「第五中学校」も平成21年(2009年)3月、統廃合によってなくなり、現在はその場所に「文京総合福祉センター」が建っている。そこを左に上がっていく坂が、「服部坂」。

    

服部坂 (はっとりざか)

【標識(文京区教育委員会)】

 坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。
 永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・」と書いている。
 坂下にある文京区第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。

上から望む。右手が「文京総合福祉センター」。

 上って行くと、左手に「小日向神社」、右手に「福勝寺」。「福勝寺」の南、東に延びる坂が「横町坂」。

「横町坂」にある昔ながらのおうち。


 現在の小日向台町は、お寺と民家・マンションなどが混在する地域。細い路地や坂道、参道などもあって、思ったよりも複雑な地形となっている。
「福勝寺」の先、路地風の道。

    
 東側を望む。                                 閑静な住宅街。

 しばらく進むと、左手に「新渡戸稲造旧居跡」の碑。

 新渡戸稲造 文久2年(1862)~昭和8年(1933) 教育者・農学博士・法学博士
 南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)に上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京帝国大学専科に学び、さらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。
 ・・・(東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任)
 国際的にも広く活躍し、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長となり、「連盟の良心」といわれた。昭和2年(1927)帰国の後、太平洋問題調査会理事長となった。きびしい国際情勢のもと、平和を求めて各地の国際開銀に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。
 当地は、明治37年(1904年)から昭和8年(1933年)まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。

 文京区教育委員会   平成25年2月

 「小日向台町小学校」の角を右折。ところどころに案内板があるのが、親切。

来た道を振り返る。

 しばらく進んで、最初の十字路を右折。急な下り坂になる。右手に「生西寺」境内前の小さな公園。その先からも急な下り。 

振り返る。左手が「生西寺」境内。

 しばらく行くと、ほぼ直角で右に折れ、またすぐ左に折れる(江戸の頃と同じ)。この坂が、「薬罐坂」(やかんざか)。特に「標識」は見当たらなかった。
    
                        振り返ってみたところ。

 この「薬罐坂」。ネーミングの面白さがあるので、いわれを記した「標識」があってもよさそうなものだったが。
 そこで、山野勝さんの書から一部、孫引きのかたちになるが、紹介。

 薬罐坂は野豻(干)坂・ヤカン坂とも書く。野豻とは野犬や狐のことをいう。横関英一著「江戸の坂 東京の坂」によると「ヤカン坂」の説明には次の4つがあるという。
①雨後の坂道が銅製の薬罐のように、ピカピカに赤光りしていた。②坂下に薬罐を作る職人が住んでいた。③雨の夜などに薬罐の化け物がころがり出た。それは野干、すなわち狐などが化けたものであろう。④暗くて気味の悪い、狐や狸でも出そうな坂のことをいった。
 ・・・切絵図の中で、生西寺のところに「山中ト云う」と書かれている。江戸時代、この坂の両側には樹木がうっそうと茂っていて、まるで「山中」にいるような、気味の悪い場所だったと想像される。(P163)

 今では、「生西寺」付近を除き、まったくそういう面影もない道筋になっている。そのまま下って、「水道通り」に戻る。
 
振り返って望む。

 「水道通り」の左には、お寺が続いている。「本法寺」門前には、夏目漱石に因んだ碑がある。
                   
 
 ・・・夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。明治14年に母、20年3月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊つちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。
 境内には早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句がある。

 早稲田大学創立125周年記念 「早稲田大学で教鞭をとった文豪シリーズ」

 漱石の句碑 「梅の花 不肖なれども 梅の花」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鷺坂。八幡坂。鼠坂。御賄組... | トップ | 荒木坂。庚申坂。切支丹坂。... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

都内の坂めぐり」カテゴリの最新記事